6 空っぽの教室で
甘夏の掃除が終わって、トイレから出る。男子トイレの方からも同じ班の男子も出てきた。おそらく中で駄弁っていたのだろう。じゃなきゃ甘夏の掃除スピードと同じなんて考えられないから。
「秋沢」
一人が甘夏に声をかけた。坊主頭の背の高い男子生徒だった。目鼻立ちがくっきりとした、精悍な顔立ちをしていた。
「あ、江川崎くん」
背後から声をかけられた甘夏は顔をあげて彼を見た。秋沢は甘夏の名字らしい。
「いま掃除終わったのか。井上と宇和島は?」
「二人とも今日用事あるって、先に」
「またか、あいつら。サボってるだけだろ、たく、よくないよな」
どうやらこの坊主は良いやつらしい。少なくとも甘夏に敵意をもっては無さそうだ。
「秋沢、困ったことがあったら俺に言えよ! 幼なじみだろ」
「う、うん、ありがと、江川崎くん」
肩をぽんと叩かれ、困ったように笑いながら甘夏は答えた。
「よく言うよな、江川崎のやつ」
後ろを歩く男子二人が声を潜めて話している。
「秋沢さんが女子からハブられてんの、全部テメーのせいじゃん」
俺が他人から見えない存在じゃなければ聞き取ることはできなかっただろう。だが、たしかにそう聞こえた。
前を歩く江川崎と甘夏の仲は悪そうにない。どういうことだろうか。
教室に戻ると江川崎はエナメルの白いバックを持ってすぐに教室を出ていった。どうやら彼は野球部らしい。
甘夏はというとノロノロと帰り支度を始めていた。
「秋沢さん」
一人の気の強そうな女子が甘夏の机の正面に立った。
「……なに?」
「教室のごみがいっぱいになっちゃってさ。悪いんだけど捨ててきてくれない?」
「……」
どう考えてもそれをやるべきは教室の掃除当番で甘夏の仕事ではない。
にもかかわらず、周りの女子の目は甘夏がやって当然というものに変わっている。
男子はというとそんなギスギスした女子の雰囲気に気付かずボールでサッカーしている。
「ねぁ、お願い。帰る途中じゃん」
「……いいよ。やる」
甘夏は無表情で吐き捨てると自分の鞄を右手で持って、ゴミ箱の上に放置されたごみ袋を左で掴んだ。
「ありがとうー」
心にもないお礼を背中で受けて、歩きだした甘夏の背中に「間違って自分の鞄を捨てないようにねぇ」と声がかけられる。
「やば、それ、ウケる」
ウケねーよ。
サル小屋の笑い声を振り切るように、甘夏の歩調が早くなった。
下唇をぎゅっと噛んで、悔しそうにしながらも、彼女は文句一つ言わず歩いていく。
「……」
なんて声をかけたら良いのかわからなかった。いや、かけない方がいいのかもしれない。そもそも俺はここにいるべき存在ではないのだから。
それでも腹立たしかった。
真面目なやつが損することが許せなかった。
でも、冷静に考えたら俺も甘夏の生真面目を利用しようとしてるんじゃないだろうか。
くそ。
小さく口内でぼやき、彼女は左手のごみ袋を奪おうと手を伸ばすが、すり抜けるだけで触れることもできなかった。
「……」
そんな俺を驚いたように甘夏が見ている。
すかすか、と通り抜ける俺の右手。
「悪い。持てなくて」
やっぱりうまくいかなかった。
「ふふっ。ありがと」
甘夏は面白そうに微笑んだが、俺は自分の不甲斐なさに惨めになった。
ゴミ捨て場についた。甘夏は扉をあけ、可燃ゴミのところに重ねるように袋を置き、きびすを返した。
「答えたくなかったら別に良いんだけど」
辺りに人はいない。
「江川崎、とかいうやつは何をしたんだ?」
甘夏は目を見開いた。
「なんで、江川崎くんを知ってるの?」
「さっきちらりと話を聞いたから」
「そう……」
俺の返事に甘夏は立ち止まって自らの爪先をじっと見ていたが、細い声で続けた。
「……やだ、答えたくない」
「ごめん」
「なんで、謝るの?」
「無神経だったからなって思って」
「そんなことないよ。あなたはきっと優しいんだね」
「優しくても、なにもできなければ意味ないだろ」
「ううん、そんなことないよ」
甘夏が顔をあげて俺を見た。
綺麗な目をしていた。
「あなたといると、その、なんていうか、少し、楽しいから」
照れ臭そうに言うもんだから、こっちが恥ずかしくなってしまった。
甘夏とともに再び昨日俺が倒れていた場所に行く。
地面にへこみなどなければ、血のあともなにもなかった。
「雨が全部流しちゃったのかな……」
甘夏が独り言のように呟いた。
「おれ、昨日死んだんじゃないのかな」
「わからない、でも、死んだことに気づかない幽霊もけっこういるらしいから、もしかしたら、そうなのかもね」
「そういうのに会ったことある? 俺以外で」
「ないよ。今のは本の受け売り。そもそもまともに幽霊なんて見たのあなたが初めてだもん」
「え、でも、昨日、そういうの見えるって」
「たまに見えるだけだよ。黒い影が。でも、それは幽霊というよりは、他人の負の感情に近いのかも」
カキーン、と白球がバッドに当たる音が響いた。二人同時にそちらに目をやる。野球部が校庭で練習していた。ホームに帰った選手がはしゃぐ声がした。江川崎だった。がたいがいいし、顔も良い。きっとモテるのだろう、と思ったら、案の定フェンスに幾人かの女子がいて、ぴょんぴょんと楽しそうに跳ねていた。
それをぼんやりと甘夏が見ている。
「好きなの?」
「え?」
「あの、江川崎とかいう野球部の人」
「ち、違うよ」
顔が赤い。
「幼なじみなだけ。小学校のとき、同じ登校班だったから、中学でも。出席番号が近くて隣の席でさ。それで、仲良くなったの。本当にそれだけ」
「ふーん」
気付けばニヤニヤしていた。
「ねぇ、ちょっと、勘違いしないでよ。本当に恋愛感情とかはないから、あの人、野球うまいからいろんな人から好かれてるし」
「だから、私なんて、……ってこと? そう悲観すんなって、甘夏はかわいい顔立ちしてるぞ」
「だーかーらー! 違うって言ってるでしょ! もう!」
不機嫌そうに怒鳴られた。からかいすぎたらしい。反省。
「あの人、女癖がかなり悪いの。モテるからしょうがないのかなって思うけど、うちのクラスの女子とほとんど関係があるんだって」
「うへぇ、まじか」
羨ましいとは思ってない、ほんとだよ。
「ただのくずやろうだよ。あの人。プライベートに、関しては。だけどね……」
遠く見るような目で甘夏は江川崎を見た。
「野球をしてるときは、ちょっとかっこいいかな、って思う」
太陽が遠くの山に隠れ、空には黄昏が広がっていた。
もうすぐ高校野球の地区予選大会があるらしい。なんでも江川崎はかなり有望な選手らしく、彼の調子次第では甲子園出場は夢ではないらしい。
走り込みをする江川崎はたしかにカッコよかった。
結局俺の死の痕跡は見つからなかった。
あんまり女の子を地面に這いつくばらせるのはいい趣味とは言えないので、諦めて帰路につくことを提案した。
「……いいの?」
「いいさ。わからないことがわかったんだから」
「そう」
彼女の祖母に会えば、俺は別のどこかにいってしまうのだろう。
自分のことを忘れて新しい世界に逝くのは少し怖いが。
「じゃあ、行こうか」
甘夏は立ち上がってにっこり笑った。