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月、射そそぎて 花、咲きなだる

番外編です。

本編より五年くらい前のアイラとギルのお話です。

ある夜の水蘭館での一幕。


※注意

『月の精霊と水蘭の館』の別視点のお話でもあります。

なので、そちらのネタバレをしていると言えなくもないです。

気にしないという方は、どうぞ。

とき満ちて、水の館の水蘭の

月、射そそぎて 花、咲きなだる



 月の光と白い花と清らかな水。

 『精霊の誓約』の成就を見た、あのとき、アイラはまだ、十になるかならずの子どもだった。

 けれど、何ものにも侵されざる、二人だけの神聖な『やくそくごと』なのだと、子ども心にも、厳粛に胸に刻まれた、あの夜。



 ※   ※   ※



 夜半、どうしたことかアイラは目が覚めてしまった。

 床についたら朝まで熟睡した記憶しかないアイラからすると、この事態は珍しいを通り越して異常だった。

 もう一度目を閉じる気にはなれず、アイラは寝台の上に身を起こした。

 寝室の窓を覆う垂れ幕は厚い。その合わせ目の隙間から、青白い光の筋が差し込んでいる。陽の光とは違う冴えた色は、静寂の中にあって不思議な温かみを宿していた。

 やわらかい敷物の上を裸足で踏んで、アイラは垂れ幕を開け放った。

 夜空に浮かぶ銀盤の投げかける明かりが部屋を満たした。

 呼ばれていると、思った。

 アイラは寝間着のまま寝室を抜け出し、浮かされたような足取りで庭へ降り立った。

 さらさらと銀の髪を揺らして天を仰ぎ見る。


「まあるい、お月さま……」


 十五夜の月が夜のすべてを照らしている。

 アイラはゆるりと庭を見渡した。

 水蘭館のそこかしこに宿る小さいものたちがざわめいている。

 信じられないほどに明るい月光が作り出す陰影によって、庭は妖しさを増し、その魅力をいっそう際立たせていた。

 人を蠱惑する闇をはらんだ夜の庭を前にして、アイラの青紫色の瞳は澄んでいた。

 視界の端を、ひゅんと横切って飛ぶものがいる。背の瑠璃色の筋も鮮やかに、トカゲが石の影に走り込んでいく。微風が渡ると、何かが短く喉を震わす。

 聞こえる音は密やかで、けれど感じる気配はそわそわと落ち着きがない。

 息を潜めて祝祭のときを待つような、高揚した空気が庭を満たしている。

 大きなシダの下で、白い蛇が首をもたげていた。そして、音もなく庭の奥へ消えていく。

 アイラは恐れ気もなくその後を追った。ほどなくして、池のほとりに辿り着いた。

 水蘭館の池は大きい。

 対岸に人がいれば、アイラの指ほどの大きさに見えるだろう。

 滔々と湛えられた水は鏡のように平らかで、月を映して輝いている。

 水面には、数個の小さな島があった。島といっても、それは水蘭が群生してできた浮島で、人が乗ることはできない。

 その細長い刃のような葉の間から幾筋もすうっと伸びた茎の先に、ふっくらとした蕾が数えきれないほどついていた。

 仄かに白い玉が宙に浮いているようにも見え、それは夢の狭間のような光景だった。

 そのやわらかな静けさの中、水蘭館に棲むすべてのものが興奮を抑えて様子をうかがっている。


『――月の満ちる』


 ざわめきに小さな囁きが混じり始めた。


『ときが、きた……誓約の』


 池に映った月が揺れた。


『やっと、帰ってくる――』


 ぱしゃり、ぱしゃりと水音がする。虹色の鱗が跳ねるたび、しじまがより濃いものになっていく。

 その裏側で、水蘭館のざわめきはいよいよ高まりを見せていた。

 美しく整った不可視の波動が、水や風や光を借りてその姿を具現しようとしている。


「ギル」


 アイラは思わずいつも傍らにいる青年の名を呼んだ。怖かったのではない。ただ、これから起こることへの予感が彼の名を呼ばせた。

 これは、気紛れな小さいものたちが満月に浮かれて騒いでいるのではない。何か特別なことが始まろうとしている。


「招かれた者は、ただ見届ければいい」


 低い囁きが耳をかすめた。


「来るぞ」


 瞬間、音を立てて銀の矢が降り注いだ。

 本当は音などしなかったかもしれない。しかし、そう錯覚するほど研ぎ澄まされた月光だった。

 緑の浮島の上で揺れていた水蘭の蕾が一斉に花開き、天から射注がれる光を反射する。

 煌めき渡る水面を埋め尽くすように、新たな白い蕾が次々に水中から顔を出し、月光に触れて開いていく。花弁は白真珠のような光沢を放ち、いよいよ白銀の乱舞は最高潮に達しようとしていた。

 光の中、水蘭の花原に浮かび上がったのは、透きとおるように清艶な女性だった。

 彼女が動くたび、月光の粒が零れた。

 髪の先から、指先足先から、きらきらしゃらしゃらと玻璃が散る。

 光の軌跡を描いて、水蘭の花がゆらゆらと揺れる。

 アイラは眩暈を覚え、額を押さえた。

 足元の草がぶれて見える。いや、草だけではない。水際の波も、水蘭の花も、空の月さえもすべてが二重写しになっている。

 やがて、アイラは気づいた。錯覚ではなく、今この場には、まったく同じ景色が二つ、わずかにずれて存在している。

 アイラは池の中心に立つ女性を凝然として見つめた。二重写しの世界の中で、彼女だけが美しい輪郭を保っている。

 彼女がふいにこちらに向いた。得も言われぬ幸福な笑みを浮かべ、駆けるような足取りでアイラのいる岸辺に近づいてくる。そして、少し離れた水面で立ち止まると、ついと腕を伸ばした。女性が舞踏の誘いを受けるときのような仕草であった。

 すると、誰かが通り過ぎでもしたかのように、アイラの横に風が起こった。

 いや、目を凝らせば、アイラの目にもぼんやりと映るものがあった。

 水蘭に埋め尽くされた水面を踏む足。そして、彼女の手を受けるべく差し出された手があった。

 彼女は微笑し、呼んだ。


「カイル・シャーン」


 細く高く響く可憐な声がこいねがう。

 呼びかけ手繰り寄せる声に呼応して、つかず離れずを繰り返していた二つの景色がついにぴたりと重なったとき、彼女の前には、立派な身なりをした老齢の男が立っていた。

 真っ白な髪に丸みを帯びた背中、筋張って節くれだった手は、彼が相応の年を重ねてきたことを示している。しかし、しわの刻まれた顔は少年のような喜びに輝いていた。


「本当に、あなたなのか」

「そうよ。約束どおり迎えに来たわ」


 今、二つの手は握りあわされ、二人はごく自然に寄り添いあった。


「ああ、カイル」


 零れる吐息とともに、甘い囁きが彼女の唇から発せられた。


「もう一度、呼んで……」

「何度でも」


 老人は穏やかに頷いて、一音一音噛みしめるようにして言った。


「シンア・リー・エル・カーラ」


 老人の潤んだ瞳から涙が零れ落ちた。


「あなたはよくやったわ。とても頑張った」

「シンア……リー」


 女は両手で濡れた頬を包み込み、唇を寄せる。


「わたしの可愛いカイル・シャーン」

「まだそんなふうに呼んでくれるのかね。この通り、すっかり年老いてしまったのに」

「どんなに姿が変わっても、あなたの心は変わっていない。だから、あなたの声はわたしに届くのよ。どんなに離れてしまっても、あなたが呼べば目覚めるわ」


 老人は、何十年も前の少年の日に戻ったかのように、頬を紅潮させてはにかんだ。


「やっと、一緒に行ける。もう、私を引き留めるものは何もない」


 月影射す夜、誓約のときが満ちる。

 水蘭は身に宿した月の光を花弁と共に再び天へ返し始めた。

 互いの身を抱き寄せあって、二人は立ち昇る月光に行く先を委ねる。

 遠ざかる影を見上げ、アイラは呟いた。


「あの方たちは、どこへ行くの?」

「わからない。ただ、二度と離れることのない場所へ行くのだろう」

「離れることのない場所……?」


 それがどんな場所なのか、アイラには想像もつかなかった。


「それが、あの女がした誓約だ」

「知っているひと?」

「古い知り合いだ」


 アイラは隣に並んだギルを見上げた。


「せいやく、とは、約束のこと?」


 ギルはアイラを見つめて、頷いた。


「精霊の誓約とは自らの存在にかけてするものだ。あの女は、それを利用した。あの男のためにな」


 きつい言葉を使いながら、ギルの声はそれほど怒っているようには聞こえなかった。


「誓いが果たされないとき、精霊は大切なものを失う。だが、失ったことには気づかない。気づかないまま擦り減っていく……生命も力も」

「必ずかなうと信じていたのよ。だから」


 アイラはそこで言葉を切った。わざわざ言わなくてもいいような気がしたのだ。

 もう一度、夜空を仰ぐ。

 光りながら次々に舞い上がる白い花弁は、どことも知れぬ道行きを祝福しているようだった。

 アイラは最後の光の粒が空へ消えるまで、その行方を見つめ続けた。



 ※   ※   ※



 水蘭館の池のほとり。

 月の精霊と彼女に真心を捧げた王様のお話。

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