暗黒界へ
ハルが顔をあげると、ザッハ・トルテ、シャンディ・ガフ、ケンが並んでいた。
その時、ハルは彼らを恨む気持ちにも裁く気持にも復讐する気持ちにも全くなれなかった。
むしろ、〈トゲ〉に苦しむ哀れで寂しい存在だったのだと思い、彼らを〈たいせつ〉にしようとせずにはいられなかった。
「なぜ・・・なぜ、そんなばかな・・・
なぜ・・・このオレにこんなあふれる気持ちがあるのだろう。」
自分を追い詰めた敵どもを愛おしく思わずにはいられない自分に驚いていた。
ハルがそのような目で彼らを見ると、
彼らの顔も生きていた時のそれとは違う何とも清々しい顔つきだった。
もう・・・もう、必要ないんだ。
恐れる必要も。
守ろうとする必要も。
威張る必要も。
むさぼる必要も。
彼らはもはやありとあらゆる穢れや欲望を持つその必要性はなくなっていた。
それは、まるで浄化された泥水が透明になるごとくに。
「生きていた時は、すまなかったね・・・。」
ザッハ・トルテがそうやって頭を下げる。
「ハル・・・ごめんね。」
シャンディ・ガフも謝る。
「・・・仕方がないよ。
自分で何をしているか、分からなかったんだもの。」
劇の舞台では互いに争い合っていた同士が、舞台裏では「お疲れさまでした」とねぎらうようなそんな雰囲気だ。
「フフフ・・・〈暗黒界〉に行かねばならぬのは、我々のほうだな。
我々には、必要な償いがある。
宇宙は公正だ。
やったことの責任は自分で取らねば決して自由になれないからな。」
そのようなことを自分に対して課すザッハ・トルテ王の目の輝きをハルはどうやって受け止めていいか分からず、思わず笑いだしそうになった。
「・・・まあ、そうかもしれないな。
しかし、それを言えば・・・オレも〈暗黒界〉だよ。
多かれ少なかれ、誰もが・・・そうかな。」
皆は、連れ立って〈暗黒界〉へと向かうことにした。
〈暗黒界〉は確かに存在した。
そこには、果てしない闇の中に消えることのない煮えたぎったマグマの海があった。
「さあ、いよいよ〈暗黒界〉か。
入ったら、半永久的に出てくることはできない・・・。
まてよ・・・扉に張り紙がしてあるぞ。
何々・・・?
『〈暗黒界〉は閉鎖されました。
住人は皆すでに解放されて、喜びの国にいます。
〈トゲ〉もすべて抜き取られました。
詳しいことは、〈はじめのこころ〉のところまで行ってお尋ねください。』」
「暗黒界には行けないのか・・・!?」
「いや・・・どうしても行きたいというなら、行っても構わないと思うが・・・。
誰か行きたいものはいるか?」
皆首を横に振る。
仕方がなく、一行は、道を引き返し、光の方に向かった。
その光はすべてを受け入れ包み込む光だった。
ところが、光はあまりにもまぶしすぎて、直視できるものではなかった。
ダイモンが現われて言った。
「ようこそ。よろこびの国へ。
ここでは、〈たいせつ〉だけがほんとうのことです。
〈たいせつ〉でないものはすべて置いていかないとそのよろこびを味わうことができません。
どうぞ、〈こころ〉にある〈たいせつ〉以外のすべてを捨てていかれますように。
服を着たまま温泉に入ることや身体に泥をつけたままま湯船に入るのがマナー違反であるように、
まずは、皆さんはここで汚れをきれいにしていかねばなりません。」
彼らは、目の前にある光を横目に見ながら、
ダイモンたちと協力して自分の〈こころ〉の棚卸をしてゆくことにした。
ダイモンは優しく声をかける。
「しばらくの間、我慢してくださいね。」
その後、絶叫が聞こえるのだった。
「痛い痛い痛い!」
「熱い熱い熱い!」
光は〈たいせつ〉で生きた〈こころ〉にはよろこびであったが、
そうでなかった部分にとっては、痛みや熱さをともなうものだった。
「はい~ちょっとの間我慢してくださいね。」
「ぎゃーーーー!」
そう叫ぶ人々の〈こころ〉はそのプロセスが、〈こころ〉を浄化するために必要なものだと知っていたので、ひとつのマッサージや治療のようなものだと心得ていた。
この〈こころの世界〉では、自分が他者に対してなしたことがすべて自分にやってきた。
それも、単なる行為だけでなくて、他者に対して発した〈こころ〉の在り方までもをそのまま自分が受け取るのだった。
善き事も、悪いことも。
それも、生きていた時の何倍もの勢いで流れ込んでくるのである。
〈トゲ〉が快と思い込ませていたものは、この〈こころの世界〉においては全く無用な苦痛であった。
それを捨て去る時に、彼らは苦痛と解放との両方を味わった。
抵抗すればするほど痛みは持続したが、
受け入れることによって、〈こころ〉はより光に近付いていくのだった。
そして、その光のなかで、さまざまなことが見えるようになっていくのだ。
ダイモンたちは、マスターと同じように、決して彼らを裁くこともなく、恐れさせようともせず、
むしろ、許しと和解と安心をもたらすように働きかけるのであった。
〈トゲ〉はこの光に照らし出されて、〈こころ〉の形をうつくしいものに形作っていたことに気が付いた。
〈トゲ〉は光の中では決して見えてこない、〈こころ〉の〈ほんとうのこと〉を展開させるはたらきがあったのだ。
ザッハ・トルテたちはハルに対して言った。
「戻りな。ハル。
あんたには一仕事残っている。」
「・・・あ・・・ああ。」
「また会おう。」
マスターがあらわれた。
「さあ、戻ろうか。ハル。」
「・・・マスターは、そういえば、一度も彼らを裁いたことがなかったですね・・・。
たとえどれだけ、卑しめられて、傷つけられて、孤独のうちに陥っても、
決して彼らを恨んだり、天罰を願うことはなかった。
ただ・・・一方的に許し続け、それでも〈たいせつ〉にすることに、倦むことがなかった。
オレたちは何度も何度も裁き、許すことができなかった・・・。
どうしたら・・・どうしたら、あなたのようなことができるのか・・・
ずっと分からなかった。
だけど、あなたの生きた血潮が、死せる私を生かすとき、分かるのです。
〈たいせつ〉に敵はないと。
限界はないと。
まるで太陽が、差別をしないであらゆる人々に光を一方的に与えるように、
〈永遠の君〉は無限の〈たいせつ〉を注ぎ続け、
そして、ついにはあなたというご自身と同じ本質の自由なひとつの〈こころ〉を完全なる自由な人間として送り込んでくださった。
それも、単に偉大なる教えを伝える師としてだけではなく、
このオレのような人間・・・いや、すべての人を生かすために、自分のいのちを与えられた。
ともに、呻き、苦しまれた。
そして、そのうちに大いなる〈たいせつ〉の喜びを完成させられた。
そして・・・それこそが、本当の望みだと。
永遠にして無限の〈君〉は、どこまでもどこまでも近くにやってきてくださった。
本当に解放された完全に自由な人間・・・
〈たいせつ〉と喜びに満たされた人になるようにと。」
***
気が付くと、ハルの傷痕を通して、生命が流れ込んでゆくのが分かった。
ハルの〈こころ〉は再びこの世界に戻って、肉体をもっていた。
目の前に光が見えたかと思うと、マスターの姿も見えなくなっていた。
しかし、ハルは自分の血潮の中に、〈永遠の君〉とマスターの生命が脈打っていることを知っていた。
ハルはまるで、あの経験を通して自分が全く違った人間になってしまったような気がした。
まるで、さなぎが蝶になったように。
ハルは目の前に見える光に対してただ心を開き、自分を告白し、あけわたすだけで充分だった。
他に何ものも必要なかった。
〈永遠の君〉の〈たいせつ〉に突き動かされて、ハルは己を放棄して、そして真の己を生きるようになった。