プロローグ
「あなた達、中間テスト終わったからって余裕ねっ、マンガなんか読んで」
「うわぁっ、先生いつの間に!?」
「やっべぇ、ばれてもうた」
十月も終わりに近づいたある日の六時限目後の休み時間。
大阪府内とある文教都市に佇む、進学校としても名高い府立豊葉台高校一年六組の教室。
このクラスに在籍する神辺智志と城崎啓太が、国語科でクラス担任でもある石郷岡先生に不要物を見つけられてしまった瞬間である。
智志は廊下側の列前から二番目にある自分の席に座って、啓太はしゃがみ姿勢でそのすぐ横の窓下壁にもたれて読みふけっていて、迫り来る石郷岡先生の姿に気付けなかったのだ。廊下から見えやすい位置だったことも災いしてしまったようである。
「学校に持って来ていい物じゃないでしょ。学校はお勉強をする所よ。さっき隠したものを出しなさい。先生が預かります」
石郷岡先生は小学校低学年の子にするかのような優しい口調で命令する。
「そんなっ。勘弁して下さいよ。現国の勉強になるのに」
「石郷岡ぁ、今回だけは見逃してやってーな。この本は、俺のやなくてさとしの大切な所有物やねん」
二人は嘆願してみるが、
「城崎くん、一学期と同じように現国と古典、あなたが中間期末で取った点数から五〇点減点されてもいいのかな? 今回は神辺くんも同じ処罰にするわよ。今日返却した分から引いておくね」
石郷岡先生から爽やかな笑顔でこう告げられると、
「……分かりました」
「こりゃ、従うしかねえな。そんなに引かれたら俺また赤点やし」
二人ともしぶしぶ机の中から取り出し、窓越しに石郷岡先生へ手渡した。
表表紙に下着丸見えな制服姿の可愛らしい少女のカラーイラストが描かれた単行本、三巻と四巻計二冊を没収されたわけだ。
「エッチなマンガね」
石郷岡先生は困惑顔で呟きながら廊下を歩き進み、すぐ隣の一年五組の教室に入った。
「……マンガじゃなくて、ラノベなんだけど」
智志は悔しそうにツッコミを入れる。
「まあ、あのおばちゃんからすればラノベは、マンガと同等の物なんやろうな」
啓太は苦笑顔で言い、日当たりの良い校庭側の列一番前にある自分の席へと戻っていった。
石郷岡先生は、おばちゃんと呼ぶにはまだ早い二〇代後半の若々しい女性教師だ。背丈は一五〇センチをほんのちょっと超えるくらいでやや小柄。ぱっちりとしたつぶらな瞳に丸っこいお顔。濡れ羽色の髪の毛はサラサラとしており、リボンなどで結わずごく自然な形で肩の辺りまで下ろしている。いわば和風美人である。怒ることは滅多に無く、とても優しい先生だが、授業および生活態度に関してはかなり厳しい。宿題の提出期限を守らなかったり、授業中に寝ていたり等している生徒に対しては、優しい言葉でたしなめておいて通知簿の国語の評価にて容赦なく大幅減点する。大学入試で推薦やAOを狙う生徒にとっては評定平均に響く非常に勿体無いダメージとなってしまうわけだ。
七時限目世界史Aの授業と、帰りのホームルームも終わって解散後、
「あのう、先生。僕の、本は?」
智志はすぐさま石郷岡先生のもとへ駆け寄り、恐る恐る問いかけてみた。
「三学期の終業式の日に返します」
石郷岡先生はきっぱりと言い張る。
「そんなの、絶対忘れてますよ。今日中に返して下さい。僕の小遣い叩いて買った本なのに」
智志は焦り顔で要求した。
「いいけど、その代わり、生徒指導部長の金剛先生に、一年六組の神辺智志君が不要物を持って来たってことを報告するからね」
石郷岡先生から微笑み顔でこう告げられると、
「……」
智志は何も言い返せなかった。
金剛先生は保健・体育科の男性教師で上背一九〇センチを超え筋骨隆々な体格、まさに苗字の通り東大寺南大門に聳え立つ金剛力士像のような恐ろしい風貌を持つ。そんな彼に不要物を見つけられ厳しく叱責され、反省文を書かされた挙句三日間の停学処分となった生徒が何名かいることを、智志は知っていたのだ。
「では神辺くん、さようなら♪」
石郷岡先生は意気揚々と一年六組の教室から出て、職員室へと向かっていく。
「先生、ケチ過ぎるよ。買い直さなきゃいけないじゃないか」
小声で不満を呟く智志の側へ、
「諦めろ、さとし。あのおばちゃんに没収されることはジャ○アンに物を貸したことと同じことやから。買い直しても俺の持ってた三千円近くする画集とキャラソンアルバム没収された時に比べりゃ、損失は少ないんだぜ」
啓太が近寄って来て、慰めの言葉をかけてくれた。彼がそのアイテムを没収されたのは二学期初め頃のことである。一学期の終わり頃、また別の不要物を見つけられたさい抵抗して手渡さなかったことで国語の評価が大幅減点された反省を生かし、大人しく手渡したのだ。
冗談かと思いきや、まさか本当にやりやがるとは――と啓太は石郷岡先生の静かな恐ろしさに気付かされたのだという。
智志は帰宅後、
「母さぁん、石郷岡先生が僕のラノベ、いきなり没収したんだよ。しかも国語の点数大幅減点するとか、生徒指導部長に報告するとかって脅迫してくるし、教師として失格だよね?」
「アホかっ。あんたの方が悪いに決まってるやろっ!」
「いってぇぇぇーっ!」
リビングで夕方の報道番組を見ていた母に報告したが、同情してもらえるどころかゲンコツを食らわされてしまった。
モンスターペアレントならば、その教師らにクレームを付けに行くところだが、智志の母は対照的な反応を取った。時代が昭和ならごく普通なことであろう。
「学校にマンガなんか持って行ったらあかんことくらい、分かってるやろ?」
「ラノベはマンガじゃないって、小説だって」
「どこがやねん? あんなのは、〝吹き出しの無いマンガ〟言うねん。小説って言うのは夏目漱石とか芥川龍之介とか、森鴎外とか宮沢賢治とか、川端康成とか志賀直哉とか、そういう高尚な人らの書いた、国語の教科書に載るような作品のことを言うねん」
「母さん、石郷岡先生と同じようなこと言ってるよ」
「石郷岡先生の意見が正しい。智志ったら高校に入ってからというもの、ラノベとかいうマンガ本や変な雑誌ばっかり買い集めて。来月からお小遣い今の半分にします!」
「えっ! そんなぁーっ。僕、ちゃんと良い成績取り続けてるだろ」
突然の母からの通告に、智志はどぎまぎする。焦るように通学鞄から今日返却された科目の答案用紙を取り出し、母に見せ付けた。
「お勉強は確かに母さんの期待以上に出来てるんだけどね……ジャ○プや少女マンガばっかり読んで、目がメガネザルみたいに顔の半分くらいあって、ク○リンみたいに鼻が無くて、髪の色がアメリカのお菓子みたいに水色とか緑とかピンクとかオレンジとかの非現実的な女の子がいーっぱい出て来る不健全なアニメばっかり見て、母さん智志の将来がすごく心配なのよ。マンガやアニメの世界と現実の世界との区別が付かなくなってしまわないか」
「そんな心配いらないって!」
「信じていいのかなぁ? それにしても、智志には榛子ちゃんっていうとっても可愛らしい現実の女の子が身近にいるのに、どうしてこんな二次元の非現実的な女の子なんか好きになっちゃったのかしらねぇ?」
母はため息交じりに問う。
「あの子と二次元キャラは、全く別物なんだ」
智志は迷惑そうに振る舞い、答案用紙を通学鞄に仕舞うと足早にリビングから逃げていった。
榛子ちゃん、フルネームは松橋榛子。智志のおウチのすぐ近所、三軒隣に住む同い年の幼馴染だ。学校も幼小中高ずっと同じ。お互い同じ高校を選んだのは、家から一番近いそれなりの進学校だからというのが最たる理由であった。
「母さんは深夜の萌えアニメやラノベに対する偏見がひどいよ。母さんが夜九時頃に見てる、殺人事件が出てくるサスペンスドラマの方がよっぽど不健全じゃないか」
智志は苦い表情でこう不満を呟きながら、二階にある自分のお部屋に足を踏み入れた。智志の自室はフローリング仕様で、広さは一二平方メートルほどある。畳に換算すると七畳から八畳くらいだ。
出入口扉側から見て左の一番奥、窓際に設置されてある学習机の上は教科書・参考書類やノート、筆記用具、プリント類、CDラジカセ、携帯型ゲーム機やそれ対応のソフトなどが乱雑に散りばめられていて、勉強する環境には相応しくない有様となっている。男子高校生のお部屋にはありがちな光景といえよう。机備え付けの本立てには今学校で使用している教科書・問題集・副読本類の他、地球儀や、動物・昆虫・恐竜・乗り物・天体・植物などの図鑑といった、智志の幼少期に母が買い与えてくれた物も並べられてある。
机の一メートルほど手前には、木製のラックに載せられたDVD/BDレコーダー&二〇インチ薄型テレビがあり、さらに扉寄りに幅七〇センチ奥行き三〇センチ高さ一.五メートルほどのサイズの本棚が配置されている。こちらには、普通の男子高校生と比べてオタク趣味を思わせる光景が広がっていた。
本棚にはコミックスや雑誌、ラノベが合わせて一五〇冊以上は並べられてあるものの、普通の男子高校生が読みそうなスポーツ誌やメンズファッション誌は一冊も見当たらない。智志の所有する雑誌といえば、アニメ・声優・ゲーム・漫画系なのだ。
ラックの空きスペースには萌え系のガチャポンやフィギュア、ぬいぐるみが合わせて十数体、まるで雛人形のように飾られてある。
さらに壁にも、瞳の大きなかわいらしい女の子達のアニメ風イラストが描かれたポスターが何枚か貼られてあるのだ。
(母さん、僕の部屋、ジャ○プや少女マンガなんて一冊も置いて無いんだけどなぁ……)
一段ベッドに腰掛けた智志は向かいの本棚を眺めながら、心の中で突っ込みを入れた。