〈トゲ〉の実在
「そうだ・・・〈こころ〉の力を身につけたオレはやっと、〈トゲ〉を克服する力を身につけたのではないか?」
ハルは勝ち誇ったように思った。
「そう、すべてはオレのこころがつくりだした幻影なのだ。
人がもし、直ちに覚悟を決めて、自分は善でしかない、光でしかない、そうこころを定めたのならば、その人の人生にはすべて善きことしか起こらないのだ。
いままで、自分の人生が不運と不幸と絶望に満ちていたのは、ひとえにオレ自身がそうしたものばかり見つめすぎていたことに原因があったのだ。
ああ、そうだ。
悪や〈トゲ〉などというものは、人間の妄想でしかない。
〈トゲ〉を断つには、そんなものは断じて存在しないと思えばそれで足りるのだ。
ただ善いことのみ、明るいことのみ、成功のみを思おう。
〈トゲ〉などというものは、ただ光と善になりきることのできない人間の不完全さにしか過ぎない。
この世界に、悪や〈トゲ〉などという言葉がなければどれだけ世界は今よりも良かったことだろうか・・・!」
・・・しかし、ハルは愕然とした。
同じようなことが、ハルが幼い時に暗唱させられたザッハ・トルテの教えの中にあったことを思い出したのだ。
「悪は悪と思わなければ悪ではないとの想像は、あのザッハ・トルテの医者というか、催眠療法士が病気を病気ではないと思えばすぐに治ると主張しているようなものではないか・・・。
しかし、この主の治療で至難の業は何かというと、病気を病気と思わないでいるということそのものなのだ。
四十度の熱を出し、目が閉じ、口は腫れ、体が麻痺し、筋肉という筋肉が小さな針で刺されたような痛みに苦しみ、全身が悪寒で震えて仕方がなく、者も考えられないようなとき、一体だれが自分は病気ではないと信じられるだろうか!?
その病気は事実だ。
病気などではないと信じることなどできようか?
もし、回復するためにそのように信じるのであれば、これは偽物の信であり、ほんとうの信ではない。
もちろん、世の中には神経の病気というものはある。
そしてその原因が、思い込みの恐れにあることはあるだろう。
その場合、その考えを正すことによって病気が治ることはある。
もし、オレの〈トゲ〉の苦しみが、単なる妄想に過ぎないならばどんなにかいいだろう。
〈トゲ〉は、事実の事実だ。
もし、オレが〈トゲ〉を見て見ぬ振りをして無視をし続ければ、その〈トゲ〉はついに背後からオレを食い殺すだろう。
キジが猟師から逃れる時、藪に頭を隠して、それで猟師が見えなくなったものだから、漁師はいないと思い込んでしまったようなものではないか。
単なる考えの中だけ、〈トゲ〉という観念を除いて、全身すでに〈トゲ〉が抜けれたと思う人間は、実にこのキジのようなものではないか。
〈トゲ〉を考えないことによって、〈トゲ〉を抜くことはできないのだ・・・!
たしかに、明るい感情やビジョンを〈こころ〉に抱き続けることは、人間を成功を導くだろう。
偉大な事業を為さしめるだろう。
しかし、〈トゲ〉そのものを根本から抜き去ることはできないのだ・・・。
善いことだけを考えれば自然に悪から脱することが出来るという想像の中には、わずかの真実も含まれてはいないのだ。
子どもの善きところばかりをほめて、全く叱らないような親は本当にその子を愛しているとは言えないのだ。
善は善であり、悪は悪なのだ。
〈トゲ〉は〈トゲ〉としてこの苦しみは実在する・・・。
イメージするだけで、苦しみは消えるのか?
イメージだけで、世界は平和になるのか?
そうであれば、警察も法律も軍隊も必要ないはずだ。
・・・では、どうすればいい?
どうすれば、オレの〈トゲ〉の根っこは克服されえるのだ?
ごまかし続けていくしかないのか?
・・・だけど・・・オレはそれだけじゃないことも確かに知っている。」
ソラとエクレア王女は、門から笑顔で手を振りながら三人を見送った。
「また会おう」と固い約束を交わして。
「そうだな。ソラ。
旅の課題はそれぞれ違う。
だけど、オレたちは孤独じゃないことがわかった。
オレは過去を呪い・・・奴らを恨み続けることしかできなかった。
たしかに・・・オレの過去はひとつの呪いかもしれないし、その影は生涯まとわりつくかもしれない。
忘れ去って、何もなかったという風には、いくら思っても無理だろう。
・・・だけど、〈だからこそ〉、オレは・・・その傷ゆえに、すばらしい仲間に出会い続けてこれたとおもうのだ。
たとえ、その先に矛盾や傷、すれ違いがあったとしても・・・オレは後悔しない。
しっかりと苦しむが、それでも後悔はしない。
それでも、すべてを肯定する。
そのすべてに、然りと宣言してやるのだ。」
「ハル・・・」
ウミもレイも、心を震わせながらハルを見つめる。
「オレは、すべてを〈運命〉のうちで引き受け、噛みしめ、そしてすべての存在に感謝しようと思うのだ。
・・・そう、矛盾すらも含めて、すべてを愛そうと思うのだ。」
ソラはハルの人生を歩みたいとは思わなかったが、それでも今やこのようなハルの人生に一つの尊敬や憧れさえ感じていた。
ハルは笑顔を作りつつも、また一人内なる煩悶を抱えながら山を降りて行った。