〈こころ〉を観る
「今日は、〈こころ〉を観てみよか。」
河の岸辺でマスターは言った。
「〈こころ〉とは不可思議なものや。
自分のもののようでいて、自分のものではない。
おちついて、そのビミョーな動きまでじっと観てみると、気付くことがたくさんあるはずや。
さて、と。
じゃあ、この岸辺に坐ろうか。」
ソラとウミは、落ち着いた静かな座りやすい場所を見つけて、そこに腰を下ろした。
「背筋は伸ばして。
そう。頭のてっぺんと、背骨、尾てい骨までが一本の糸で吊るされてまっすぐになっているように・・・。
目は閉じ切らないで、ほんの少し前を見る。
そして、まずは息だけに集中してみること。」
マスターの言葉は、最低限のことだけだった。
それまでの語りや探求とは打って変わった。
ただ、理論や理屈よりも、やり方や形のみを大切にした。
そこでは、ただ沈黙と静寂こそが、言葉よりも雄弁に身体に語り掛けた。
私たちが、普段文字を読み、音を聞き、意味を受け取る時、
むしろ本当は、私たちは文字や言葉になっていない空白をこそ受け取り、意味にならない空洞をこそ掴んでいるように。
チーンと鐘が鳴る。
耳で聞こえなくなったとしても、その音の響きはきっと終わることはなく、宇宙全体に広がっていき、宇宙が奏でている「うた」のメロディーラインのひとつに加えられる。
ソラは、自分の中を空っぽにしようとした。
自分を無にしようとした。
〈こころ〉が、鏡のようにすべてを映し出す、全く波の立たない湖面のような状態になるように。
・・・しかし、ほどなくして、そんなことはどうしても無理だということに気が付いたのだった。
ふと気が付くと、頭の中では、何かを考えてしまっている。
それも、ほとんど無意識のうちに。
次から次へとどこからともなく出てくる。
前から、横から、後ろから。とりとめもなく。
それを一つの形にして容器に入れておくこともできない。
それは、まるで空の雲のように次々とどこからともなくあらわれては、形を変え、そして消えてゆく。
出てきたものは、それをきっかけに、また次のイメージや考えを生み出してゆく。
誰も今自分に話しかけているわけではないのに、頭の中での〈おしゃべり〉はやむことがない。
流れる川の水を失くすように、無になること、何も考えないことはできない。
そのかわり、ソラはそれらのどこからともなく雑草のように生えてくる考えが生じる瞬間を見逃すまいと、一層心をおちつけて、自分の頭の中で何が生まれてくるかをじっと待ちかまえるように観ることにした。
そして、その考えがどのように変化し、そして消えていき、別の考えにとってかわられるかを。
しかし、それに気が付いたとしても、掴まないこと。
ただ、観る、感じる、そのまま流してゆくことにした。
一方で、常に身体の感覚、呼吸、いま・ここのみに〈こころ〉を集中させる。
いまに、ここに、戻ってゆく。
ただそれだけを繰り返してゆく。
〈こころ〉はガラスのコップの中で四六時中かき回されている泥水のようなものだ。
日々生活している間、その泥水がいつも新しい泥を生み出しながらかき回されていることに気が付くことはない。
坐っているあいだ、ソラたちはそのコップの泥水の流れを止めようとしていたが、しだいに、かき回される様子をただ見るようになっていった。
そうしているうちに、コップの中の水は次第に動きを失くしていき、泥が下に沈殿し、クリアで透明な水が見えてくるようになる。
ソラは何かに気が付く。
〈こころ〉は、自分のもののようでいて、完全に自分の思い通りになるものではない。
完全に自分が動かしているようでいて、そうでない部分は実に多い。
自分では気が付いていない自分が存在する。
そして、気が付くこともできないし知ることさえもできない領域が遥かにはるかに広がっている。
ソラの意識をスクリーンとして、〈こころ〉は映画のようにとめどもなく、ソラがそれまで触れたり、出会ったり、経験してきたものをチラチラと映し出し、自動的に編集し、そして画面の外へ去っていくことを繰り返した。
それらが完全に消え去ることはない。
しかし、それらが、ずっと変わらずに永続し続けることもない。
ソラはそれらのすべてを受け入れることにした。
〈息をすること〉。
そのことだけは自分の〈こころ〉が勝手に行うこともでき、またソラ自身が意識的にコントロールできるものだ。
どれくらいの時間がたったかどうかわからない。
ソラは時間さえ忘れていた。
そして、「自分」というものすら忘れていた。
ソラは、ただ〈感覚〉だけになっていった。
ただ〈感覚〉として存在していた。
あらゆる言葉は、〈感覚〉から切り離されたものであり、決して〈本当のこと〉そのものにはなりえなかった。
〈感覚〉がふくらむ、しぼむ。ただそれが繰り返される。
未来も過去も世界も、ない。
〈こころ〉は、世界を掴もうとして、猿のようにあちこち飛び回り、そして暴れまわっていた。
しかし、そうさせておけ。そうさせておくがよい。
ソラの目の半分は、目の前の世界。
もう半分は、自らの内側の感覚へとむけられていた。
・・・「自分」・・・「自分」というものは本当に存在するのか?
それは、言葉でもない。
変わらない一つのものという感じもしない。
「自分」は・・・ただ、そう呼んでいるだけにしか過ぎないのではないのか?
ただ、いま・ここの中心に一つの連続する感覚、意識の流れがあるだけだ。
言葉にしようとした瞬間から、〈それ〉は〈それ〉ではなくなり、説明しようとした瞬間から、〈それ〉の感覚は崩れ落ちるのであった。
何という矛盾だろうか。
結局のところ、ソラは言葉を放棄して、〈そこ〉に・・・その流れの現場にただとどまり、〈ただ在る〉それだけにした。
ソラが〈それ〉になったのではない。
違う。
〈それ〉が今ここで、〈自分〉しているのだ。
〈それ〉が空となり、川となり、海となり、花となり、草となり、星となり、
その感覚の中心が〈自分〉と呼ばれる。
いま、ここで、何ものかが〈わたし〉しているのだ。
〈わたし〉の存在は、〈わたし〉に依るものではない。
〈それ〉の・・・その生命のほんの針の先の一部分が〈わたし〉として、この世界に現れ、自己を表現しようとしている。
〈それ〉・・・その生命は、ソラを通して、世界とふれあい、知ろうとしていた。
心臓が動き、呼吸をする、体の深いところ、細胞の一つ一つが組み立っていること、
それは、私自身がそうしているのではなく、なにか生命がそうさせている。
坐ったら、そうなったのではない。
違う。
もとよりそうだったのだ。
〈それ〉がわたしの隅々のうちまで入り来たって、いまわたしを座らせている。
わたしは、生かされている!
チーン。
水に潜っていた人が水面に顔を出すように、目を開ける。
時間は?
時間のなかに、ソラたちは坐っていたのではなかった。
坐りのうちに時間があったのだ。
「はにゃっ!」
どてっとウミがしりもちをついて、足を撫でている。
慣れないことをしたため、痺れたようだ。
マスターは何事もないかのように、ゆっくりと合掌して、一歩一歩ゆっくりと音もなく岸辺を歩く。