マスターの死
「殺せ、殺せ」
と皆が叫ぶ。
ハルは自由であろうとした。
そして、マスターを守ろうとした。
勢いに逆らおうとした。
しかし、ザワーク・ラウトはささやきゆさぶりをかける。
「ああやって叫ぶ奴は、自分の手をよごしたくない卑怯者さ。
対して、君は自分の責任というものをちゃんと果たしている。
さあ、楽にしてやれ。
君と世界をめちゃくちゃにするであろう、この元凶を弟子の君の手で!」
ハルはもう二度とあんな選択はするまいと心に決めていた。
しかし、「みんな」という大勢の圧力が、ハルに逆らうという選択肢を与えなかった。
いや、その選択肢はあったが、その選択をするには全くどうすればいいのか分からなかった。
人は・・・みんながそう言っているから、
なんとなく、それでもいいや、で、そろって破滅の道を選んでしまうことが時折あるものだ。
「今叫んでいる彼らも・・・善良なんだろう・・・普段は。
そんな、分かりやすいような悪人なんてどこにでもいるもんじゃない。
皆、善人なのだ。いつもは。
しかし、
こういう時になると、一気に悪に加担してしまう。」
もう一つの声が聞こえる。
「・・・いや、そもそも、悪とはなんなんだ。
それは勝手にお前がお前の基準で勝手に決めているだけのことじゃないか。
本当は、正義はあいつらの方にあるのかもしれないし、
お前が悪かもしれない。
善悪など、人間が自分の都合で勝手に引いた線引きでしかないのだ。
現象に善も悪もない。
したがって、お前の決断もそれ自体としてどちらに転んでも同じことではないのか?」
「やめろ・・・やめろ。
詭弁を弄するな。」
「彼らには彼らなりの正義が存在するのだ。
そこを分かってあげなければいけない。
・・・お前は、善悪を超えてゆかねばならない。
お前は未だに善悪という桎梏にとらわれている。
それでは永遠に奴隷のままだ。
お前の手で、悪と思っていることを実行してみるのだ。
それはお前の思い込みにしか過ぎなかったことが分かるから。
それを作り出していたのは、お前のつくりだした〈恐れ〉だ。
君自身の〈恐れ〉を打ち破ることができるのは、君自身でしかないのだぞ。
そうしなければ、新しく生まれることはできんぞ。
いいじゃなか。
一突きすれば。
何を戸惑うことがある・・・。」
そこにいるすべての人間が、ハルにマスターを突くように叫んだ。
「突けばお前は英雄になれる!」
と。
それは、もう自然な流れだった。
平常時であれば明らかに選択しないことだった。
しかし、あまりにも多くの圧力が強くかかってしまうと、
人は普段しないことでも・・・分かっていても流れに逆らうことができないのだ。
ハルは、手に持っている槍で、流れに乗ってマスターを突いた。
血が噴き出し、ハルの全身までも赤く染まった。
ウミが叫んだ。
「いやーーーーーー!」
しばらくするとマスターの心の臓が止まり、呼吸もなくなった。
目はまるで人形のように焦点をうしなっていった。
ハルは自分が自分でないような気がした。
今目の前に起こっていることが夢だったらどんなにかよかったかと思う。
歓声も生暖かい血の感触も槍を握る手の感覚もまるで夢の中にいるようだ。
ハルは事態を全く受け入れることができなかった。
哀しいとか、苦しいとかいう感情も全く浮かんでこない。
すべてが麻痺してしまっているのだ。
受け止められない。
どういうことか分からない。
自分のいないところで、ハルは歓声を受け、
ハルのことなどどうでもいいかのように、彼らは帰途についてゆく。
何がどうあったかなどは全く覚えていない。
覚えていることは、ただ、自分の行為が、自分を助け〈たいせつ〉にしてくれた人を、二度と動かなくしてしまったということだ。
事実として認められない。
ハルは息が出来なくなったようになり、数歩歩いて、膝を崩した。
目の前が真っ白になり、動くことができなかった。
今、狂えと言われたら、何だってしでかすだろうとまで思えた。
だけど、ハルはそれすらもできなかった。
すべてを破壊し、終わらせたい衝動が体の奥底から湧いて抑えきれないのに、
それを表現することが全くできない。
兵士たちが、
「おう、お疲れ様。」
などといって、事務的に淡々と報酬のお金をくれる。
しかし、ハルにとってその価値は・・・まるで海を埋めようとするに等しいものだった。
ハルはふと思い出した。
いつか・・・あの黒い何かがささやいたことを。
「お前自身が、愛する彼らを見捨て、裏切り、侮辱さえするようになる。」
「人の心の深淵には、自分でも気が付かない物の怪が眠っているのだ。
存在が欲望によって生じるように、愛の奥には、憎しみの根っこがある。
人が人を殺さぬのは、自分で殺さぬように意志しているからではない。
たまたま、そういう平和な状況に多くの人が置かれているだけなのだ。
誰の中にも、人を殺す要素はある。
たまたま、それが発現すれば、誰だって人を殺せる。
お前にそのクジが回ってくることだってあろう。」
あの、何とでも避けようとしていた恐ろしい預言がこの身に起こったのだ。
忘れていたあの恐れが、寸分のたがいもなく実現したのだ・・・・!
「なんということだ・・・!
ああ!なんということだ!
あの雲の街で学んだことは、
こころに抱いているイメージが時を超えて現実になると言うことであったが・・・
ああ・・・オレはそのことを知っていながら、そのイメージを捨て去ることができず・・・
ただ忘れ去っただけで・・・
忘れた時にこの身に降りかかってしまったのだ!」
ウミがマスターの遺体に近寄ると、ハルは槍をもったまま、逃げだした。