1 明日は雨だと君が言うから
なにも見えない。
パチリパチリと耳元で音が弾けていた。それ以外に感覚はない。
体が妙に軽かった。
「う」
自分の声だ。掠れているが間違いない。
薄くを目を開けた。ぼんやり滲む視界がやがてはっきりとしてくる。世界が傾いて見える。どうやら横になっているらしい。
上半身を起こして周囲を見渡すが、いまいち現状を飲み込むことが出来なかった。
辺りはすっかり暗く、雨が降っているので視界は悪かった。
職員室や校庭を囲む街灯が線のように落下する雨粒を照らし出している。
「落ちたのか?」
自問自答するように声に出した。
見上げた校舎の三階は薄暗く、窓が開いているのかさえ判断がつかなった。
それにしても、妙だ。
三階から転落したのに、痛みがない。
自分の手のひらをじっと見つめる。
体が軽い。
「あの……」
「っ」
ぎょっとして、声がした方を振り返る。
「大丈夫、ですか?」
髪の長い少女が立っていた。
「大丈夫……って、なにが」
「うずくまって……体調が悪いんですか?」
一階の職員室の灯りが彼女を照らし出す。
ビニール傘を持った背の小さな女の子だった。
長い黒髪を足らし、不信そうに俺を見ている。
「いや、体調は、悪くない」
「それはよかった。でもあんまり濡れると体調をくずしますよ」
くすり、と笑うと女生徒は肩にかけた鞄のファスナーを開けた。
「折り畳み傘で良ければ」
しとしとと雨が降っている。
「傘…… 」
はじめて自分の体の違和感に気づいた。
濡れていないのだ。
「っ」
立ち上がる。
自分の前髪をつまんで、ゾッとした。
乾いている。
服も、肌も、髪も、雨が当たる感覚がないのだ。
「まさか、そんな」
「ど、どうしたんですか」
「そんな、そんな、そんな、ばかな」
「え……」
青ざめる俺を見て、女生徒は唇を震わせた。
「あなたは……」
女生徒は微かに呟くと、はっとした表情を浮かべ、
「……っ」
俺に背を向けた。
「待ってくれ!」
そのまま駆け出そうとする少女を呼び止める。なんで声をかけたのか、自分自身でもわからなかった。
「来ないで!」
怒鳴るような声で少女が叫んだ。雨の音が強くなる。見返りの視線は冷たい。
「ついてこないで。あっちに行って」
「お、お願いだ。待ってくれ……」
それでもすがるように喉を震わせた。
「頭が回らないんだ。俺は、俺はどうなってしまったんだ。なにも思いだせない。ただ、三階から落ちたってこと以外……」
「……酷なことを言うようだけど」
体をこちらに向け、少女はまっすぐに俺を見た。視線に哀れみが宿っといる。
「たぶん、あなたは、死んでしまった」
薄々とした予感が濃くなっていく。
「……うそ、だろ」
「……雨に濡れていないのなら、おそらく、そういうことなんだと思う」
「君は……」
「私は……そういうの、たまに、見えるから……」
理解しがたい現実が俺に押しかかっていた。体は異様に軽いのに脳が回らない。
気づけば膝をついて項垂れていた。
それでも服が汚れることはなかった。地面にはいくつも水溜まりができている。
「そのうちお迎えが来ると思う……。それまでの辛抱だから」
「……お迎えってなんだよ」
「ごめんなさい。私も詳しいことわからないの。ただ、必ず救いは訪れるものだから」
「意味わかんねぇよ……」
「……」
ぱしゃりぱしゃりと足音が近づいてきた。顔をあげると女生徒が目の前に立っていた。
真剣な面持ちだ。
彼女は腕をまっすぐに突き出し、持っていた傘を俺に向けた。
視界が晴れた気がした。
「……傘なんか無意味だよ。濡れないんだから」
すっぽりと俺を覆い隠すように傘が傾けられている。代わりに少女に冷たい雨が降っていた。
「意味はあるよ。心が濡れてしまわないように、傘をさしだしたの」
「ポエマーかよ」
「茶化さないで。あなた、今にも泣き出しそうな目をしている」
「泣きたいのに、涙がでないんだ……」
心さえ、失ってしまったように、今の俺は空虚だった。
「あなたのことは本当に可哀想だと思う。若いのに死んでしまうなんて。だけど、世の中を恨まないで、生きてる人たちを見守って上げて」
「そんな事ができるほど、俺は器用じゃない」
立ち上がる。異性とここまで至近距離で見つめ合うのは初めてだった。傘を彼女に戻そうと手を伸ばすが、すり抜けるだけで、触れることも出来なかった。
ああ、ああ。
認めたくない事実が目の前にある。
無性に悲しい気持ちになって、吐き捨てるように言った。
「風邪をひくから傘を自分で使え。俺はいらない。いらなく、なったんだ」
「あなたが……迷わずに逝けることを祈ってる」
「……」
少女は浅く息をついて、踵を返した。
これから、どうしよう。
所在無く立ち尽くした。
だだっ広い校庭が虚無を包み込むように広がっていた。
「私はあなたを救うことはできないけど」
ふいに声が聞こえた。視線を校門の方によると、先ほどの少女が振り向き様にこっちを見ていた。
「おばあちゃんならもしかしたら助けてあげられるかも」
どこか希望を感じさせる少女の微笑みが、心を優しく照らした。
「ついてきて」という端的な言葉にしたがって彼女のあとに続く。
少女は恐怖心を一切感じさせない堂々とした歩みで帰路についている。
「なあ、怖くないのかよ」
「なんで?」
「なんでって、俺、たぶん……死んでんだぜ」
「なんで疑問系なの? 死んだ瞬間のこと覚えてないの?」
「いや……」
逆だった。
その瞬間のことははっきりと思い出せる。窓から落ちたのだ。だが、そこ以外は,
「なにも思い出せない」
記憶に靄がかかったようだ。
「……そう、なんだ」
「思い出せないんだ。俺の、自分の名前さえ……わからない」
「早く思い出せるといいね」
「ま、別に、いいさ」
酸っぱいブドウを前にした狐のような気持ちで嘯く。
「幽霊に名前なんて不要だもんな」
嘘だ。本当はすごく気持ち悪い。
生きていたことは覚えているけど、過去の自分がどこにいったのかすらこのままではわからないのだ。
「私はそうは思わないよ」
「え」
「名前は大切だよ。あなたがあなたを見失わないために名前はあった方がいい。それに名前がないと自己紹介できないじゃない」
物怖じしないはっきりとした口調に呆気にとられてしまった。
「そういう君はなんていう名前なんだ?」
「あなたが思い出したら教えてあげる。そのときにお互いの自己紹介をしましょ」
雨音が優しく鼓膜を揺らす。濡れたアスファルトに曇天の空が広がり、世界は黒に染められていた。闇を切り取るように灯る街灯が少女を照らし出していた。
「それじゃ何て呼んだらいいんだよ」
少しだけ考えるそぶりをしていたが、すぐに答えてくれた。
「……甘夏」
「あまなつ? なんで」
「みかん、好きだから」
「なんだそれ」
冗談ともとれない真剣な表情に笑ってしまった。
「私はなんて呼んだらいい?」
「俺は空気と変わらないからな。
呼ばないでくれていい」
「そんなこと……」
「違うんだ。自分の本当の名前がわからないで別の名前を名乗るのは本当の名前を忘れてしまいそうだろ」
「……っ」
甘夏は身体をびくりと震わせた。
「どうかした?」
「私も同じ事を思ってたから……」
「同じこと?」
「ううん、なんでもない」
少女は照れ隠しのように壁に向かって傘の水滴を飛ばした。
「それにしても幽霊を前にしてまったくビビらないなんてすごいな」
傘をさしながら歩く姿さえ様になっている。
甘夏は俺をちらりと見て、呟くみたいに言った。
「……負の感情を膨らませてるやつは怖いというより嫌だけど……」
「なに?」
「……あなたにはそういうの無さそう」
「能天気だな」
「それ自分のこと? それとも私のこと?」
「ご想像にお任せするよ」
くしゃりと笑い、少女は歩く。
俺は傘の外だが、雨に濡れることはなかった。暗雲が空には広がっていたが、なぜだか気分が落ち込むことはなかった。