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苦手な方はご注意ください。

月の光の狂詩曲

作者: 岸田太陽

 『六分儀』亭は、今日も昼から盛況だった。


 一応酒場として営業届けを出している店ではあるが、料理が旨く、量は多く、値段は手頃ということから、町の労働者達に人気なのである。

 もちろん昼間から酒を呑む者はほとんどおらず、大方の人間は昼休みにここに来て腹を満たし、午後の仕事のための英気を養う。


「お待たせしましたー、オムライスです」


 セレスは、そんな繁盛店の一人娘である。

 年齢は九歳、肩のあたりで切り揃えた銀色の髪、快活な大きな瞳で、いつも笑顔を振りまいている。

 『六分儀』亭の繁盛に彼女が一役買っていることは、言うまでもない。


「セレス、ちょっといいか?」


 亭主が、給仕をして回っていた娘に声をかける。

 セレスは「はーい」と返事をすると、たった今料理を出した客にぺこりとお辞儀をして、カウンターの父の許に向かった。


「お使いに行ってきてくれ。料理酒が切れそうだ」

「えー? もう、在庫は確認しといてよー」


 セレスはプクリと頬をふくらませた。

 「悪い悪い」と言いながら、亭主はセレスに大銀貨一枚と買い物のメモを渡す。


「ここに書いてある酒を買えるだけ買って、配達を頼んでくれ。一本だけは持って帰って来るように」

「はーい」

「寄り道せずに帰ってくるんだぞ。転ばないようにな」

「もー、お使いくらい大丈夫だもん!」


 セレスはむくれながら主張する。

 そんな彼女の様子を見て、『六分儀』亭の常連達は午後も頑張ろう、と思うのだった。


 その時、入り口が開いて、扉に付けられた鐘の音が鳴った。


「いらっしゃいませー!」


 反射的にセレスと亭主がそう言う。

 それから振り向いたセレスは、はっと息を呑んだ。


 恐い。

 それが男に対するセレスの第一印象だった。


 浅黒い肌の大男だ。

 この町の人間ではないだろう。

 擦り切れた黒衣の旅装で、腰に長剣を帯びている。

 旅人――冒険者か。


 酒場を営んでいると、様々な人間が現れる。

 セレスが冒険者に会うのも初めてではない。

 腕一本で食べているような荒くれ者共だ。

 身なりも言葉遣いも性格もがさつな人間が多い。


 セレスは彼らのことは苦手ではあったが、それでもあまり怖いとは思ったことがなかった。

 彼らの語る(おそらくは誇張された)冒険譚は聞いていて楽しかった。


 だが、この男はそう言った連中とは違う。

 持つ力量か、踏んできた場数による経験か――、とにかく、セレスが初対面の人間を恐れたことなど、今まで無かったのだ。


 無意識の内に、右手首に嵌められた腕輪を握りしめた。

 可憐な外見にはやや似合わぬ革製の無骨な腕輪は、彼女がいつも身に着けている御守だ。


「一人かい? カウンターへどうぞ!」


 亭主が男にそう声をかけて、セレスははっと我に返る。

 男は頷いてカウンターへ向かった。

 接客は父に任せて大丈夫だろう。


「そ、それじゃ、行ってくるね、パパ」


 セレスは父親にそう声をかけると、お金とメモを握りしめて、逃げるように『六分儀』亭を飛び出した。



    §



 冒険者の男――ラス・エラセドは、亭主のおすすめだという海鮮ピラフと、火酒を注文し、サービスだと出されたキュウリの漬物(ピクルス)をぽりぽりと齧っていた。


「君は、旅の人かい?」


 そんなラスに、隣に座った壮年の男が声を掛ける。

 もちろん、旅人であることは見て取れるから、単に話のとっかかりとして言ったに過ぎないだろう。


「ああ、そうだ」

「それなら、例の盗賊の話は知っているかな?」

「……『狼牙団』のことか?」


 狼牙団。

 最近この地方に根城を作った盗賊団である。

 人狼の噂がある首領の許に、冒険者崩れや食い詰めた貧民、逃亡した農奴などが集って、百人余りの大所帯を作っているらしい。


「うん。その様子なら、多少何か知ってるみたいだね。どうだろう、ここの料金は私が持つから、話を聞かせてもらえないかい?」


 なるほど、情報屋か、とラスは納得した。

 酒場に居ると人は口が軽くなりやすいし、見知らぬ相手でも簡単に気を許してもらえる。

 奢ってもらえるとなれば尚更だ。今までも何度か、こういう手合いに出会ったことがある。


「お待たせしました、北大陸産の火酒だよ」


 カウンターの向こうから、亭主がグラスに入った蒸留酒を渡す。

 ラスはそれを一口呷った。

 アルコールが喉を焼く感覚を楽しむ。


 ラスには特に盗賊団の情報を秘匿するメリットはない。

 相手もそれが分かっているからこそこんな直裁的な聞き方をしているのだ。

 とは言え、


「残念ながら、俺もあんたが知っている程度の噂しか知らないと思うぞ」

「それでも構わんさ。もしかしたらまだこの町に入ってきていない話もあるかもしれないからね」


 それなら、と、ラスは道中で耳にした噂を語りはじめた。


 人口百人程度の小さな村が狼牙団に襲われ、何人かの村人が殺された。

 到着予定の行商人がいつまでも着かないから人をやって調べさせたら半壊した馬車と数人の死骸が打ち捨てられていた。

 首領は狼の群れを飼い慣らしていて、それを使って人を襲っているらしい。

 魔法協会を追放になった黒魔術師が付いている。

 殺されないで捕虜になった人間は奴隷として売り払われる、もしくは慰み者にされる。


「……ひどい話だね」


 ラスが語り終えると、情報屋がぽつりと言った。


「情報の信憑性は保証しないぞ。何人かの被害者が出てることは確かだろうが、それにしては直接の目撃情報が少なすぎる。噂に尾ひれがついてのは間違いない」

「そうだね。……君自身は? 奴らに襲われたりしなかったかい?」

「さて。この町に来る前に一度、三人ばかり徒党を組んだ追い剥ぎには襲われたが、全員切り捨てたから狼牙団かどうかは分からない」


 ラスの話は珍しいことではない。

 町と町の間は、魔獣が出ることもあって、半ば法治の及ばない範囲だ。

 襲われれば殺される前に殺すのは当然とされているし、それができない者は護衛を雇う。

 盗賊は賞金が掛けられている場合もあるが、殺しても証拠として首を持ち運ばなければならないため、嫌がって放置されることも多い。

 その際、襲撃者の金品を剥ぎ取っても、罪には問われない。


 逆に、名の知れた盗賊などを専門に狩る、賞金稼ぎの冒険者もいる。

 狼牙団にも賞金は掛けられているはずだが、今のところ賞金稼ぎが狼牙団を倒したという話は聞かない。


「ほう。君は何人で旅をしているんだい? 三人の追い剥ぎを倒したなら、同じだけの人数は居るんだろうね」

「いや、一人だが」

「一人?」


 情報屋は目を丸くした。


「そりゃすごいね。もしかして名の通った冒険者だったりするのかい?」

「さあ、な。今までそんな目立ったことはしてないから、有名にはなってないはずだが」


 ちょうどそこに、注文していたピラフが出てきた。

 エビ・貝・タラのほぐし身が贅沢に入れられたそれは、潮の香りと香辛料が混ざった食欲を刺激する匂いを立てている。


「おお、旨そうだな」


 ラスは喜色を浮かべた。


「そうだろう、ここの料理はどれも美味い。私が保証しよう。情報料は特別にタダにしておくよ」


 情報屋の言に苦笑しながら、ラスはスプーンで掬ったピラフを口に運んだ。



    §



「ただいまー。お父さん、買ってきたよ」


 セレスがそう言いながら店に入ると、常連客の何人かが「おかえりー、セレスちゃん」と声を上げた。

 そちらに向かって愛想笑いをしてから、セレスは父に買ってきた酒の瓶とお釣りを渡した。


「配達は今日の夕方になるって」

「ああ、わかった。ありがとうセレス」

「セレスちゃーん、お水おかわり!」


 客の一人がそう言って、セレスは「はーい」と返事をすると、水差しを持ってそちらに向かった。


「あ、俺もお願い」「じゃあ僕も」

「もう、皆さん、お水が空になったらパパに頼めばいいんですよ?」

「俺はセレスちゃんに注いでもらうのがいいんだ」「僕も」「私も」

「お、おだてても何もサービスしませんよ?」

「僕はスマイルでいいよスマイルで!」「あ、ずるいぞ俺も欲しい」


 セレスはくるくると回るように動きまわって、みんなに水を注ぐ。

 何故か満タンのグラスを飲み干して差し出してくる者もいる始末だ。


 亭主が「水を有料にしても売れるんじゃないか」と呟いた。


「いやあ、セレスちゃんは可愛いなあ。なあ、君もそう思うだろう?」


 カウンターに座っていた常連の情報屋が、隣に座る冒険者の男に話しかけた。

 セレスはそれを耳にして、少しびくりと身を震わせた。


「ん……ああ、そうだな」


 冒険者の男はそう答える。


「見た目の可愛らしさもさることながら、誰に対しても明るく丁寧に接して、いつも笑顔を絶やさない。まだ十にもなっていないのに健気に店の手伝いをして」

「悪かったな、子供に遊ばせているほどウチには余裕が無いんだ」


 カウンターの向こうから、亭主が言った。


 これも珍しい話ではない。

 学校に通っている子供もいるが、勉強ができるのは裕福な証拠であり、町の子供達の半数はこうやって親元で働いている。

 中には路上で子供一人で露天を開いている例もあり、セレスはマシな方だ。


 それに、セレスはこうやって両親の店を手伝うのが嫌いではなかった。


「いやいや、分かってるよ。セレスちゃんが学校に行っちまったら、俺達この店に来なくなっちまうもんな!!」


 常連客の一人がそう言って、酒場が笑いに包まれる。

 もちろんこの店を支えているのは出される料理や酒の質などもあるのだが、間違いだとも言えない。

 少なくとも、セレスの姿を見たくてこの店に来ている常連も居るのは事実だろう。


「本当に、どうやったらこのトンビみたいな亭主とナマズみたいな女将から、こんな可愛い娘が生まれるんだろうな?」


 そんな声を誰かが上げ、


「聞こえてるよ!!」


 厨房から女将の声が響いた。


 いつの間にか酒場で『セレスちゃんのどこが可愛いか言い合う大会』が発生している。

 当事者のセレスは恥ずかしいことこの上ない。


 チーズリゾットを運びながら、セレスはふと視線を感じた。

 視線というなら先程から酒場中の視線がセレスに注がれていたのだが、暖かく見守るようなそれとは異なる、硬質な視線だ。


 そちらを振り向く。

 冒険者の男と目が合った。

 なぜかまた恐怖が走る。


 注意力が散漫になっていた。

 客の足が投げ出されていたことに気づかず、セレスはそれに躓いた。


「きゃっ」


 倒れる、と思った時にはもう遅かった。



    §



 小さな悲鳴と、それに続いて「熱ィ!!」という声、皿の割れる音。


 ラスが観察していた少女が転んで、酒場が一瞬静まり返った。


「っテメエ、何してくれんだ!!」


 セレスに料理を掛けられた若者が立ち上がって叫ぶ。


「ご、ごめんなさい!! すぐ何か拭くものを――」


 セレスは立ち上がると頭を下げた。

 亭主が手ぬぐいを持ってセレスの居る場所に向かう。


「大丈夫かい、セレスちゃん」「怪我はない?」


 常連客がセレスを気遣う。


「あァ!? 怪我をしかけたのはこっちだぞ!」


 若者がそう声を荒げて、周りの人間から睨まれた。

 全く運の悪いことだ。

 もし料理を掛けたのが他の常連客であったなら、笑って許してもらえただろう。


「な、なんだよお前ら、こっちは被害者だぞ!!」


 若者の言葉は正論かもしれないが、


「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!!」


 半泣きになって謝るセレスの姿のせいで、どう見ても悪役にしか見えない。


「まあ、そのくらいにしとけよ兄ちゃん、こんなに謝ってるんだし、火傷はしなかったんだろ?」


 常連客がそんな言葉を掛けたのも、無理からぬことであろう。


「ああ!?」


 だが、若者はそんな言葉を聞きたいわけではなかった。

 自分が被害者であるという正当性、

 目の前の少女に対する加虐心、それらが後押しして、


「俺を誰だと思ってんだ!? 泣く子も黙る『狼牙団』の一員だぞ!!」


 そんな言葉を吐き出させた。


 酒場が再び静まり返った。

 今度の沈黙は、先程より重い。

 直接被害に会った者こそいない(ラスを襲った盗賊が狼牙団である可能性はある)が、この町に住む人は多かれ少なかれ、狼牙団の脅威に晒されている。

 間接的に被害を受けた者もいる。


「おい、兄ちゃん、聞き捨てならねえな」


 動きやすい麻の仕事着に身を包んだ体格のいい労働者の男が立ち上がり、若者の前に立った。

 その隙に、別の常連客がセレスを引っ張ってかばう。


「あ? なんだテメエ、やんのか?」

「お前が本当に狼牙団の一員だって言うなら、その通りだ。訂正するなら今のうちだぞ」

「俺に手ぇ出したら、どうなるか分かってんだろうな?」


 まさに虎の威を借る狐である。


「馬鹿かお前。お前みたいな下っ端なんぞ、切り捨てられて終わりに決まってるだろ」

「へぇ……。そうか、よ!」


 最後の「よ!」と同時に、若者は拳を振るった。

 労働者の男の鳩尾に拳が埋まり、


「ぅ、くぁ……」


 男はうめき声を上げて倒れた。


「っ、はははははは!! 弱ぇよえー! こんなんで俺を倒せると思ってんのか!?」


 げらげらと哄笑する若者の様子は、どう見ても尋常でない。

 男が倒されたことで、他の客が色めき立った。


「取り押さえるぞ!」「おとなしくしろ!」


 若者に飛びかかっていった二人の常連客があっという間に若者に殴り倒された。


 セレスは壁際で青ざめて震えている。


「……うるさいな」


 ラスはそう呟いて立ち上がった。

 若者のそばに歩み寄る。


「はっ、テメエも俺に殺されたいクチか?」


 若者がラスを指さして挑発する。ラスは少しだけ眉を(ひそ)め――、


 剣閃が奔った。


「いいだろう。相手をしてやる。ただし、店の外でだ」


 そう答えるラスの右手には、神速の抜き打ちで長剣が握られている。

 剣の切っ先は若者の頭のすぐ横に届いていて、髪の毛が何本かはらりと落ちた。


 ラスは長剣を鞘に収めると、


「預かっておいてくれ」


 と、亭主に渡した。


「あ? い、いいのか? 剣を使わなくて」


 若者がそう言う。


「お前も剣を使うというならそれで相手をするが――」


 ラスは目を細める。


「手加減はしないぞ」


 若者は言葉を詰まらせた。



    §



 先ほどの立ち回りを見ても分かるように、若者は決して弱くはない。

 むしろ、かなり強い方だ。


 だからこそ、若者には分かる。

 分かってしまう。


 目の前にいる男が、次元の違う存在であると。


 自分は強いと思っていた。

 だがそれは、ヒトという枠組みの中での話だ。

 目の前の男は違う。化け物だ。

 決して、喧嘩を売ってはいけない相手だった。


 若者は脇を締め、拳を胸の前に構える。

 対して、冒険者の男は、自然体のままである。


 隙だらけの格好。

 そのはずだ。若者には、その体に打ち込む筋がいくつも見えた。


 ――決めるなら、今しかない。


 先手必勝だ。

 一撃で倒せば、勝機はある!!


「うおおおおおおおおおおおッ!!」


 若者はそう叫び、拳を振るって殴りかかった。


 視界が一回転した。

 重力が失われる。

 上下が分からなくなったところに、重たい衝撃が与えられた。


 若者がひとりでに跳ね上がり、ものすごい勢いで飛んでいった。


 傍から見ると、そんな風にしか見えない、たった一瞬の勝負だった。


「くっ、がはっ」


 それでも気絶をしなかったのは、さすがというべきか。


 若者が立ち上がって振り向くと、冒険者の男は先ほどと同じ自然体で後ろを向いていた。


 いや、後ろを向いたのではない。

 微動だにしていないのだ。

 若者が後ろに飛ばされただけのこと。


 だが、こうして背後を見せるのは、間抜けとしか言いようがない。


 殺す。

 今なら、後ろから殺せる。


 若者は、懐に右手を入れた。


 そして、男に向かって飛び出すと同時にナイフを抜き放った。

 背中に向かって斬りつける。


 男は、前に屈んだ。

 それで、ナイフの軌跡は男の体の上を通り抜ける。

 しかも、その右手が男の手で掴まれた。

 関節を捻られて、ナイフを奪われる。

 そして、若者は再び前に向かって投げ飛ばされた。


 これもまた、一瞬の出来事である。


「……まだ、やる気か?」


 男は冷たく言い放った。


「ひ……ひっ」


 若者は震えながら男を見上げた。

 化け物?

 そんな生やさしい物であるものか。

 これは悪魔だ。

 魔神だ。


「く、くそ、ただじゃ、済まさねえぞ」


 それでもちっぽけなプライドが敗けを認めるのを拒み、若者はそんな陳腐な捨て台詞を吐いて、脱兎のごとく逃げ出した。



    §


「あ、あの、ありがとうございます!!」


 店の中から固唾を呑んで一部始終を見ていたセレスは、戻ってきた冒険者の男にそう言って頭を下げた。


「助かりました。ご迷惑をお掛けして、すみません」

「ああ、いや……。そういえばあの男、勘定を払っていなかったな。逃がしてしまったし、俺が払おう」

「いえ、そんな、とんでもない!」


 亭主が慌てて首を振る。


「むしろこちらからお礼をしたいくらいだ、なぁ?」

「そうだよ、助けてもらった上にお金まで頂戴しちゃ、申し訳ないよ」


 亭主に答えて、厨房から出てきた女将もそう言う。


「あんた、やるじゃねえか!」

「すごいよ、僕あんな戦い方見たのは初めてだ!」


 酒場の客が、男を持ち上げて騒ぐ。


 セレスは厨房に入って、戸棚から一つ、目的の物を取り出した。

 皿に載せてそれを持ってくる。


「パパ、ママ」


 後ろから呼びかけると、両親は振り返ってセレスの持っている物を確認し、微笑んで頷いてくれた。


「あの、これっ」


 セレスはホールに出ると、冒険者の男に皿を差し出した。

 シンプルなカップケーキが一つ、飾りミントを乗せてある。


「私、今お菓子作りの練習をしてるんです。これは昨日作ったやつで……、あの、まだお店に出せるものじゃないから口に合わないかもしれませんが、そ、その、良かったら召し上がってくだしゃい!」


 正直に言うと、男が恐いのは変わらないのだ。

 男の強さを目の当たりにしたため、恐怖感はより増していると言ってもいい。

 そのせいで、いつもの接客のように上手に喋れない。


「噛んだ」「今しゃいって言った」「可愛い」「俺もくだしゃいって言われたい」「というか羨ましい。僕もセレスちゃんのケーキ食べたい」「くそ、俺があのチンピラを追い払っておけば」「やめとけ、お前じゃ返り討ちに合うのがオチだ」


 後ろの方で常連客がぼそぼそと言っている。

 全部聞こえている。

 セレスは穴を掘って埋まりたい気分になった。


 男はきょとんとした顔をしていたが、やがて小さく笑い、


「ありがとう」


 セレスから皿を受け取った。


 フォークでケーキを半分に切って、男は片方を口に運ぶ。

 セレスはドキドキしながらそれを見送った。


「うん、美味いな」


 やった、とセレスは破顔した。

 店内の人間の羨ましそうな視線を浴びながら、次の一口で男はケーキを食べ終える。


「ああ、勿体無い」「もっと味わって食えよ」


 という嘆きが聞こえてきた。


「ごちそうさま。それじゃ、勘定は――」

「いや、結構だよ、今回は。世話になったからね」

「そうか? しかし、奢ってもらう約束だったな」


 男はそう言って情報屋を見た。

 情報屋は肩をすくめる。


「晩にまた来いよ。その時に奢ってやる」

「なるほど。じゃあそうさせてもらおう」


 亭主から預けてあった剣を受け取り、男は店の出口に向かう。


「ありがとうございました。またお越しください!」


 セレスはそう言って、男の後ろ姿に深く礼をした。



    §



 陽が落ちて、代わりに白く輝く満月が昇ってきた。


 ラスは宿を出て、約束通りまた『六分儀』亭に向かった。


 タダで食べれる飯ほど旨いものはない。

 それに、気になることもある。


 昼間、『六分儀』亭で暴れた若者。

 人格的には愚にもつかない小物だが、あの強さは本物だ。

 腕力もさることながら、人を殴り、斬りつけることに躊躇いがない。

 完全な異常者でないなら、それなりの場数を踏んでいるはずだ。

 もしかしたら、人を殺したこともあるかもしれない。


 逃がしてしまって良かったのだろうか。

 足は速かったが、ラスなら追いつけた。

 役人と関わるのが面倒だったからつい見逃してしまったが、野放しにして良い手合いではなかった。

 ことによると、仕返しを目論むかもしれない。


 気になることと言えばもう一つ。

 酒場の娘――セレスと言ったか。


 あの娘から、尋常でない魔力を感じた。

 それに当てられて背筋に怖気が走った。

 思わず臨戦態勢になりそうだったくらいに。


 酒場にいる間セレスを観察していたが、言動は普通の女の子にしか見えないし、裏があるようにも思えなかった。

 あの店の常連が言っていたように、たしかに可愛かったし、ケーキも美味しかった。

 これは関係のない話だが。


「助けてくれ! 『狼牙団』だぁーっ!!」


 その時、前方からそんな叫び声が聞こえた。


 周囲の人間がどよめく。

 ラスは声を聞いた瞬間に、全速力で走り出していた。


 必死に逃げる人々と逆方向に、ラスはひた走る。


 あの若者、本当に『狼牙団』の一員だったのか。


 可能性を考えなかった訳ではない。

 だが、どうせ狂言だろう、という考えに囚われていたのも否めない。


 しかし、それにしても行動が早すぎる。

 ――いや、違うか。

 恐らく、初めからこの町を襲撃するために、潜り込んでいたのだ。


 そう思案している間に、ラスは『六分儀』亭の前にたどり着いた。


 そこで見たのは――、


 数十人からなる盗賊の群れ。


 その先頭に立つ、巨大な狼。


 その背に乗る、人型、狼頭の異形の男。


 そして、


「いや! 放して!」


 昼間の若者に捕まえられ、首にナイフを押し当てられているセレスの姿だった。


「はっははははははは! 言ったよなァ、どうなるか分かってんだろうな、ってな!!」

「そのくらいにしておけ」


 狼頭の男が言った。

 ラスの聞いた噂にあった、狼牙団の首領は人狼だという噂。

 どうやら真実であったらしい。


「見ての通り、このガキの命が惜しければ、これから俺達が要求する物を用意してもらおう」


 首領は牙をむき出しにして笑う。


「ああ、もちろん見捨ててもらっても構わないぞ。無駄な労力を割くのは嫌いだが、その場合はこのガキを殺して、お前らも殺して、欲しい物を奪って帰るだけだ」

「や、やめて!」


 『六分儀』亭の女将が叫んだ。


「娘を! 娘を返してくれ!! 人質なら俺がなる! だから娘だけは――!」


 亭主もそう叫ぶ。


「黙れ。娘を殺すぞ」


 首領の言葉を聞いて、亭主と女将は口をつぐんだ。


「おやぁ?」


 セレスを押さえていた若者が、にたりと笑った。

 今存在に気づいた、とばかりにラスに目を向ける。


「昼間の冒険者サマじゃないか。さっきはよくも恥をかかせてくれたな」



    §



 ――冒険者さん?


 若者の言葉を聞いて、セレスは周囲を見回した。


 そして、見つけた。

 浅黒い肌で、黒い服を来た、とても恐い男の人。

 でもきっと、とても優しいひと。


 見た瞬間、こらえていた涙がこぼれた。


「助けて!」


 セレスは叫んだ。


「お願い、冒険者さん、助けて!!」


 叫んで、身をよじる。


「っ黙れクソガキっ!! 暴れんじゃねぇ!!」


 首に当てられたナイフが少し肌に刺さった。

 ちくりとした痛みがするが、それでもセレスは必死に叫んだ。


「冒険者さん!!」

「うるせぇ!! 本当に殺すぞ!」


 若者がナイフを振り上げた。

 拘束がゆるむ。

 押さえられた腕を振り払って、セレスは勢い余ってしりもちをついた。


 若者がナイフを振り下ろす。

 咄嗟に右手を上げてかばった。


 ナイフの刃先が、腕輪を切り裂いて、手首に刺さった。


「あ……、あ――」


 吹き出した鮮血が飛び散る。


「あああああああああああ――!!」


 赤く染まった視界の端に、青ざめた月が映った。



    §



 ラスは若者がナイフを振り上げた時点で走り出していた。


 人質がいるせいで躊躇ってしまった。

 まさかこんなに簡単に人質を殺そうとするとは思っていなかった。


 もっと早く動けば良かったのだ。

 この距離では止められない。


 走りながら、腰の剣を掴む。


 若者のナイフが、セレスの手首を切り裂いた。



 若者の首が飛んだ。



 周囲から見れば、ラスがほんの短時間で距離を詰めたように見えただろう。

 それほどまでに、ラスの動きは速かった。

 抜き打った剣が、一撃で若者の首を刈り取った。

 悲鳴すら上げる時間もなく、若者の命の火は尽きた。


 ――でも、間に合わなかった。


 ――俺の、せいだ。


「あ……、あ――」


 手首に刺さったナイフを見て、セレスが虚ろな声を上げる。


 若者の体が、ゆらりと揺れて、倒れた。

 真っ赤な血が飛び散る。


「あああああああああああ――!!」


 ぞくり、とラスの鳥肌が立った。


 セレスの魔力が跳ね上がった。

 若者の血を浴びてまだらに赤くなった銀髪が、増殖していく。

 いや、全身が銀色の毛で包まれていく。

 体が一回り大きくなり、腕と足は筋肉が付いて、指は短くなる。

 口が大きく長くなって、牙が覗く。

 耳は三角に尖り、頭の上に付く。


 体が膨張し続けて、子供服がはじけ飛んだ。

 銀毛に包まれた全身が、月の光を浴びて輝く。


「ウゥアオオオオォオオオオオォ――!」


 巨大な狼が、月に吠えていた。


「……お前も、人狼だったのか」


 ラスは呆然と呟いた。

 あの強力な魔力は、そういうことか。

 こんな巨大な狼に変身するだけの魔力を、抱えていたのか。


 銀狼が跳ねた。

 狼牙団の首領が乗る狼の許へ跳んでいく。

 首領が狼の背から飛び降りて逃げた。

 首領の狼は、銀狼より二回りは小さい。

 毛を逆立てて、銀狼を威嚇した。


 怪物同士の戦いが始まった。



    §



 首領は、信じられない思いでその光景を見ていた。


 彼にとって、力こそが全てだった。

 生まれついての狼の血は彼の体を強化し、誰にも負けることはなかった。

 今宵のように満月であればなおのこと、与えられた力を振るって、たくさんの人間を殺した。

 乗騎にしている魔狼も、戦って服従させた。


 やがて、自分の腕を慕って人が集まってきた。


 仲間に加えた男たちと共に、町を襲って金品と食料を巻き上げ、女を犯した。


 この世に敵はいなかった。


 だから今回も、うまくいくはずだった。


 なのに、これはなんだ?


 自分の乗騎の魔狼が、それより更に大きい銀狼に噛み付かれ、血を流している。


 既に全身傷だらけで、血を噴き出している魔狼に対し、銀狼は無傷だ。

 硬すぎて攻撃が通らないのである。

 首領ですら、あの魔狼とは丸一日死闘を繰り広げ、やっとのことで勝ちを掴んだというのに。


 そして――、ああ、目の前にいるこの男は何者だ。


 黒衣に浅黒い肌、長剣を構え、鋭い眼光でこちらを睨む、大男。


 銀狼に変身したガキを人質に取っていた若者、小者ではあったが腕は確かだった。

 だからこそ、多少なりとも目をかけてやっていたあいつが、反撃する間もなく、一撃で殺された。


 そうだ。あの若者は、格が違うと言っていた。

 ビビってんじゃねえ、と一笑に付したが、対峙すれば分かる。

 あの言葉は、掛け値なしの真実だったと。


 この男は、既に首領を敵とみなしている。

 今更、逃げられるとは思えなかった。


「舐めるなあ!!」


 首領はそう叫んだ。精一杯の虚勢だ。

 肉厚の三日月刀(シミター)を構え、闘気を発する。

 そして、(やいば)を振り上げて、男に向かって突撃した。


 ギィン!! と金属同士が衝突音を響かせた。

 首領の渾身の一撃は、男の長剣に防がれていた。

 三日月刀を引き、次の一撃に移ろうとすると、男は長剣に力を込めてさらに押し込んだ。


 力任せに押し込まれそうになって、首領は慌てて押し返す。


 男の剣が、黒く染まった。

 三日月刀に刃が食い込む。


「なあっ!?」


 首領は間抜けな声を上げた。

 まるで紙でも裂くようにやすやすと、三日月刀の刀身が半分になった。


 そのままの勢いで黒い剣が振るわれ――、首領の体は、胸の位置で上下に断たれた。


 首領が最後に見たのは、月明かりに照らされた男の、冷たい瞳だった。



    §



 冒険者の男が首領を斬り殺すと同時に、どすんと大きな音を立てて、魔狼が倒れた。

 首元から大量の鮮血をながして、ぴくりぴくりと震える。


 魔狼の喉を噛み切った銀狼は、ひときわ大きな声で遠吠えをする。


「――ひ」


 若者が、首領が、魔狼が、自分たちが最強だと信じて疑っていなかった者達があっという間に倒されたのを見て、盗賊団の一人が、引きつった声を上げた。


「ひいぃいいいいっ!」

「助けてくれっ!!」

「うわああああああああ!!」


 元々、盗賊団は烏合の衆である。

 首領が死んで、敵うはずのない相手がいる。

 逃げ出すのを止める者はいなかった。


 町の人間も大方は既に逃げ出していた。

 たとえそれがセレスだと分かっていても、今の銀狼は紛れもない化け物だ。


 そして、この場に残ったのは、遠くから見守る数人の町人のほかは、銀狼と冒険者の男、そしてセレスの両親だけになった。


「セレス! 聞こえるか!?」

「私達が分かる!?」


 両親は娘に呼びかける。

 しかし、銀狼はいま、心まで野生の狼だった。


 ――暴れ足りない。


 その思いは、自分に向かって声を掛けてくる人間に向けられた。


 娘に向かって必死に話しかける、『六分儀』亭の亭主と女将に。


 牙を剥き出して跳ぶ。

 爪の生えた前足を振るう。


 迫り来る狼の腕を見て、二人の顔が絶望に染まった。



 ドン! と脇腹に衝撃を受けて、銀狼は横に吹っ飛んだ。

 巨体がぶつかった街路樹が、折れて倒れた。



    §



 蹴り飛ばした人狼を油断なく見据えながら、ラスは剣を鞘に収めた。

 黒かった剣身は、もうただの鉄色に戻っている。


 グルル、と唸り声を上げながら、銀狼が起き上がった。


「セレス……!」


 『六分儀』亭の女将が悲痛な声を上げた。


 ラスは親指の付け根の血管を噛み切った。

 赤黒い静脈血が溢れだす。


 溢れた血は、地面に落下せずに、空中にとどまった。

 意思を持つように動いて、空中に複雑な幾何学模様を描いた。


 魔法陣は使用する魔法の強さによって、複雑さを増す。

 それは、誰が見ても高位魔術と分かる代物だった。


「やめてくれ! 私たちはどうなってもいい!! だが、セレスだけは……!」


 亭主がラスに向けて叫んだ。


 銀狼は体を縮めると、バネのように飛び出した。

 一直線にラスに体当たりを仕掛ける。


 ラスは小さく魔法の起句を呟いた。


 魔法陣から赤黒い霧が大量に発生した。

 突撃してくる銀狼の体にまとわりつく。


 銀狼の足の力が、がくりと抜ける。

 そのままどう、と倒れ、銀狼は動かなくなった。


「セレスっ!!」


 女将が銀狼に向かって駆け出す。


「どうしてだ!!」


 亭主がラスに食ってかかった。


「どうして! あんたなら、他にやりようがなかったのか!? 何も殺さなくても……!」

「あー……」


 ラスは困ったように頬を掻いた。


「その……殺しちゃいないぞ?」

「へ?」

「あんた、この子、眠ってるみたいだよ」


 銀狼の様子を確認した女将が、亭主に伝える。


 ラスは親指の傷を魔法で塞ぎながら、


「まあ、そういうわけだ」


 気まずそうに言った。


「あ……、も、申し訳ない!! とんだ勘違いを!!」

「いや、構わない。親なら真っ先に我が子を案ずるのが当然だ」


 ましてや、たった今一撃で狼牙団の首領を殺した男が使う高位魔術だ。

 殺したと思うのも無理はない。

 平謝りに謝る亭主に苦笑し、さて、とラスは気持ちを切り替えた。


 まだ片付けなければいけないことがある。



    §



「はっ……、は、はぁ……っ」


 こんなに必死に走ったのはいつ以来か。


 首領が殺され、魔狼も倒された。

 狼牙団はもう終わりだ。

 こうなっては、逃げることしかできない。


 狼牙団の一員だったその男は、足の速さだけは自慢だった。


 今は逃げてあの町から離れる。

 どこか森の中にでも隠れながら、新しい土地を目指す。

 森に出る魔獣は恐いが、あんな化け物よりはマシだ。


 幸い、男は顔も名前も知れていない。

 一度隠れることに成功すれば、追手がかけられることもない。


 だから、今は全力で逃げる。


 そんな彼を、黒い影が追い抜いた。


「え?」


 黒い影は彼の進路上で立ち止まると、静かに振り向く。


 立ち止まった姿を見ても、闇の塊のような男だった。


 黒い肌、黒い髪、黒い衣。

 冷たく光る異質な双眸に、盗賊の男は射すくめられた。


 死神だ。

 盗賊の男はそう直感した。


 逃げなければ。

 そう思うのに、金縛りに遭ったように足が動かない。


 死神が冷笑すると、その足元の影が蠢いた。


「う、あ、ああああああああぁ!」


 月光を塗りつぶし、周囲が闇で染まった。



 その日、狼牙団は、構成員一人残らず殺され、壊滅した。



    §



 ラスが『六分儀』亭の前に戻ると、首領と若者、魔狼の遺体はいつの間にか片付けられて、現場は別の様相を見せていた。


 道の真中で眠り続ける銀狼とその脇に立つ両親。

 それを囲むように、同じ鎧で武装した兵士たち。

 さらにそれを遠巻きに見る、『六分儀』亭の常連を含めた町の人間。


「そこをどけ! その化け物を引き渡してもらおう!!」


 兵士の後ろに立つ、一人だけ異なる立派な鎧兜をつけた男が、高圧的に言った。


「だめだ! そんなことはできない!」


 亭主が叫び返す。

 それに続けて女将も、


「一番危ない時に姿を見せなかったくせに、のこのこ遅れてやって来てこの子をどうしようっていうんだい!!」


 この兵士たち、恐らくは町の衛兵かなにかだろう。

 初動が遅れて、着いた時には盗賊団に逃げられていて、その場に転がっていた銀狼を敵と見定めたといったところか。


 周囲を囲んでいるだけで攻撃もしないのは、下手につつくと被害が出るかもしれないと恐れているのであろう。


 そもそも、まともな兵力がないからこそ狼牙団のような集団に好き放題させてしまっていたのだから、衛兵が役に立たないことをあれこれ言っても仕方ない。


 ラスは野次馬の人垣を掻き分けると、衛兵隊長と思しき立派な鎧兜姿の男に歩み寄った。


「な、なんだ貴様は」


 衛兵隊長は胡散臭げにラスを見る。


「なんだとはなんだ! その人が盗賊の首領をやっつけてくれたんだよ!」


 野次馬の中からそんな声が飛ぶ。

 あの時、遠巻きに見守っていた一人だろう。


「む……、そうか、なら後で事情を聞こう。だが今はあの狼の対処が……」

「あの狼は、人狼だ。元が、小さな女の子だったとは?」

「知っている。話は聞いた。なんであれ化け物は化け物だ。暴れれば被害が出るものを、放っておく訳にはいかない!」

「今は、暴れていないようだが」


 衛兵隊長は顔をしかめた。


「ぬ……、眠っているらしいな。貴様がやったと聞いたが。だが、眠っているからこそ、今の内に――」

「そうだ。俺が眠らせた。朝までは目覚めないよ。人狼だから、月が沈めば変身も解ける。次の満月までは何も起こらない」


 ラスは隊長の脇を抜けて、真っ直ぐ銀狼に向かって歩いた。


「と、止まれ!」


 進路上にいた衛兵がラスに剣を向ける。

 ラスは意図的に殺気を放った。


「ひっ!」


 凍り付いた衛兵の横をすり抜ける。


「あ……」


 衛兵が慌てて動いた時には、ラスは銀狼の目の前にいた。

 眠る銀狼の鼻先を撫でる。


「少なくとも、今すぐにどうにかしなければいけない危険はない。剣を納めてはもらえないだろうか」


 取り囲んだ衛兵たちを睥睨しながら、ラスは言った。


「どうしてもと言うなら、俺が相手をしよう」


 何人かの衛兵が、殺気に当てられて後ずさった。


 ラスの強さに関しては、衛兵も話を聞いている。

 一撃で人の首を飛ばし、盗賊の首領を殺し、鉄の三日月刀を斬り、一瞬で銀狼を眠らせる高位魔術を使う男。

 あまりに荒唐無稽な話に聞こえるが、証人も証拠品もある。


 町の衛兵は、練度が低い。

 それこそ、仮に盗賊が現れた時に間に合っていても、勝ち目はなかっただろう。


「……わかった、引き上げよう。ただし貴様は一緒に来い」

「いいだろう」


 踵を返した衛兵隊長に付いて、ラスは歩き出した。


「あ、そうだ」


 一瞬足を止めて、ラスはセレスの両親に振り向いた。


「その子が人間に戻ったら裸になってるから、毛布か何か掛けておいてやった方がいいぞ」

「あ」


 今気づいた、と言わんばかりに亭主が声を上げる。

 女将は慌てて『六分儀』亭の中に飛び込んでいった。



    §



 朝の陽光に照らされて、セレスは目を覚ました。


「あ……れ……?」


 全身を強烈な虚脱感が襲っている。


 何があったんだっけ、と混乱する頭を振った。


「おはよう、セレス」


 聞き慣れた声が耳朶を打った。

 顔を向けると、ベッドの脇に母が座っている。


「ママ……?」


 母の目は、泣きはらしたかのように真っ赤だった。


「大丈夫? どこか痛い所は無い?」

「う、うん……」


 ――そうだ、確か、昨日は、盗賊が襲ってきて、人質に取られて……。


「あ……、ああ……っ!」


 記憶が蘇った。

 そうだ、あの後セレスは、体が熱くなって、狼になって、暴れて――、


「ああああああああああ!!」

「セレス!!」


 半狂乱になって頭を抱えるセレスを、母は強く抱きしめた。


「落ち着いて、セレス。もう大丈夫だから」

「ま、ママ……、でも、あの、狼を、私、殺しちゃった……」


 喉を噛み裂いて殺したのだ。

 血の味すら思い出せる。


「あの狼は、盗賊が連れてきた魔物よ。あなたは私達を守ってくれたの」

「ちがう、違うの、私も狼だったんだよ? それに、あの時、私、パパとママも殺そうと……」


 体を包む母の腕に込められた力が強くなった。


「大丈夫、大丈夫よセレス。パパも私も生きてる。怪我もしていない。ね?」

「マ、マ……」


 震える声で、セレスは母を呼ぶ。

 そしてそのまま大声で泣き喚いた。

 『六分儀』亭の女将は、娘が落ち着くまであやすように頭を撫でていた。



「落ち着いた?」


 泣きはらしたセレスが、しゃくりあげながら目元を拭ったのを見て、女将はそう訊いた。


「うん……」


 全てを受け入れたとは言いがたいが、少なくとも、思い出して取り乱すことはなくなった。


「そう。なら、一緒にお店の方に行きましょう。少し話があるの」


 セレスは頷くと、ベッドから降りた。


「その前に、着替えてね」


 そういえば、セレスの服は破れてしまったはずだけど、パジャマを着させられている。

 多分、母が着せてくれたのだろう。

 これも母が用意していてくれたらしい枕元の服をとって、のろのろと着替えた。



 厨房側から『六分儀』亭のホールに行くと、冒険者の男がカウンター席の向こうで昨日と同様にキュウリの漬物(ピクルス)をぽりぽりと齧っていた。


「やあ、おはよう」

「お、おはよう、ございます」


 なんでいるの!?

 とセレスは危うく口に出すところだった。


「おはようセレス。ご飯は食べれるか?」


 父がそう訊いてきたので、「うん」とセレスは頷く。


「じゃあ、そこのサンドイッチを食べなさい」


 そう言って父が指し示したのは、なぜか冒険者の男の隣の席に置いてある、サンドイッチが載せられた皿だった。


 ……気まずい。


 初めに感じた恐さはもう薄れているが、確か昨日、狼になっている時にこの人に攻撃を仕掛けた気がする。

 そこで記憶が途切れているから、どうなったかよく分からないけど、どうも全員無傷のようだし、セレスを止めてくれたのだろうか。

 そんなことが出来そうなのはこの男くらいしかいない。


 しかしこの男、なぜセレスがもそもそとサンドイッチを食べるのを隣で見守っているのだろうか。

 暇なのか。

 いや、この場にいることで、彼が無関係でないのは分かる。

 恐らくはセレスが食べ終えるのを待っていてくれるのだろうということも。

 だけど、どうしてだろう、とてつもなく気恥ずかしい。


 そのせいで、サンドイッチがうまく喉を通らなかった。


「ゴホッ……! ケホ、ケホ……ッ」


 セレスはむせ返る。

 脂汗を流しながら、目についたグラスを手にとって、一気に飲み干した。


「ケホ、コホ……、――あ」


 男の飲んでいた水のグラスだった。


「大丈夫か? ゆっくり食べていていいぞ」


 終いには、冒険者の男に心配される始末だ。

 飲みかけのグラスに関しては何も気にしていないようだが、セレスにとっては大問題だった。

 今すぐ逃げ出したい。


「だ……、だい、じょうぶ、です」


 ぜぇぜぇと息をしながら、セレスは答えた。


 残ったサンドイッチを、喉に詰まらせないように気をつけながら食べる。

 味もへったくれもなかった。



 セレスが朝食を食べ終えて、両親も一緒に座るためにテーブル席に移った。


「昨日のことは、どこまで覚えている?」


 冒険者の男が口火を切る。


「その……、冒険者さんに襲いかかろうとしたところまで、です」


 セレスは萎縮しながら答えた。


「なるほど、変身中の記憶は全部あるのか」


 男は何度か頷いて、


「昨日、衛兵が回収していたのを受け取って、少し調べた」


 外套のポケットからちぎれた革を取り出した。


「あ、それ……」


 セレスの腕輪である。


「この手の物には明るくないからはっきりとは分からないけど、どうやらこれは魔導具だったみたいだ。多分、これが君の変化(へんげ)を抑えていたんだと思う」


 セレスが御守として肌身離さず付けていた腕輪。

 そんな効果があったなんて、知らなかった。


 これが壊れたから、セレスは狼化してしまったのだ。


「そっか……、これがずっと守ってくれてたんだ」


 セレスは腕輪の残骸を手に取った。


 ふと、疑問が浮かんだ。


 これがセレスの狼化を防いでいたということは、この腕輪を用意した人物は、セレスが人狼だと知っていたはずである。


 物心ついた時からセレスはこの腕輪を持っていて、今までは両親が買い与えてくれたものだと思っていた。

 では両親はセレスが人狼だと知っていたのか?


 おそらく、何も知らなかったはずだ。

 両親の反応はとても前から知っていたようには思えない。


「……パパ、ママ」


 となれば、導き出される答えは一つ。


「私、パパとママの本当の子供じゃないの?」


 両親の表情が凍り付いた。

 それが全てを物語っていた。


「ああ……、その通りだ」


 父が観念したかのように言った。


「その腕輪も、俺達がセレスを拾った時から持っていたものだよ。多分、お前の本当の親が用意したんだろう」

「そう……」


 セレスは少しだけ安堵した。

 セレスは人狼だ。

 人狼がどうやって生まれるのかは知らないが、血が繋がっていないなら、両親に累が及ぶことはない。

 本来なら、ショックを受けるところなのだろうが、昨日からいろんな事が起こりすぎて、感覚が麻痺してるのかもしれない。


 ここを出て行こう、セレスはそう思った。

 昨日の一件で、セレスが人狼であることはきっと町の人達に知れ渡ってしまっただろう。

 両親とも血が繋がっていないことが分かった。もうここにはいられない。


「あの、お願いがあります」


 セレスは冒険者の男に向かって言った。


「この町を出る時に、私も連れて行って下さい」


 冒険者の男は、なんとも奇妙な表情をした。

 驚いているような、困ったような。


 やはり、あまりにも厚かましかったか、とセレスは落胆する。

 男には、セレスを連れて歩くメリットがない。


「すみません、こんなこと、急に。でも、私――」

「あー、まあ待て待て」


 男はセレスの発言を遮った。


「そいつは、俺から言い出そうと思っていたんだがな。とにかく、色々説明しなきゃいけないことがあるから、聞いてくれないか?」

「は、はい」

「まず、この魔導具だけど、修理出来そうな知り合いに心当たりがある」

「ほ、本当ですか?」


 セレスは勢い込んで言った。

 今更自分が人狼である事実は隠せないが、変身を抑えることができるなら、周囲に被害を出さなくて済む。


「見せてみないことには分からんが、あれは魔導具には詳しいからな。もし修理が無理でも、同じような効果の物は作れるはずだ。それから、衛兵隊長と話し合って、『盗賊団は全てこの町の衛兵が倒した』ことになった」

「?」


 セレスは首をかしげた。

 話が読めない。


「昨晩、この町は盗賊団に襲われた。しかし、衛兵の奮闘の結果、首領と魔狼を打ち取り、盗賊団を壊滅させることができた。素性の知れない冒険者だの、銀色の大狼だのといった話を聞くけど、根も葉もない噂である」

「し、白々しいですよ……?」


 セレスは呆れ返った。

 どっちが根も葉もない話だ、と思うが、そんな風にした理由は分かった。

 つまり、この男は、自分の功績を町の衛兵隊に譲り渡した代わりに、セレスの件を隠蔽したのだ。


「で、でも、私が変身するところは、いろんな人に見られて」

「まあ、流石に口止めは不可能だ。公然の秘密って奴だな。正直に言えば、今後どうなるかも分からない。だから、ちょっとほとぼりを冷まそうと思う」

「ほとぼりを冷ます?」

「さっき言った魔導具だけど、修理できたとしても、一ヶ月じゃ厳しいと思う。どっちにしろ、次の満月の日にこの町にいるのは危険だし、変身した時には俺が抑えたほうがいい。だから、一緒においで――と、言うつもりだったんだ」

「……いい、の? でも、迷惑じゃ」


 セレスは視線を三人に順に向けた。

 三人は同時に頷いた。

 おそらく、ここまでの話は、セレスが寝ている間に行われたのだろう。

 だから母の目に泣いた跡が付いていたのか。


「どうせ、きままな一人旅だ。連れが増えるのも、たまにはいい」

「たとえ血が繋がっていなくても、私たちはあなたの親をやめるつもりはないからね。腕輪が直ったら、帰ってくるんだよ」

「……帰ってきても、いいの?」


 セレスの問いかけに、両親は頷く。


「当然だろう。ここはお前の家だ」


 父が言った。


「考えようによっては、凄腕の護衛がいて旅ができるんだ。いい経験だと思えば――、……本音を言うと俺が行きたい」


 父親の言い分に、セレスは噴き出した。


「そうだよなー、俺も昔は冒険者になりたかったんだよな。この町を出る前に捕まったけど」


 心底羨ましそうに言う父親を見て、セレスは大分気持ちが楽になった。

 もちろん、町の外には危険がたくさんある。

 楽しいことばかりでもないだろう。

 だが、それも冒険者の男と一緒なら問題ないと思えた。


「……あの、一つだけ、質問していいですか?」

「うん、なんだ?」

「す、すみません、なんか聞きそびれていて。……私、あなたの名前、まだ知らないんです」


 ああ、そう言えば、と冒険者の男は笑った。


「ラス・エラセドだ」

「もう知ってると思うけど、セレスです。ふつつか者ですが、よろしくお願いします!」

「……いや、そのセリフはどうかと……」


 ラスは苦笑して答えた。



    §



「ま、待ってくださいラスさん、速いですよ~!」


 後ろからそんな声が聞こえてきて、ラスは慌てて立ち止まった。


 つい一人旅の時と同じペースで歩いてしまう。

 まだ十にもならない子供には付いてこれない速さだ。


 新しく増えた道連れの少女は、ラスの許に追いつくと、息を整えた。


「悪い悪い」


 セレスは、もー、と唇を尖らせた。


 最初のうちは他人行儀だったセレスも、ここ数日で大分打ち解けている。

 慣れない野宿にもすんなり対応して、それどころか両親に仕込まれた料理の腕を発揮している。

 おかげで、道中で集めた食料を適当に煮るだけ料理だったラスの食生活が、一気に改善された。


 子供一人連れた、根無し草。


 昔の知り合いが見たら、何と言うだろう。


「じゃぁ、行きますか、お嬢さん」


 セレスの息が十分に整った頃合いを見て、ラスは声を掛けた。


「うん!」


 今度は、歩調を緩めて、セレスの隣に立って歩くようにする。


 半分ほどに欠けた月が、西の空に架かっていた。

いいわけ という名の あとがき


 異世界チートファンタジー書きたい病に侵されました。岸田太陽です。

 真面目に連載を始めると絶対他のと両立できないので、短篇で投稿。

 そのくせ20000字近いですけどね! なんと現時点での『この弟をどうにかしてほしい(泣)』より多いです。


 この短篇、コンセプトは冒頭の「異世界チートファンタジー」と、もう一つ「少年漫画読み切り」で書いてみました。

 もっとも、別に私は漫画のネームを切ったこともないので、なんとなく読みきり漫画ってこんな感じだよねっていうイメージだけで作っています。


 この話は読み切り短篇ですが、連載用に考えた設定の一部を利用――というより、ラスの旅の途中のイベント、という考えで話を作りました。ですので、この話の前にも後にもいろいろな冒険があります。作中で語りきれなかった話、投げっぱなしになった設定、唐突に出てきた事実、それらはこの話の前後で解決されるものだと思ってもらえるとありがたいです。特にラスには色々設定があるのですが、この話の中で出しても唐突に過ぎると思い、ほぼ削ってしまいました。おかげでただの最強人間に……。

 そういうわけで、この小説はかなり不完全な状態です。なるべく組織を崩さないように切り分けたつもりですが、血管や神経はどうしても断ち切らざるを得なかったのです。

 つまり、連載のパイロット版みたいなものですね。ただし、連載の予定はありませんが。

 そのうち、余裕ができたら、とは思っています。


 盗賊団。かなり救いようのない悪役をさせてしまいました。深い考えがあるわけでもなく、ただ力に酔っているだけの乱暴者集団です。

 連載であればもう少し敵役の行動にも理由を付けたほうがいいのでしょうが、今回はただの斬られ役をやってもらいました。もし今度彼らが登場する時があれば、その時はちゃんと掘り下げてあげたいと思います。

 以上、使い捨てキャラの供養でした。


 それと今回、かなり煩雑な視点移動を使ってみました。

 あまりほめられた手法ではないと思います。基本的にはセレスとラスで視点を切り替えましたが、途中で盗賊団側の人間に移動していたりします。

 そう言った点が読みにくいと感じたのでしたら、申し訳ありません。

 問題なく読めたよ、でも、読みにくかったよ、でも、感想かメッセージ等でお知らせしていただけると、今後の書き方の参考になると思いますので、よろしくお願いします。


 連載を読んでいてあとがきに言い訳みたいな事が書いてあるのを読むと萎える事が多いので、章ごとのまえがきやあとがきにネタ発言以外を書くのはなるべく避けようと思っているのですが、今回は短篇なので、ここを読んでいる方は全部読了していると思い、書いてみました。


 それでは。よろしければ他の拙作も読んでいただけると嬉しいです。

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