1.ヒーローごっこは程々に
鷲宮 有利、十八歳。容姿も来歴もごく普通の少年である。平和な時代において平々凡々な生活。なんの苦労もせずにただなんとなく生きてきた。そんな彼は今、人生最大のピンチに直面していた。
「ここ……俺が知ってる日本と違う……」
その言葉通り、彼の目の前に広がるのは、とても日本のものとは思えない風景だった。
いかにも耐震性の低そうな煉瓦造りの建物。古びた石畳の道。その間を行き交うのは、世界史の教科書でしか見たことのないような衣装を見に纏った人々だ。時折、ツノの生えた馬が牽く馬車が、土煙を上げて通りを駆け抜けて行くのも目に入る。
「もしかして乱気流でどっかの国に落ちたか? いや、海の上だったしな。無人島ならまだしも」
有利は今日、留学先から帰国するところであった。その途中、乗っていた飛行機が不運なことに乱気流に巻き込まれたのだ。
有利の記憶の限りでは、飛行機は墜落寸前だった。恐怖で悲鳴も出ないほど揺れる機内で、酸素マスクを付けて、普段は信じてもいないはずの神に祈りを捧げたことまでは優に思い出せる。
「生きてるのはありがたいけど、なぁ」
突如中世ヨーロッパを彷彿とさせる国に不時着したところでどうしろというのか。というよりも、目を開けたら急に混雑している道の真ん中に立っていた。辺りには飛行機が墜落した痕跡はない。もちろん、他の乗客の姿も。
夢かとも思ったが、その期待は頰をつねるという実に古典的な方法で打ち砕かれた。
「いってぇ……まじかよ……」
こうなると、いよいよ死後の世界説か、もしくは異世界説、はたまた過去の世界説が有力になってくる。
「おい、そこの坊ちゃん! ボーッとしてると轢かれるよ!」
「うわっ、すいません!」
道の真ん中で突っ立っていた有利は、妙齢の赤ずきんに突き飛ばされた。鼻先を木製の車輪が掠め、顔が青ざめる。礼を言おうとして立ち上がると、女性はすでに人混みに紛れてしまっていた。
それから何とはなしに薄暗い路地裏に入ったところで、有利はぴたりと足を止めた。
奥の方で、人が言い争う声が聞こえたのだ。
――五人。一人は女の子、かな?
その状況から想像できるのは最悪の事態。
「おーい! 何やってんだ!」
恐る恐る奥に進むと、そこにいたのは──屈強な男四人と、ゴスロリを身に付けた短い銀髪の少女。俯いているせいで顔は見えない。
有利が状況把握に努めていると、リーダー格らしい男が歩み寄ってきた。
「なんだテメエ。妙ちきりんな格好しやがって」
「妙ちきりんって、普通に私服なんですけど」
ジーパンにロンT、グレーのパーカーはラフではあるが別に妙な格好と言われるほどではない。いや、薄汚れてはいるが舞台衣装のような服を身に付けている彼らにとっては、そうのかもしれないが。
いよいよ異世界説が濃厚になってきた。
「テメエ、この嬢ちゃんの仲間か?」
「いや、その子は知らないけど。それより乱暴はいけないぞ」
震える足を踏ん張って威勢を張ると、その男は一瞬驚いた顔をして、すぐにケタケタと笑い出した。
「乱暴? んな面倒なことするわけねーだろ。俺たちゃもう用は済んだんだ。それを引き留めてるのは嬢ちゃんの方だぜ」
「……どういうこと?」
ずっと俯いていた少女がようやく顔を上げた。蒼白な顔に、赤い瞳が異様なほど目立つ。その目に涙を溜めて体を震わせている様は、まるで仔ウサギのようである。
「箱、返してって、言ってるのに!」
少女の言葉通り、男の手には高級そうな金の装飾が施された小さな木箱があった。
「なるほど。おい、人のものを盗るのは犯罪だぞ。返してやれよ」
「嫌なこった。こいつはもうオレのモンだ。さっさとその女を連れて行け。大事にはしたくねぇ」
「そうだぜ。アニキの言うことに従え! 痛い思いしたくねーならな!」
「テメエみてえなモヤシ、一発だぜ!」
「やっちまえアニキー!」
少女を囲むように立っていた三人の男も同意見らしく、口々に援護してくる。
──大事にしたくないんじゃなかったのかよ。
有利はため息をついて少女の方を見た。少女はというと、また俯いて何か呟いているようだった。
「おい、聞いてんのかモヤシよぉ」
「言われるほどモヤシじゃねーよ、ブスゴリラ!」
「んだとテメエ!」
ならず者というのは扱いやすい。少しでも揶揄してやれば簡単に激情に流される。それはこの世界の住人にも適用される法則らしく──まあ、端的に言えばその場にいた無頼漢四人衆が揃って有利に殴りかかってきた。
「狭いところで! 一斉にかかってくんじゃねーよ!」
まずは一人目。リーダー格の男を足払い。転びかけたリーダーに掴まれもう一人がよろめく。それを飛び越してもう一人をかわして、最後の一人には背中を殴られつつ、何とかフリーになった少女の元へたどり着く。
「走るぞ!」
「あっ、でも……!」
少女は抵抗の素振りを見せたが、構わず腕を引っ掴んで狭い路地を駆け抜ける。
背後で無頼漢どもが怒鳴り散らすのが聞こえたが、どうやら狭い路地を一度に通り抜けようとしたせいでつっかえてしまったらしい。
「覚えとけよ」なんて古典的な捨て台詞は、聞かなかったことにしよう。
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「ぜぇ、ぜぇ、はぁ……っ。おい、大丈夫か」
「んっ、はぁ、はぁ……。なにが大丈夫だって!? ああ、どうしよう。領主様に怒られちゃう……」
少女はただでさえ白い顔をさらに白くしてがくりと倒れ込んだ。
「うう……またお仕置きされる……」
「何があったかは知らないけどさ、生きてるだけ幸運だってことで」
「きみのせいでこうなったんだよ! それに、死んだほうがマシ。あの箱に何が入ってると思ってるの」
「えーと、高価な宝石とか? 重要な書類だったり……?」
「それならまだ良かったけどね。あれはこの世の災厄を封じたパンドラの箱。きみのせいであれが他国に渡ったら、ぼくら如きの首じゃ責任は取れないんだよ?」
「パンドラの箱……」
「そう。あれを開けると恐ろしい怪物が現れて、この国を襲うだろうね。きっと国中が大混乱になるよ。きみはどう責任を取るつもりなの。ああ、ぼくはもちろん死ぬつもりだけど」
「待て待て待て待て、早まるな! まだチャンスはある。もう一回アイツらを探しに行こう。大丈夫だ、今から行けばきっと間に合う! 間に合うからその手を下ろせってば。そうそう、ゆっくり、深呼吸、深呼吸!」
そんな大層なものをなぜ盗まれることになったのか、などという疑問は置いておくとして。
ガタガタと震えながらどこからともなく取り出したナイフで首を切ろうとする少女をなだめ、有利は打開策を探して脳をフル稼働させる。
──傷んだ髪。炭と潮の香り。服の間から見えた肩の入れ墨。腰に下げられたカトラス。
男たちの容姿を思い返したところで、行先は決定した。
「聞きたいんだけど、この辺りに港はある?」
「え……、うん。この道をまっすぐ行ったところに、大きな港があるけど」
「よし、そこへ行こう。多分、さっきの奴らがいるはずだ」
「ほ、ほんと? 分かった。急ごう」
目に光が戻った少女は、大きく頷いて駆け出した。フリルが重そうなドレスの裾を持って、器用に人混みをすり抜けて行く。有利はそれを感心しながら追いかけた。
しばらく走ったところで、積荷を降ろし終えた荷馬車の持ち主が一服しているところに遭遇した。少女がポケットから金貨を取り出しながらその男に近づく。
「港まで乗せて。二人で金貨三枚。どう?」
「もう一声」
「オーケー。五枚ね。乗せてくれる?」
「承知したぜ。お嬢ちゃん。おら、兄ちゃんもさっさと乗りなァ」
一瞬で交渉が成立して、二人は荷車に乗り込んだ。お世辞にも快適とは言えない状況だが、少女は不満を口にすることもなく、硬い板の上に大人しく座っている。
「こういうこと、慣れてるの?」
「なにが? 交渉のことなら慣れてないよ。ぼったくられたのは仕方ないと思うけど。彼だって仕事の最中なんだし」
「そうじゃなくて。きみ、綺麗な格好してるわりに、アクティブだなと思って」
街で見かける人々は、綺麗ではあるがどこか擦り切れた衣服を身に付けていて、それで庶民だというのがわかる。けれど、少女の衣服は一目で高級そうな布地であるのが察せられるし、綻びすら見当たらない。どこか良家の令嬢のような雰囲気が漂っている。
「まあ、よく、女の子らしくないって言われるけど」
「あ、いや、ごめん。そんなつもりじゃなくて」
「分かってる。……あ、自己紹介がまだだっけ。ぼくはエル。よろしくね」
「ああ、俺は鷲宮 有利。えっと、ユウリ・ワシミヤ、の方がわかりやすいかな?」
「ええと、ユーリが名前ってことでいいのかな。ワシミヤは、姓? きみはいいところの子息なんだね」
「え、いや、そういう訳じゃないんだけど」
この国で姓を持っているのは、貴族だけだったりするのだろうか。ユーリが考え込んでいると、エルが顔を覗き込んでくる。
「うおっ、何?」
「ええと、ユーリはぼくのこと、知らないの?」
「えっ、いや、ごめん。俺、実はこの国に来たばかりで」
「そうなんだ。変な服着てるから、外国の人だとは思ったけど」
「そ、そんなに変かなこれ!」
流石にこう何度も変と言われると、普通の服を着ているつもりでも恥ずかしくなってくるものだ。ユーリがパーカーの裾を引っ張っていると、エルも興味深そうにそれをじっと見つめていた。
「うぅん、アティラスの特産でもないし、クロレアの絹でもないし……。丈夫そうな布だね」
「これ? ただの綿だと思うけど。そんなに珍しいかな、これ」
「見た目は似てる生地ならあるけど、こんなに伸びるのは初めて見たよ。凄いね。きみ、どこから来たの?」
「えーと、日本って言って伝わるかな。ジャパン、でもいいんだけど」
「にほん、じゃぱん?」
エルは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾げている。どうやら本当に知らないらしい。
──嫌な予感がする。
エルの所作を見る限り、それなりの教育を受けている様子である。その彼女が知らないのなら、この国──いや、この世界の人が日本を知らないという可能性がある。つまり。
「マジで異世界かよ……」
思わず頭を抱えるユーリを見て、エルはますます不思議そうな表情を浮かべている。
──とにかく、今の状況は理解しておかなきゃまずい。
ここが異世界か、それともただユーリが行ったことがない国なだけなのか。
もし、ここが異世界ならば、日本に帰れる望みはかなり薄い。もちろんそれは怖い。が、情報もないままに異世界を彷徨う方がもっと恐ろしい。
ユーリは覚悟を決めて、ようやくこの質問を口にすることができた。
「なあ、ここ、どこなんだ?」
予想通り、エルはただでさえ丸くて大きな目をさらに見開いて固まってしまった。
「きみは……自分がいる場所も把握してないの? どうやってここに? まさか、誘拐されて?」
「いや、そういうんじゃないんだけど。その、困ったことに目が覚めたらこの国にいてさ。それでどこか聞きたいんだけど」
「やっぱり攫われたんじゃないの。まあ、今はそれどころじゃないみたいだから置いておくとして。ここはイリニア王国最大の港町、フリーシェだよ」
「イリニア王国……」
恐れていたことが現実になってしまった。しかし、不思議と冷静に受け止められた。
──間違いない、ここは異世界だ。
異世界である方が、説明がつくのだ。
ツノの生えた馬。時折見かける獣耳や尾の生えた人間。鎖で繋がれた、おそらく奴隷であろう人々。それらは到底現代社会において存在するはずのない、してはならないものたちだ。加えて、聞き覚えのない国名。それからユーリ自身が事故に巻き込まれたことを考えると、やはりそうとしか思われない。
「ねえ、大丈夫? 顔色が悪いよ。体調が──」
がくんと馬車が揺れた。
膝立ちになってユーリの顔を覗き込んでいたエルが体勢を崩し、ユーリの胸に飛び込む状態になってしまった。
「おっと、大丈夫か? 膝擦りむいてない?」
「ふ、ぇあっ、だ、大丈夫だから!」
ユーリに抱きとめられてスカートを少し捲られたエルは、顔を真っ赤にして身をよじった。
その瞬間、また馬車が揺れた。エルはさらにユーリに体重をかけることになる。
「すまねえな。ここいらは舗装が甘くてさ。おっと、お取り込み中だったかい」
馬車を操縦していた労働者風の男がからかうように言うと、エルの顔はさらに赤く染まった。耳まで熱を持っているようだ。
「ちっ、違うよ! 馬鹿言わないで」
「へいへい。じゃ、着きましたぜ。ここいらはちょいと治安が悪いですからね、お気をつけて。まあ、素敵なナイトが付いてるみたいなんで大丈夫だとは思いますがねェ」
「ナイトか、照れるね」
「ユーリ!!」
頰を膨らませたエルは、男に報酬の金貨を押し付けて、そそくさと荷台から降りてしまう。ユーリは男と目を合わせ、肩を竦める。それからエルに倣って荷台を降りた。
街中にいた時には感じなかった、強い潮の香り。様々な香料、それから嗅いだことのない不思議な香りもする。
ユーリはそれらを吸い込んで、大きく息を吐く。
「んじゃ、捜索フェイズ、スタートだ」