18 あさぼらけ
朝になって星が消えて音がラジオ体操に変わるころ、甘夏はベッドからむくりと起きると寝ぼけ眼で俺をとらえ歯を見せて「おはよう」と笑った。
境内の掃除を始める。いつも通りの朝が始まったらしい。
「あのね、夢を見たの」
ホウキを忙しなく動かしながら、彼女は朝の清澄な空気に弾むような声を溶かした。
「夢の中で私と冬樹くんは同じ教室で笑い合うの」
「いいね」
「ほんと。そういうことがあればいいのに」
甘夏がはにかむ。空はみるみる赤く染まっていく。掃除が終わる頃には、神社に降り注ぐ曙光は真っ赤だった。
残された星が朱色に飲まれていく。
燃えるような日の出だ。高台にある秋沢神社から、赤に包まれる町が一望できた。
「今日は凄い朝焼けだね」
誇らしげに俺の横に立った甘夏がホウキを手にして微笑んだ。
「真っ赤だ」
二人して言葉を失う。
それほどまでに美しい景色だった。
甘夏は掃除を忘れて空をじっと見つめていた。
赤い空とに照らされた雲が墨のように黒く染まっている。
「雨が降るかもしれないな」
「なんで? たしかに梅雨明けは宣言されてないけど」
甘夏がこてんと首をかしげた。
「朝焼けは雨、夕焼けは晴れっていうだろ? 空気中の水分量が多いと拡散しにくい赤色が目立つんだ。日本の天気は西から東へ変わっていくから、朝焼けが凄いときは雨になりやすいんだ」
「そういう理屈は好きじゃない」
甘夏はいたずらっ子のように目を細めた。
「目の前の景色が綺麗、それでいいじゃない」
「そうだな」
朝焼けに染まる世界を見て、俺はこの街を好きになった。
予想通り七時過ぎから雨が振りだした。甘夏は初めて会ったときに使っていたビニール傘を差して登校した。不要だと言うのに、俺のほうに傾けるから、彼女の左肩は少し濡れてしまった。
学校内は湿気の臭いに包まれ、不快指数を倍増させるみたいだった。
教室について、自分の席についた甘夏にべつの女の子が「おはよう」と声をかける。甘夏もそれに笑顔で答えた。
「なんだ、友達いるじゃん」
とからかうと無言で睨み付けられた。
テスト明けの授業は復習と返却で終わり、淡々と一日が過ぎていく。
七月一日。夏休み前のワクワクが教室には溢れていた。
期末が終わればあとは消化試合だ。
昼休みはサマーバケーションの予定を計画だてる声に溢れ、教室でご飯を食べる甘夏の近くには三人くらいの女子がいて、同じように予定を計画しながら笑いあっていた。
孤独のランチとおさらばしたらしく、代わりに俺が一人になってしまった。
なにもすることもないので、ブラブラ散歩することにした。
浮幽霊が如くふらついていたら部室棟についていた。昼休みは閑散とし、面白味に欠けるので、階段で下の階に行こうとしたところ、踊り場で男女の声が聞こえた。
「だから治療に専念してほしいの。アタシは心配だから言ってるんだよ」
ほんのりと茶髪が入った長い髪の毛と薄い化粧をした女生徒だった。なかなかの美人だが、かなり性格はキツそうだった。
「夏休みに遊園地に行くくらいなら」
すがるような声をたてたのは江川崎だ。
「言っちゃなんだけど、遊んでる暇ないでしょ」
「大丈夫だって、俺はただお前と」
「あのさ、この際だからはっきり言うけど、あたし今年受験生なの、勉強で忙しいから遊んでる暇ないの。それはあんたにも言えることなんだからね。野球無くなったら、どうするか考えた方がいんじゃない?」
冷たく突き放すように言うと、女生徒は足早に階段を下っていった。彼女の語気に気圧されたらしい江川崎は「俺は、ただ……」と誰もいない空間に呟いた。
なんか嫌なものみたな。
俺はそっと踵を返し、甘夏の教室に戻ることにした。
息のつまりそうな退屈を引きずりながら、教室に戻った俺を見つけた甘夏が小さく手を振った。
「どうした? なっちん」
「え、あっ、な、なんでもないの。羽虫がいたからさ、それを追っ払っただけ」
「ふぅん」
友達になにもない空間に手を降る奇行を見られた甘夏は顔を赤くして言い訳した。慌てる様子が面白くて、笑いながら窓辺に腰かけたら、不機嫌そうに睨み付けられた。
そんなことしたらまた友達に不審がられるぞ、と注意をしてやったら素直に正面を向くもんだから、失笑してしまった。
今週の当番は教室だった。
甘夏以外の女生徒二人は、予備校という言い訳をして、掃除をサボって帰路についた。男子三人と甘夏一人の掃除が始まった。巧みなホウキ捌きで教室のチリが一掃されていく。
江川崎も一緒の班だった。昼休みの痴話喧嘩を、偶然とはいえ目の当たりにしたので、なんだか哀れに感じてしまった。
黒板消しをクリーナーにかけ、取りきれなかった粉を窓から二つを重ねて拍手するように落としていた。白い粉が煙幕のように空気に色をつけていく。
「じゃあ、ごみ捨ててくるから。机戻しといてくれ」
男子二人が教室のごみ袋を持って集積所に向かっていった。
教室には甘夏と江川崎が二人残された。
「江川崎くん」
ホウキの柄に顎をのせ、甘夏は江川崎の背中に声をかけた。
「あんまり無理しないでね」
「無理?」
江川崎が振り向く。無表情だった。
「どういうことだ?」
「んーん、気のせいならそれでいいの。なんか最近無理してるように見えたから」
「してねぇよ、そんなの」
ぶっきらぼうに答えられた。
江川崎の声にはトゲがあったが、甘夏気づくことなく柔和な笑みを浮かべた。
「そっか。それならよかった」
ロッカーに自在ボウキをしまい、振り向き様に甘夏は続けた。
「江川崎くんならきっと大丈夫だよ」
根拠のない励ましに、思わず吹き出してしまった。
チャイムが響き、放課後を迎える。
校庭には野球部の掛け声が響いていた。サンクガーデンから吹奏楽部の演奏が聞こえる。
降っていた雨は昼過ぎには上がり、すっかり過ごしやすい気温になっていた。
昇降口でローファーに履き替え、傘立てからビニール傘を引き出していた時、少女は「あ」と小さく口を開いた。
「どうした?」
「進路希望調査表、忘れてた」
傘を戻す。
「今週締め切りなんだ。取りに行かないと」
小さくため息を吐いてから、甘夏はもといた教室に向かって歩き出した。
帰宅を急ぐたくさんの生徒たちの流れに逆らうようにしてクラスにたどり着いた甘夏は半ば駆け足で自分の机からプリントを取りだし、クリアファイルに入れて鞄にしまった。
「……」
「どうしたの? なんか無口だね」
甘夏が俺の方を向いて首を捻った。
「ん、ああ」
教室には誰もいなかった。シンと静まり返った室内に甘夏の声が優しく響いた。
「悩みでもあるの? そういうのは友達に相談した方がいいんだよ」
いつか俺が言った言葉だ。わざとらしくニタニタと笑う甘夏に俺は照れ隠しに鼻の頭を掻いた。
「悩みか。なんかな、色々とさ、思い出してさ」
「あ、そうなの。聞かせてよ」
「……」
脳裏をめぐる様々。
「いや、なんでもないよ」
「秘密主義だね。私のことはズカズカ聞いてきたくせに」
茶化すように彼女は笑った。
「そんなことしてないだろ」
「してるよ」
嬉しそうに髪をかきあげる。
「あのね、冬樹くんと会ったあの日、私、死のうと思ってたの」
「え?」
甘夏の瞳は柔らかい。
「あ、そんな深いやつじゃないよ。ほら、そういう気持ちになることあるじゃん。家でも、学校でも嫌なことがあって。もう耐えられないって思って、窓の外をぼんやり見てたの」
時計の針が進む音が静まり返った室内に響いていた。
「そこにね。冬樹くんが倒れているのが見えたの。つまり私はあなたに何回も救われてるんだよ」
「言い過ぎだよ」
「ううん、そんなことない。だからね。私があなたに対して出来ることならなんでもしてあげたいの。悩みを軽くできるなら話を聞く。何かしてほしいことがあったら言って、きっと力になるから」
甘夏は鼻息荒く俺を見つめた。なんだか、嬉しくなって思わずポロリと尋ねてしまった。
「なあ、甘夏、いくつか質問していいかな」
「ん? いいよ。私でわかる範囲でよければ」
「ここって普通科の二年三組だよな」
「……うん、そうだよ」
嫌な予感が胸をよぎる。俺はいまからあり得ないことを確認しようとしている。
「やっぱり間違いないんだ」
「なにが?」
「ここ、俺が落ちた教室だ」
俺が落ちた時、ここは空き教室になっていたはずだ。だのにしっかり二十人生徒がいて、きっちり授業を受けている。
「えっ、そうなの」
「ああ、間違いない。気づくのが遅くなったが」
「どの窓から落ちたの?」
「そこ」
俺が指差した窓を甘夏は全開にした。
「ここから……」
下を覗きこむようにうつ向く。雨の匂いをまとった風が優しく室内に吹き込んだ。
全開。
全開にできたのだ。ストッパーはどこに行った。
少女の髪が風に吹かれて浮き上がった。
「あともう一つだけいいかな、あのさ」
顔を上げ、甘夏は黒い瞳で俺を見た。
夏休みに入るに当たって、校長先生が朝礼でもうすぐ百周年という自覚を持って、と宣っていたが、
「おかしな質問かも知れないが、いまは何年?」
「何年って、西暦?」
「そう」
「二千……」
がたん。
音がして、俺も甘夏もそちらに視線をやった。
荒々しく開かれた教室の扉の前に江川崎が立ち、奇妙なものでも見るような目でこっちを見ていた。
「秋沢……そこに誰かいるのか?」
敷居を跨いで、江川崎は甘夏の正面に立った。
俺の質問は彼の来訪で一時中断されたらしい。
「え、なにが?」
「いや、気のせいならそれでいいんだけど」
他人の前で俺と会話する訳にもいかないので、甘夏は冷静な顔つきで誤魔化した。




