2 明日は雨だと君が言うから
停留所まで来た。
彼女の他にバスを待っている人はいなかった。
ガードレールの向こうの茂みに背の高い赤い花が咲いているのを見つけた。それをじっと見ていると甘夏がぼそりと呟いた。
「コケコッコ草になにかあるの?」
「それ、この花の名前か?」
「赤い花がトサカみたいでしょ。だからそうやって言うんだって」
「ふぅん。なるほどな」
「……嘘だよ。それ、ホントはタチアオイっていうんだよ」
「詳しいんだな」
「おばあちゃんが教えてくれたんだ。てっぺんまで花が咲いたら梅雨が明けるんだって」
背の高い草だが、赤い花はまだ中程までしか咲いていない。
鮮やかに咲く赤い花だ。血のように、と接頭につけようかと一瞬迷ってしまった。
「綺麗だな」
「そうだね」
甘夏は左手の腕時計をちらりと見て「あと五分」と端的に時間を告げた。
そういえば、俺の体はどこにいったのだろう。
ぼんやりと考えるが、なにぶんこんな状況は初めてなので思考が纏まらなかった。
まあいいか。
彼女の祖母とやらに会えばなにかわかるかもしれない。
希望的観測を信じて独り頷いた。
「ねぇ」
ちらりとこちらを見て少女が薄く口を開いた。
「これからバスに乗るけど、話しかけないでね」
「なんで?」
「たぶんあなたの姿は他の人には見えない。私が独り言言ってるみたいになっちゃう」
「俺がなにか話しかけても無視すればいいじゃん」
「それじゃ、感じ悪いでしょ」
話しかけるなというのもどうなのだろうと思ったが、彼女なりの気遣いに少し嬉しくなった。
夕方にもかかわらず車通りは少ない。夜の闇に飲まれていくようだった。ゴーストタウンと呼ぶに値する人気のなさだ。とはいえまさか自分の方がゴーストになるなんてな。
と自虐的な笑みを浮かべたところでバスが来た。
無賃乗車にわずかばかりの罪悪感を感じながら、座席に腰かける。
音をたててドアが閉まった。
乗客は甘夏のほかには数えるほどしかいなかった。
信号も少ないのでほとんどノンストップだ。乗ってくる乗客もいない。
二つほどバス停を通りすぎ、他の乗客が全員「団地前」で下車したのち、一人きりの乗客になった少女は退屈そうに窓の外に目をやった。変哲もない住宅街が広がるだけで別段面白いものは見えないが、歩行者信号の赤や緑を反射させた雨粒が垂れていく。
「次は秋沢神社前」
甘夏が慌てた様子でボタンを押す。ぼぅとしていたらしい。「次止まります」と車内アナウンスが流れ、ホッと一息ついたのが隣からでもよくわかった。
「こんなところまで来るの初めてだ」
なんとなしに口をついた発言に返事はなかった。
バスを降りて傘をさそうとしたが、月が出ているのに気がついたらしい。乗っている間に晴れたようだ。空中に残った雨がまだパラパラと地面に落ちてきていたが、ごく少量なので気にせずに歩きはじめた。
バスが排気ガスを吐いて、最後の停留所に向かっていった。
「もう誰も乗せていないのだから、そのまま車庫に帰ればいいのにね」と甘夏が呟いた。
「それにしても毎日通学大変そうだな」
「そんなことないよ。朝はバスけっこう出てるから」
「夜は? こんな遅くまで部活か?」
「遅いってまだ七時だよ。……図書室で勉強してたの」
「……」
「どうしたの? 考え込んで」
「いや、なんでもない」
図書館ってそんな時間まで開いてたっけ。深く考えても答えはでなかった。思い出せないというより、まるっきり記憶がない、という感じだ。
少女が脇道にそれた。
「え、ちょっと待って」
「ん?」
甘夏が自然な動作で神社の石段に足をかけたところで、たまらず声をかけた。
「今からお参りにいくのか?」
時間的には夜といって相違ない。街灯もないので、神社に寄るなど肝試しにしか思えなかった。
「……ん? あ、ああ、ちがうの。ここ、ウチなの」
「ウチ?」
「秋沢神社。ここに住んでるの」
言葉の意味を二三度頭で反芻する。
「え、住民? まじで? 神社って人住めるの?」
幾度となく味わってきたリアクションなのだろう。相手をするのもめんどうくさそうに階段を登り始めた。
「ちょっとまってよ」
おいてけぼりを食らいそうになったので、慌てて彼女の背中を追いかける。
思ったよりも段差があり、足をあげるのが少し辛かった。
「真ん中は歩いちゃダメなんだろ?」
たしか正中といって神様の通り道だったはずだ。
付け焼き刃の知識を披露した俺を甘夏はちらりと見て鼻で笑った。
「祭祀のときとかは避けるけど、神様も年がら年中通ってるわけないし」
「それなら俺は堂々と真ん中を通る。アイアムアゴッド」
「正中が聖なる場所なのは間違いないけどね」
「む」
天罰は怖いので、大人しく端に寄る。
けっこうな運動をしているはずだが、心臓が跳ねることも息が乱れることもなかった。
空気は不浄なものを祓ったかのように澄んでいた。
「雨上がりの匂いのことをペトリコールと呼ぶんだぜ。ギリシャ語で石のエッセンスを意味するらしい」
「へぇ」
前を行く甘夏に声をかけたら心底興味無さそうに鼻を鳴らされた。なんでこんなどうでもいい雑学は思い出せるのだろう。
「あのさ」
甘夏は歩みを止め、振り返った。
「ほんとうは穢れを嫌うから、人の死とかはご法度なんだ。神社は」
「どういう意味?」
「例えば喪中の人は神社に行くのは避けた方がいいんだって。神社は神聖な場所だから」
鳥居にそっと手を触れ、悩ましげに俺を見下す。
「それ俺に言ってる?」
当てこすりだろうか。
「わかんない」
微かに首を捻り少女は続けた。
「あなた、本当に死んでるの?」
「俺が聞きたいよ」
体は軽い。
スキップするような足取りで階段を一気に駆け上がり、鳥居を潜る。
「あ」
「天罰が下らないなら俺は生きてるってことかな」
「そういうことじゃないんだって……」
苦笑いを浮かべて少女も階段を上りきった。
疑問があるとすればいま自身の肉体がどうなっているか、ということである。
病院か警察か、なんにせよ穏やかな現状でないのは確かだろう。
ゆっくりできる最期のときかもしれないと、浅くため息をつく。
それにしても、けっこう広いな。
境内には石畳の道が延び、正面に茶色い建物がある。参拝客がお参りをする拝殿だ。拝殿の前には賽銭箱が置かれていた。
「そっちじゃないよ」
つい初詣の癖で、そちらに行こうとしていた俺を少女が呼び止めた。
足が向かう先にまた別の建物があった。
「おみくじ売ってるとこ?」
「……家」
ガラガラと扉を開けて、少女は「ただいま帰りました」と声をあげた。薄暗い廊下の先ならテレビの音が微かに聞こえる。
甘夏は沓抜でローファーを脱ぎ、靴下のまま足吹きマットの上に立った。俺もそれに続こうと思ったが、指がかかとに入らず上履きを脱ぐことが出来なかった。
「む、むむむ」
「……いいよ。べつに、汚れてないみたいだし、そのままでも」
「まさかのアメリカンスタイルか」
家主の許可をもらったので、靴を履いたまま家に上がる。
廊下を少し行った先の襖を開けるとリビングになるらしい。テレビを眺める中年男性に少女はもう一度「ただいま帰りました」と声をかけた。
「遅かったな」
一切振り返ることなく応えた。
白髪混じりだが、体は大きい。性格はわからないが、偉丈夫という言葉が似合いそうだった。
どうやら父親らしい。
「図書室で勉強をしていました」
「うむ、素晴らしいことだ。國學院は推薦で行けるとはいえ、学力は将来の肥やしになる」
「はい」
「バカな連中と付き合わず、自分を常に磨きなさい」
「はい」
「そういえばお前の高校の野球部がいいところまで言ってるみたいじゃないか。プリントみたぞ」
テレビは夏の高校野球の注目選手を特集していた。
「はい。今度地区大会があるみたいです」
「野球なんてやったところでなんの肥やしにもならん。下らない競技だ。応援に駆り出される生徒も可哀想だ。早々に負けてくれたほうがありがたいのに」
「……」
「さ、はやく風呂に入ってこい。上がったら、夕飯するぞ」
「はい」
こちらを見るともなしに言葉を投げ掛けた父親に促され、甘夏は脱衣場に向かった。俺もそれに続いた。
古い建物なのだろうか。木張りの床は甘夏が歩く度にきしんで音をたてた。
「……ねぇ」
「ん?」
「なんで普通についてきてるの?」
脱衣場の扉に手をかけながら、ジトッとした瞳で睨み付けられる。
「私、これからお風呂はいるんだよ」
「そうか」
「……そうかじゃないでしょ。どっか行っててよ」
「どっかってどこだよ」
「……もう、わかったよ。ついてきて」
ため息混じりに少女に自室を案内された。背に腹は変えられない、といった風に頬を少し膨らませている。
甘夏は学生鞄を机にかけた。
整理整頓が行き届いた洋室だった。ベッドと本棚があり、学習机には時間割りが貼ってあった。
「しばらくここでじっとしてて」
「女子の部屋はドキドキするな」
心臓はないけど。
「そう。なんか慣れてそうだけどね」
「いやそんなことないよ。しかしぬいぐるみとかもあって、ちゃんとした女の子の部屋って感じだね」
「……女の子だもん」
不服そうに唇を尖らせた少女に軽く頭を下げた。
「漁ったりしないでよ。お風呂上がったらそのまま夕御飯だから、戻ってくるの遅くなるけど、そのあとおばあちゃんの部屋に行くから」
「漁りたくても漁れねぇーよ」
タンスの引き出しに手をかけるが、すり抜けるだけで、なにも出来なかった。
それを見て少女は「ふーん」と鼻をならし、「じゃ、また後で」と着替えをもって出ていった。
一人部屋に取り残された。
鼻で思いっきり息を吸い込むが匂いを感じることはなく、少女の部屋は奥まったところにあったので、静けさが訪れた。
視覚と視覚以外の五感がどこかにいってしまったようだ。
とりあえず部屋の中央に立って、腕を組む。
自分の体は幽体のようになってしまったが、地面に立つことはできるので、なんだが微妙な状態だ。
壁を見て、まっすぐ歩く。腕を伸ばす。手をつくが水面に押し当てたみたいにズブズブと沈んでいった。そのまま隣の部屋に通り抜けられるのではないか、と思った瞬間、濡れた氷を握りしめたかのようにするりと弾かれてしまった。
薄い壁ならどうだろうかと、思って入り口の壁の方でもやってみたが、結果は同じだった。手のひらから肘くらいまではすり抜けられるが、肩が触れるぐらいで一気に弾かれる。
なんど試してみても結果は同じだった。
生きてるのか死んでるのかよくわからない状態だが、出来ることと出来ないことは見定めておこうと決意する。
今度は身に付けている衣服を脱ごうと試みるも、靴と同じように一体化しているみたいで、シャツのボタンを外すことさえ叶わなかった。
これじゃあお風呂に入ることも無理だなとため息をつく。
不便な体になってしまった。
モノをもてないので、携帯をいじることもパソコンをいじること漫画を読むことも本を読むこともできない。
退屈で死んでしまいそうだ。
ベッドに腰かけ、そのまま横に倒れる。
眠気はないが、目をつむる。
視界が一気に真っ暗になり意識は深い睡眠の海に沈んでいった。