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19 あさぼらけ


「こんな時間になにしてるんだ?」

 グラウンドを走る運動部の声が断続的に響いていた。

「私は忘れ物取りに来てたの。江川崎はどうしたの?」

「俺は秋沢と話がしたくてさ」

「話? なんの?」

 開け放たれた窓を背後に、甘夏は首をかしげた。

「秋沢、だけなんだ。俺の腕が、こんなんになってから」

 左手で包帯でつられた右手を掴む。

「いつもと変わらず声をかけてくれるのは」

 孤独を感じさせる発言だった。

「……そうなんだ」

「俺さ、お前のこと」

「……」

 江川崎の目は真剣だった。シチュエーションの結末を甘夏は理解できているらしい、戸惑ったようにおどおどしている。

 照れたようにモジモジする甘夏を少年は試すようにねめつけた。

「なあ、わかるだろ?」

「え、えと……」

 茶化す風もなく、江川崎はギプスをつけていない方の腕で、甘夏の右手首をつかんだ。

「あ、あの……私……」

 そのまま、自分のほうに引き寄せる。

「あ」

 時間が止まるような気がした。

 俺は必死で手を伸ばしたが、なにも触れることはできず、空を切るだけだった。

「……っ!? んっ」

 甘夏は口づけされた。思いっきり。抵抗する間もなく。

 少女は戸惑い、目を見開いたが、江川崎は実に堂々とした振る舞いだった。自然な動作で糾弾する唇を塞いだのだ。

「んっ……」

 江川崎の左手はいつの間にか甘夏の後頭部を掴んでいて逃げられないようにしていた。

「おい、……なにやってんだ、てめぇ」

 俺の言葉が江川崎の耳に届くことはない。

 そのまま数秒、ねっとりとした口づけが続き、最後はどんと突き放すように江川崎を押しのけて終わった。

「はぁ、はぁ」

「秋沢……」

 よだれが甘夏の口から垂れる。舌を入れられていたらしい。

「なん、で……」

 甘夏はその場に力無くへたりこんだ。

「好きなんだ、お前のことが」

「だからって、なんで、こんなことするの」

「え」

 甘夏の言葉は予想外だったのだろう、江川崎はおどろいたように体を強張らせた。

「酷いよ……」

「だって、お前も……」

「勝手なこと言わないで!」

 甘夏は叫んだ。そのあとで俺の方をちらりと見て、涙を流した。

「わたし、こんなの、やだよ……」

 目元を両手で覆い、かすれるように甘夏は呟いた。

 江川崎はそれを見下すように所在無げに立っている。

「だって、俺は秋沢も望んでるもんだと……」

「なにそれ……」

「だから、やってんのに……」

 人を見下すような発言に腹が立った。甘夏の怒りは傍観者の比ではないだろう。

 少女は強い怒りをにじませた瞳で江川崎を睨み付けた。

「私の気持ちを勝手に決めつけないで! 最低だよ!」

「……なんでだよ!」

 江川崎の言葉に怒気がこもった。

「好き同士がキスすんのは当たり前だろ!」

「好きじゃないもん!」

 甘夏は立ち上がり、口許をぬぐいながら、涙で滲んだ瞳のまま江川崎を睨み付けた。

「人の気持ちがわからないくせに、自分がしたいことばっか押し付けて! そんなんじゃみんな離れていくにきまってんじゃん! 」

 江川崎は震えていた。

 甘夏は尚も言葉を続ける。

「なんでそんなこともわからないの!? 他人の気持ちくらい素直に考えてよ!」

「考えてる! ちゃんと相手に向き合ってる!」

 間をおかず怒鳴り返された甘夏は怯むこと無く言葉を続けた。

「見てないからこんなことするんでしょ! この下衆!」

 それが不味かった。

「ふざけんじゃねぇぞ!」

 一瞬だった。江川崎の左手が甘夏のシャツを掴み、一気に振り下ろした。

「きゃ!」

 短い悲鳴をあげた少女の胸元ははだけ、下着が露になった。弾けとんだボタンがパラパラと教室の床に散らばった。

「そこまで言うならよ、ぜんぶ、見てやるよ……」

 江川崎の表情はひくついている。勢いがよかった甘夏は言葉を失い、顔を青くした。

「やめ……」

 後ずさる。

「お前が言ったんだろ、見てやるって。遠慮すんなよ」

「来ないで……!」

 江川崎の左手が伸び、甘夏の口をふさいだ。

「声出すなよ」

 塞がれた手から声が漏れる。

「見ないで……!」

 その言葉は、江川崎ではなく、俺に向けられたものだった。

「手を離せぇ!」

 俺は叫んだ。心の底から、握りしめた拳を江川崎の背中に浴びせるために。

 でもどれだけやってもすり抜けるばかりで、有効打にはなり得なかった。

 無力だ。無力だ。無力だ。

 見ているだけしかできない。「見ないで」と懇願する甘夏の言葉に逆らって。

「うっ……」

 何回も拳を振り上げ、それでもなにも起こせない。

 教室には甘夏のすすり泣く声が静かに響いた。

「なんなんだよ……」

 無力感しかない、涙の粒が床に落ちる。

 この涙は、甘夏のではない。

 俺はいま、泣いているのか?

「……」

 悔しいから、涙が出た。死んでいても涙は出るのか?

 心があるから涙が流れるのだとしたら。

「甘夏っ!」

 少女の名前を叫ぶ。

「冬樹くん……」

 消え入りそうな掠れた声で返事をもらう。自分の中で何かが切れた。

「うぉぉぉぉ!」

 叫んで、俺は江川崎の後頭部を殴り付けた。


「っう!?」

 殴れた。

 殴れたのだ。

 殴った拳が痛かった、

「な、だ、だれだ!」

 江川崎は顔を青くして辺りを見渡したが、当然のことながら俺が視認されることは無かった。戸惑いと恐怖が元球児の顔に浮かぶ。

 湿っぽい風が教室に吹いた。甘夏のしゃくり混じりの泣き声が響く。カーテンが揺れる。

「な、なんだ」

 江川崎は棒立ちになって辺りを見渡している。

「そいつから、離れろ!」

 江川崎を小突くと力を込めていないのに、存外彼は後ろによろけた。

「な!?」

 ロッカーに当たり、ガタンと大きな音がなる。

「だれか、誰かいるのか!?」

 江川崎の声には恐怖がにじんでいた。

「く、くるな!」

 見えない世界を拒絶するように、江川崎は左腕を振り回す。

「こっちへ、来るなぁ!」

 鍛えられた腕が鞭のように空気を切り裂く。

 それが、甘夏の華奢な身体に当たった。

「きゃ」

 スローモーションに見えた。

 半狂乱で暴れる江川崎を押さえようとしていたのか、近くにいた甘夏が一気に遠くなる。

 そのまま背後に向かってスッ転ぶ。背景に灰色の曇天が広がっていた、

 窓は全開だ。

「あぶな――っ」

 腕を伸ばす。甘夏の伸ばした手が、俺の手に触れ、すり抜けた。

「あ」

 咄嗟のことで、集中が、切れた。

 小さくなっていく甘夏の黒い瞳が、身体が、外に向かって倒れていく。ガツンと甘夏の腰が窓枠に当たる音がした、横向きに反転するように、甘夏が落ちて、

「秋沢っ!」

 俺の手の代わりに江川崎の手が伸びた。


 甘夏は宙ぶらりんになっていた。

「あっ」

 反転し、後頭部を外壁にぶつけたのか小さな悲鳴が上がった。

「待ってろ、いま上げるから」

 甘夏の右手を掴んだ江川崎は力を込めるため踏ん張った。片手とはいえさすがは運動部だ。利き腕でないほうにも関わらず、人一人を支えられている。

「ぐっ」

 小さく江川崎が唸った。

「秋沢、そっちの手で俺の体を掴んでくれ、汗で滑る。しっかり掴んでくれたら引き上げられる」

 三階だ。無傷で落下するのは難しい。江川崎の声にしたがって、甘夏は無言のまま右手を伸ばした。

「なあ」

 甘夏の足から血が垂れている。つたった血液が壁にシミを作っていた。

「これで、俺のこと許してくれるよな?」

「……なんで、そんなこと……」

「俺、お前が好きなんだよ。付き合ってくれよ」

「……」

 甘夏の表情は凍りついていた。

 初夏とは思えない冷たい風が吹く。

「わたし……」

 甘夏は確かに俺を見ていた。

「あなたよりもっと好きな人がいるから……」

 ずるり、と甘夏の身体が沈む。

「早く掴めよ……なにしてんだよ……」

「……」

 甘夏は泣きそうな目で俺をみた。

「私、江川崎くんの手は掴めない」

 宣言は、覚悟の表れのように思えた。

 甘夏は窓枠に指をかけ、自分だけの力で自分の体重を支え始めた。

 でも、そんなの長く持つはずがない。

 俺は直ぐに見栄を張るのをやめろと叫んだが、彼らの耳には届かない。

 甘夏は最期に静かに笑って、

 ずり落ちた。

「あ」

 江川崎は半ば放心状態で動けずにいる。

 甘夏の身体が落ちる。重力に従って落下していく。

「甘夏っ!」

 江川崎をはね除けて、俺は手を伸ばした。


 俺の手は彼女の右手首を掴むことに成功した。

「浮いて……」

 江川崎が震える声で呟いた。確かに端から見たらそう見えるだろう。確かに俺は甘夏を支えることができているのだ。

「冬樹くん……」

「っ……」

 精一杯引っ張りあげる。俺は江川崎と違って運動をしていないので、全く力がこもらない。腕も滑るし、足も滑る。踏ん張りがきかない。

 江川崎はというと宙に浮く甘夏にびびったのか、唇を震わせてこっちを見ている。

「甘夏! 手を伸ばせ!」

 腕を思いっきり伸ばし、必死に彼女を安全圏に引っ張り上げようとする。

 外から悲鳴が聞こえた。どうやら、甘夏が落ちそうになっているのを校庭にいた生徒が見つけたらしい。口々に「あれっ!」と指差す声が聞こえる。

「私……っ」

 蝉の声が聞こえた。この夏はじめての鳴き声だ。

 恋に焦がれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす。

 甘夏の授業でいつか聞いた都々逸が脳裏をよぎった。

 ああ、頼む。もう少し、もう少しなんだ。

「甘夏ぅ!」

 代わりに。だから、彼女だけは。


 ふいに俺の体が浮き上がる感覚がした。

 前のめりになりすぎたらしい。

 共倒れ。

 嫌な予感が頭をよぎり、顔も見えない甘夏に心の中で謝罪する。

「あ」

 甘夏の髪の香りが鼻の奥で弾けた。

 少女の体を江川崎が引っ張りあげるのを、俺は落下しながら確認し、安堵した。

 彼女は助かったが、代わりに俺が落ちてしまったらしい。全くもってつまらないオチだ。

 ぐんぐん近くなる地面。

 視界とともに、思考が遮断される。後には暗闇のみが残った。



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