1 俺と王女と味噌汁と
「アーー!!」
落ちていた。落下していた。フォーリング・ダウン。俺は木陰で昼寝をした結果として言葉を喋る忙しそうなウサギを追って穴に飛び込み、今現在、絶賛落下中だ。みんな、午睡には気をつけるんだ。俺との約束だ。俺は約束は守る男だ。
「ちょwwwwwww マジありえなくね? コレ勇者? ただのキモオタじゃね?」
落下し終えた俺を見下ろしていたのは、絵にも描けない美しさの美少女だった。言葉遣いはアレだが。まあ、そんなのは、些細すぎる問題だ。
「どうも、キモオタです」
俺は礼儀正しく挨拶した。俺のイングリッシュは、パーフェクトなクイーンズ・イングリッシュだ。日本放送協会のラジオ講座で勉強した……、嘘だ。あのチャンネルで扱うのは何故か、アメリカ英語オンリーだ。
「おお……! 勇者キモオタ様! 我らの王国をお救い下さい!」
「よっしゃ任せろ! ゴキジェットはドコだ!?」
「はっ! こちらになります。350ml缶と500ml缶がございますが、どちらに?」
控えていた白髪白髭白ローブの男性が、懐から、緑色の缶にゴキジェット! と書かれた缶を左右の手にそれぞれ、持って見せる。俺は悩んだ。
(350ml缶は取り回し易いが、若干、重さに欠ける……、対し、500mlの容量は魅力的……! しかし、果たして、魔王との遭遇率は、せいぜい、7日に一度……。使い切るのに何年かかるんだ……? ゴキジェットはやはり、劣化するのか? 使用期限はあるのだろうか?)
俺の背中を、冷たい汗が流れ落ちる。
これは、今後の戦況を左右する重大な決断だ。世界の命運がかかっているといっても過言ではない。
ーーやがて俺は、静かな吐息をはきだす。
「ーー君に決めた」
「なんと。ワシをーー」
ご老体は、頬をピンク色に染め、目を輝かせ、身をくねらす。
俺は、王女の手を取った。
「結婚してください」
「ええ。喜んで」
俺たちは手を取り合い、魔王のいなくなった平和な台所を進んでいく。
「俺のために毎日、味噌汁を作ってくれるか?」
「もちろんよ、あなた。赤味噌と白味噌、どっちが好き? もちろん、混ぜたっていいのよ」
混ぜる、だってーー?
俺の脳裏は、あまりの快楽に、思考麻痺を起こす。
赤味噌にはカラッとした味わいがあり、白味噌にはトロッとした味わいがある。それだけでもとても選べないのに、まさか、混ぜ合わせるだなんてーー。そんな選択が、あって良いのか? これは、夢じゃないか?
混乱する俺の腕を、彼女の柔らかく白い手が、つうっと撫でる。
俺の耳元で、甘い声が囁いた。
「おダシはどうするの? カツオ節? それとも、煮干し? 昆布だっていいのよーー?」
「そ、そんな破廉恥な……ッ!! おふくろの作る味噌汁はいつもべったりとしていてしつこい味で! ……いつも、飲み終えると、底には、無残に取れたニボシの頭が沈んでて……! ニボシの白く濁った虚ろな目が、いつも俺を見るんだ……味噌汁って、そういうものだよ。そうでなきゃならないって、ずっと思ってた……!」
王女の涼やかな甘い声と、仄かに、ニセアカシアの房のように連なる白い花のような香り。つい顔を近づけたくなるような。
「もう子供じゃないのよ。どんな味噌汁を飲むのも、あなたの自由。でも、忘れないで。自由は、いつだって責任を伴うものよ」
「俺は。俺が本当に飲みたかった味噌汁は……!」
再びの、浮遊感。俺はベッドから落ち、いつも通りにケータイのアラームが小うるさく鳴っていた。
今日、あなたが飲む味噌汁は、本当にあなたが望んだ結果なのか。