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20 空白の夏


「甘夏!」

 自身の声が鼓膜を揺らす。

 叫んで起き上がり、不明瞭な視界に戸惑った。

 ベッドにいた。柔らかな感触を感じ、先ほどまでの出来事が夢のように感じられた。

「ここ、は」

 甘夏の家ではない。視界は白が八割を占め、清潔感が揺蕩う一室だった。パーティションで区切られており、消毒液の臭いがするので、保健室で寝ていたということに気がついた。

 壁には十代の喫煙を咎めるポスターが貼ってある。

「つう!」

 布団をはね除けて、起き上がろうとしたら、腰に激痛が走った。

「な、なんだ、これ」

 久しく忘れていた痛覚に涙目になる。

「甘夏? みかんか? 季節違くないか?」

「は?」

 情けない体勢で身動きが取れなくなっていた俺に長谷部が声をかけてきた。


 読んでいた文庫本をパタンと閉じ、ポケットにしまうと立ち上がって俺のことを心配そうに見た。

「大丈夫か?」

 一回目に落ちそうになったとき近くにいた青年だ。

「目を覚ましてくれてよかったよ。茂みに落ちたから大事はないって、先生がいうから安心してたけど、いつまでたっても寝たまんまなんだもん。逆に俺の寝覚めが悪くなっちゃうところだったぜ」

 俺の愛想笑いを期待してか、長谷部は身振りを大袈裟にして言ったが、笑いなど起こるはずもない。

 先ほどまでのことが夢とは思えなかったからだ。

「いまはいつだ?」

 痛いのは腰だが、頭も妙に痛んだ。寝過ぎたときの頭痛に似ていた。

「は? あれから一時間もたってないぞ。17時……」

「西暦だ」

「……頭大丈夫か?」

 呆れ顔で告げられた四桁は確かに落ちる前にいた年だった。

 ならばあれは夢だったのだろうか。いや。

「なあ、長谷部、例の飛び降りについてなにかわかったか?」

「その事だけど、その件についての調査はやめようと思っている」

「なんで?」

「友達が落ちたからだ」

「関係ねぇよ」

 睨み付ける。長谷部は呆れたように肩をすくめた。

「しかし急に興味津々とは驚いたな。なんか窓枠に見つけたのか?」

「いいから質問に答えてくれ」

「ああ、悪かった。例の事件だけど、OBと連絡とって一つ分かったことがあるんだ」

 長谷部はポケットから携帯を取り出すとなれた動作で操作し、メール画面を呼び出して俺に見せた。

「元野球部のエースが女生徒を襲おうとしたらしい。それを苦に飛び降りたんじゃないかと噂がある。学校は男子生徒の人権を慮って公表はさけたらしい。たぶん壁新聞が無いのもその関係だな」

 どきりと心臓が跳ねた。冷や汗が出た。

 それは、違う。

 真実として間違っている。

 甘夏は自殺なんてしない。

「その女子は、死んだのか?」

 声が震えていた。

「さあ。その先輩もそんな詳しくなくてさ」

 布団をはね除けて、起き上がる。

「あ、おい、帰るのか? タクシー代くらい出すぞ。巻き込んだみたいなもんだからな」

 保健室のドアをつかんで開ける。

「悪い、急いでるんだ。あと落ちたのは完全に俺の不注意だから気にすんな!」

 叫んで俺は駆け出した。なんとなく走りたかった。


 鞄を忘れたことに気づいたのは校門を出たときだった。

 そんな現実が何年も昔の出来事に思えた。ポケットを念のために確認すると財布と携帯は入っていたので、鞄はどうでもいいやと思い直した。

 グッドタイミングで停留所にバスが来ていた。

 夕暮れが迫っている。

 発車する寸前だったので、慌てて滑り込み、端末をタッチする。ピッと音がしてから扉がしまり、バスは発車した。

 揺れる車内で立ちっぱなしは疲れるので、空いている座席に座り、密に思考をまとめる。


 俺は過去にいた。


 アホらしいと思うがそれが真実だ。

 夢かどうかはさておき、甘夏という少女の姿はいまでもはっきりと思い出せる。記憶がぐちゃぐちゃだし、論理はわからない。

 ただ夢は記憶の整理だと聞いたことがある。

 だからもし、初めて乗ったバスの目的地の一つに秋沢神社があったなれば、あれは夢ではなく現実の出来事だったと言えるだろう。

 神様これが現実ならば、

「次は秋沢神社前ぇ」

 甘夏がどうか無事でありますように。

 気だるげなアナウンスが流れたので、慌てて、降車ボタンを押した。


 バス停で降りたのは俺一人だった。排気ガス混じりの生暖かい風が吹く。

 

 脇道のタチアオイは散っていた。セミも鳴いていない。参道に伸びる階段は紅葉の赤色に染まっている。秋だった。

「まてよ」

 ふと思った。

 彼女が俺のことを覚えている保証はないし、行ったとしても、一方的な紹介では意味がない。

 第一確信が持てないのだ。

 そんなファンタジーなことが起こるとは思えないし、大体なんでタイムスリップしたのか、そういう理屈がわからない。

「そんなの、どうでもいい」

 石段に足をかける度に、どんどんどんどん思考がマイナスになっていく。

 どうか、どうか。

 なんでもいい、理屈なんていらない。

 だから。

 葉が舞い落ちていく。

 秋になったら掃除が大変だろう、とかつて思った道を行く。

 鳥居を潜り、境内を見渡す。

 高く澄んだ青い空を縁取りするような紅葉が映えていた。

 誰もいない。

 さざ波のように葉が擦れる音がする。

 心臓が脈打つ。

「……」

 境内の奥の方に家があった。ふらつく足でそこに生き、壁のチャイムを押した。

 ピンポーンと甲高い呼び出し音が鳴った。

「はい」

 ぶつりと音がして、インターホンのマイクから年配の男性の声がした。甘夏の父親であろう。

 ああ、よかった。妄想ではなかったのだ。彼がここにいるということは、甘夏も必ず存在するのだ。

「ご入り用でございますか?」

 神社の客だと勘違いしたのか、柔らかい口調が機械ごしに投げ掛けられる。

「あ、いや、えっと」

 しまった。何て言おう。こっちに面識はあっても向こうは初対面だ。不審者に近い。

「娘さんにご用があって」

「娘の……知り合いかね?」

 モニターごしとはいえ、しっかりと俺が見えているらしい。よかった。

「はい、一応……」

「どういうつながりだい?」

 敬語はいつの間にか無くなり、言葉に不信感がにじみ出ていた。怪しまれているようだ。

「友達です」

「悪いが、帰ってくれ」

「ま、待ってください。甘夏は無事なんですか?」

「ばかにしてるのか? あの娘はいない」

 会話は乱暴に打ち切られる。

 いない。

 いない?

 腰が痛んだ。落下の後遺症だ。生きてるならば、声を聞かせてほしかった。

 頭が真っ白になった。松虫やコオロギなどの秋の虫が鳴き始めた。夕方のオーケストラが俺の責めるように響き始める。

 神様、どうか、どうか。

「どうか……」

 ふらふらと参道に戻る。

 なにが、神様だ。

「うぅ……」

 段差に蹴躓いて足がもつれてしまった。掃き掃除をしたばかりなのだろう、落ち葉がない道の上で俺は倒れてしまった。

「うぅっ」

 呻く。噛んだ唇から血が出た。鉄の味が口内に広がる。

 涙が出た。

 痛くて痛くて仕方がなかった。

 神社は神聖な場所だから死を忌み嫌う、といつか甘夏が教えてくれた場所で俺は全人類の不幸を祈った。だって、そうしないと甘夏がいない世界に対する不幸の帳尻が合わない気がした。

「くそ!」

 拳を握り、地面に叩きつける。全人類死んでしまえ。

 甘夏を追い詰めて、不幸にして、なにが楽しいんだ。神様が本当にいるのなら、性格が余りにも歪みすぎている。

 辺りは一層暗くなる。

 夕闇。


「うずくまって、体調が悪いんですか?」


 声がした。

 懐かしい澄んだ声。ずっと聞きたくて、聞けなかった声。

「っ」

 顔をあげる。

 薄暗く、見えづらい。街灯も無いので、識別が上手くいかない。

 それでも、はっきりと分かった。

「あ」

 二人同時に声をあげた。

 秋沢甘夏がそこにいた。


 パンクスーツを着て、キャリーバックを持っている。現状が纏められない。

「あ、えっ、うそ」

 鞄を持って石段を上ってきたのだろう、息が切れている。すこし頬が上気していた。

 大人になっているが、顔立ちには少女の面影がある。目を見開いてあたふたとする様子はあの頃と変わりがなかった。

「なんで、どうして、信じられない」

 甘夏はバッグをその場に残し、俺の方にふらつきながら向かってきた。俺も慌てて、立ち上がる。

「甘夏」

 間違いなかった。

 間違いなく、甘夏だった。

 空には一番星が浮かんでいる。

 お互い泣きそうになる。涙が滲んで景色が歪む。

 少し冷たい夕風が吹く。鎮守の森がさわさわと音をたてていた。

「ほんとうに、ほんとうに」

 夢遊病者に似た足取りで、ふらつきながら甘夏はこっちに来た。

「夢じゃないよね。夢じゃない……」

「ああ、ああ!」

 甘夏はボロボロと泣きながら、震える指先で俺の胸を軽く小突いた。

「触れる。生きてる」

 同じ事を呟きたかった。

 涙の粒が落ちた。

「無事だったのか」

 胸を撫で下ろす。

「親父さんがもういないって言うから、俺はてっきり」

「街を出たの。いろいろとあったから転校して……今は大学の寮に入ってる。あれからお父さん私くらいの男の子のことを毛嫌いするようになったから……。ごめんなさい不愉快な思いをさせてしまって」

「いや、いいんだ。また会えて良かった。運が良かったよ。帰省のタイミングと重なるなんて」

「ううん、違う。帰省じゃないよ。教育実習にいくの。母校にね」

 夜になっていく。町に優しく降り注ぐ月明かりが俺たちも包み込んでいた。

 いい気持ちだ。

「ねぇ、お願いがあるの」

 甘夏は涙をぬぐいながら、俺を見つめた。

「もう一度だけ、手を繋がせて」

 断る理由があるはずない。

 出された小さな手。指が五本、しっかりと。

「もちろん」

 彼女に出会えたそれだけで俺は生きていた良かったと思えたのだから。


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