中
「………というわけで、あの国との取引は一時中断。このまま中止にすることを薦める。以上」
「あはははは!!」
ここはタナトフェル王国。世界の果てに位置し、空には決して陽が昇らず、魔力濃度の高い大地には、見るもおぞましい動植物が生きている。『魔物の国』や『魔界』との呼び名の通り、ヒトならざる者が暮らし、彼らを統べる王もまた、ヒトではない。女王・タナトフェル。20年前まで世界を脅かし続けた、正真正銘の魔王である。
彼女を世界で唯一倒し、この国の特別顧問の名を拝命し、定住民としては唯一の人間である男、御剣惣士朗は、笑い転げる彼女を前に溜め息を吐く。一週間前にこの国を発ち、3日走り続けて相手国に着き、また3日走って戻ってきた。それはまあいいのだが、思い出すだけで嫌になる事の顛末を報告しなければならない精神的疲労が半端ではなかった。ようやく話し終えたというのに、その反応がこれだ。どっと疲れが押し寄せる。
「えぇ~?おもしろ。馬鹿すぎ。ふふふふふ」
「……おぬしは……そうだろうな」
「ねぇ!もう一回行ってきなよ!」
「御免被る」
ばっさりと切り捨てれば、魔王はまた声をあげて笑う。彼女は清楚で可憐な、少女のような見た目をしているが、紅い瞳、漆黒の長い髪、山羊の角と竜の尾、そして大きな悪魔の翼が、威圧的な異質性を表している。確かに20年前よりは大人しくなったが、惣士朗が傍にいて、惣士朗と戦う方が楽しいから、他にふっかけないというだけだ。やはりニンゲンが慌てふためき苦しむ様を眺めるのは楽しいと、悪びれもせず言ってのける。
「えー!けちー!……なるほどね。そういうことならやめましょう。これはもう捨ててよし、っと」
手にしていた紙束、王国から届いた手紙が燃え上がり、すぐに消える。此度の外交も相手から持ちかけられたもので、技術士長が相手の国にある鉱山に興味を持ったから応じたが、本当は外交などせず、人間が来なくても、この国はやっていける。国民の多くは今でも狩りと自給自足と物々交換で気ままに生活しているし、観光客の相手は技術士たちが作ったゴーレムが行っているし、手付かずの大地と資源がまだまだあって、必要になったら開発しよう、それでも駄目なら侵略しよう。女王も家臣も国民も、皆そんな風に考えていた。人間である惣士朗でさえ、そう思うことがある。
女王はにこりと微笑んだ。ふわりと優しく、魔王のものとは思えないほどあたたかな笑み。
「ごくろうさま。ソーシロー」
「……ああ」
「撫でてあげよう!おいで!」
「いらん」
間髪入れずに即答したが、その口元には笑みが浮かんでいる。いいからいいから、と何がいいのか分からないが、無理矢理に撫でようと伸びてくる手を軽くかわして、惣士朗は扉の方へと足を向けた。
「あーー!!ばか!けち!」
「知るか。外交は暫く回すな。拙者には向かん」
「でもきみ人気だからなあ。大英雄だし」
「では呪いを解け!!」
扉に手をかけた状態で振り返る。世界を救った大英雄である惣士朗は、世界の平和と引き換えに、とある呪いを受けていた。大英雄となるに至った理由ーーーNTR侍であり濡れ衣侍であり追放侍であり、冤罪絶許侍であることを、絶対に名乗らなければならないという呪いである。
分かりやすくていいじゃないか、とこの国の者は言う。確かに信じてもらえるようにはなった。勇者の悪行もすぐさま世に知れ渡った。だがそれは既に20年前、魔王が平和条約の締結と共に、ボコボコにした勇者をトロフィーのように掲げて宣言したことで足りている。何が悲しくて20年後も生暖かい目で見られなければならないのだ。名乗る度にあの苦い気持ちを思い出すんだぞ。怨みと願いを込めて、呪われ侍は呪いをかけた張本人を睨み付ける。女王はにっこりと笑った。
「面白いから嫌だ」
やはり彼女は魔王であった。女運無さすぎ侍は怒りに任せて扉を閉めたが、至極楽しそうな笑い声は、扉を隔てても尚、追いかけてきた。
一人になった執務室で、女王はふと思い付いたように笑うのをやめた。
「あ、あのこと言い忘れちゃった」
久しぶりの自宅の扉を開ける。魔王城からほど近い、というか同じ敷地内にある、女王に与えられた小さな家だ。騒がしい王城もまあ、嫌いではないが、とにかくうるさい。それにここは無駄に職人がこだわって、惣士朗の故郷のそれに近いものにしてくれただけあって、やはり一番落ち着ける。冷えきってはいるけれどーーーそう思って、頬に触れた空気が冷たくないことに気が付いた。温かい。というかスープの、味噌汁の良い匂いがする。いや、いや、電気点いてる。外から見ても分かるだろうそのことに、全く気が付かないくらいには、惣士朗はお疲れ侍であった。
困惑して鞋すら脱げず、玄関に上がれずにいると、中からぱたぱたと小さな足音をたてて、一人の女が駆けてきた。惣士朗の顔を見るなり、ぱあ、と嬉しそうに微笑んで、女は言う。
「おかえりなさいませ惣士朗さま!ご飯にします?お風呂にします?それとも私?」
「!?お………おぬし………」
簡素な着物に割烹着で、銀の髪を緩くまとめて、なおかつ流暢なタナトフェル語で、お決まりの台詞を口にした彼女は、クラベリーナ・ヴィストラッヘであった。3日前に出会い、かつての自分を重ねた令嬢。もう二度と会わないとは思いつつ、あの国で唯一、彼女のことだけは気にかかった。あの娘は、幸せになれるだろうかと。
なのに、何故ここに。筋肉ダルマが不眠不休で走っても3日かかるのに。混乱侍の気も知らず、クラベリーナはまあ、と少し驚いたように目を瞠り、頬を赤く染めてはにかんだ。
「私、ですか?…………どうぞ。準備はできております」
「はっ!?い、いや、」
「で、ですがその……はじめて、なので…………っ、優しくしてくださいませ……♥️」
「違う!どうしてそうなった!」
割烹着の後ろ紐をほどき、そのまま裾を持ち上げようとする手を慌てて止める。きょとんと瞳を丸くして、こちらを見上げてくるその姿は、あの日見たものよりもあどけない。うぐ、と言葉に詰まるも、なんとか言葉を絞り出す。
「…………おぬし、なにゆえここに」
クラベリーナはぴた、と動きを止めた。暫くそのまま固まって、一気に耳まで真っ赤に染める。きゃあ、だかひゃあ、だか、可愛らしい小さな悲鳴を上げた。
「ややややややだ!!!私ったら早とちりを!!!」
「う、うむ…………」
「あああ…………お恥ずかしい…………!」
「それは良いのだが……」
いや何も良くない。良くはないが、それよりも何故ここにいるのかが知りたい。惣士朗にはこの年頃のおなごが考えることなど分からない。彼女と同じくらい歳の頃ですら分からなかった。だから寝取られるのだ。ではない。それはそれとして、恥ずかしい恥ずかしいと言いながら顔を覆う少女をどうにかして落ち着かせ、話を聞いてもらわなくてはならない。惣士朗は意を決し、声を掛けんとした。
「とにかくおちつ、」
「はっ!申し訳ありません。取り乱しました」
「う、うむ、」
「お疲れでしょう。まずはお風呂でゆっくりなさってください」
「うむ、あ、いや」
「お背中流しますね♥️」
「うむ……………っ!?それはいらん!!」
だが、流石は他国に名を轟かせる侯爵令嬢。自力で気を取り直し、何事もなかったかのような顔で荷物を受け取る。そしてさりげなく背中を押し、風呂場に連れていく。それは有無を言わさず、とすら思わせないほど自然で、これも侯爵令嬢だからなのか……と、完全に流されたが、そのまま一緒に入ろうとする時にようやく我に返った。脱衣場から押し出して引き戸を閉める。次の瞬間、
ダンッッッ!!!!
「ヒッ」
「何で!?どうしてですか惣士朗さま!!」
ダンダンダンダン。戸をぶち破る勢いの、ホラー映画めいたノック音。とても侯爵令嬢が繰り出しているとは思えないのに、ちょっと怒ったような声は確かに令嬢らしく、可愛らしいのでむしろ怖い。
「こ、こちらの台詞だ!!どうした!?どうして!!??」
「何がですか!!」
「何をしに来た!!何が目的だ!!」
ぴたり、と音が止む。突然の無言。怖い。
長い長い沈黙の後、耐えきれず口を開きかけたとき、ようやく小さな声がした。
「……お召し物、こちらに置いておきますね」
そう言って、彼女は戸から離れていく。何かを堪えるような、寂しそうな声が、耳に残って離れなかった。