プロローグ―4
あれから学校に着くまで先程の殺気は一度も感じられなかった。僕の思い過ごしだといいのだけれど、昨日の女性の幽霊の件もあって少し気味が悪い。
「あんた今日少しおかしいわよ」
教室の席に腰を下ろすや否や澪が心配そうに僕の顔を覗き込む。先程の殺気の件は澪に話していない。彼女に話したところでどうせ放課後に殺気を感じた所周辺の調査をしようとか変なことをぬかしてくるからである。
「僕のことはどうでもいいから、昨日のこと相談するんじゃなかったの?」
自分から気を逸らすために話題を変える。昨夜澪の手料理という拷問を乗り越えた後にきちんと本来の目的である作戦会議はしたのだ。内容はというと、九割方澪の全く実践性の低いトンデモ案を聞くだけの時間であり、腹痛が始まりかけていた僕にとってはこの上なく苦しい時間であった。そこで苦境から逃れるべく僕から提案させてもらったアイディアを彼女は「珍しく良いこと言うわね」と快く乗っかり、今日実行に移すことにしたのである。
「ねえ、神代」
澪は僕の後ろに座っておとなしく読書をしている眼鏡少女に声をかけた。
「な、なんでしょう……」
彼女――神鳥谷神代はおそるおそるといった様子で視線を僕達の方に向けた。彼女はそれほど社交性が高くなく、暇な時は常に読書をしている。それ故友人も多くはないのだが、僕も澪も彼女の数少ない友人だった。
「昨日になって分かったことなんだけど、一樹があんたと同様、『見える』人みたいなのよ」
見える、と呟いて彼女は俯く。外見の平凡さとは裏腹に彼女も「見える」部類の人物である。彼女は神鳥谷神社の一人娘であり、跡継ぎ――すなわち巫女である。それは表向きの話で、彼女の両親は副業で霊媒師をしており、その見習いも兼ねているのである。
「確かに一樹さんと接していてそのような感じは見て取れましたが」
「……あんた、何でそのことが分かってて私達に言わないのよ」
「いえ、てっきり自覚があるのかと……それに……」
彼女はかけていた眼鏡を外す。
「……見えたって、何にも良いことないですし……」
彼女の巫女としての唯一にして最大の弱点は、巫女であるのにも関わらず幽霊が怖くて使い物にならないということである。どうやら怖くて夜中に一人でトイレに行けないらしい。知識は誰よりもあるだけに、勿体ないものである。
「なんであんた眼鏡外したのよ」
「あ、ということは廊下に立っているのってもしかして……」
「……いるのは分かってますから視線をそこに向けさせるようなこと言わないでください」
神代さんは会話の際によく眼鏡を外す。彼女は超がつくほど近眼であり、どうやら数十センチ先のものもぼやけてよく見えないらしい。今まではそのことに特に理由がないと思っていたが、霊をはっきり視認しないための工夫だったのか。
僕は廊下の方に視線を移し、一人だけかなり古い学ランを着用している人に向かって手で追い払う仕草をする。すると間もなくその人は姿を消した。
「神代さん、もういなくなったよ」
僕の言葉を聞いて彼女は再び眼鏡をかける。そして廊下の方におそるおそる目をやってから大きく安堵の息を吐いた。
「巫女のくせに幽霊が怖いなんて本当に巫女として終わってるわね」
「言わないでくださいよ。気にしてるんですから……」
澪の言葉に神代さんは大きく項垂れる。この二人のやり取りはよくあることなので僕も特にフォローしない。
「話を元に戻すわよ。一樹のこの能力を最大限に役立てたいのだけれど、何か良い案ない?」
「見えないのが一番です」
それは分かったから、と澪が宥めるように言うと、神代さんは持っていた本をパタンと閉じて少し考えるような素振りを見せてからゆっくりと口を開いた。
「やはり、一番有効なのは知識やスキルを身に着けて霊媒師になることです。ですが、通常これらの知識やスキルは門外不出のものですから。うちも例外ではありませんし……」
「そう……だったら一樹が神代と結婚するしかないわね」
「け、けけ結婚ですか!?」
神代さんが顔を赤らめて動揺しているのを、僕は真に受けなくていいからと落ち着かせる。少しして彼女も落ち着きを取り戻し、眼鏡のブリッジを指で上げながら口を開く。
「他にもないことはないんですが、基本的には霊媒師になる以外にこの能力を役立てることはできないと思います」
そう、と澪は腕組みをして思案気な表情を浮かべる。分かったか澪、単に「見える」だけの僕にできることなんてない。しっかりと理解しておとなしくしていてくれ。
「なら、霊を倒すにはどうしたらいいの?」
「唐突に何でそんな方向に話を持っていくんですか……」
「いや、参考までに」
「澪さん、完全に霊媒師のことなめてますよね……」
「まあ、神代にもできるくらいだから」
「呪っていいですか?」
神代さんの目は全く笑っていなかった。おまけにブレザーのポケットから訳の分からない字がたくさん書いてあるお札を取り出している。どうか穏便に済ませてほしい。澪は何も考えずに思いついたことを言っているだけなのだ。
数瞬後、神代さんは咳払いをしてから口を開く。
「まあ、霊をこの世から消すには成仏させるか、零体そのものを消滅させるしかありませんね」
「じゃあ、その零体を消滅させるのってどうやるの?」
「それ本気で言っているんですか?」
再び神代さんがブレザーに手を忍ばせる。しかし澪も譲らないとばかりに口を真一文字に結んで神代さんを見つめている。やがて神代さんが根負けし、控えめな声で告げた。
「……普通の人にはできません」
「一樹にも?」
「ええ、一樹さんも『見える』だけですから」
「……なら仕方ないわね」
諦めようかしら。そう呟いた澪に見えないように僕と神代さんは嘆息する。これでいい。澪もおとなしく諦めるだろう。そうすることで僕の平穏な生活が約束されるのだ。
ただ、澪がそんな簡単に諦める性格でないのはよく知っているだけに、この先がとても怖い。