第1話 国会にぬいぐるみで来た男
その朝、彼はいつものようにスーツを着て家を出た。
特別な日ではない。
予算委員会の質疑があるだけの、ありふれた国会の日だった。
ただし、予定外の出来事が一つだけ起きた。
――彼は、返り血を浴びた。
理由はここでは説明しない。
少なくとも彼自身は、まったく望んでいなかった。
スーツは台無しだった。
白いシャツも、ネクタイも。
彼は急いで近くの公衆トイレに駆け込んだ。
個室に入り、予備のシャツに着替える。
だが、焦りは手元を狂わせる。
新しいシャツにも、うっすらと赤い染みがついてしまった。
そのとき、トイレの扉が開いた。
誰かが入ってきた。
重たい足音。
そして、妙に柔らかい布の擦れる音。
男は息を潜めた。
外では、何かが床に落ちる音がした。
続いて、衣擦れ。
しばらくしてから、聞こえてきたのは――
カミソリの音だった。
個室の隙間からそっと覗く。
床には、脱ぎ捨てられたクマのぬいぐるみ。
正確には、イベント用の着ぐるみだ。
だが――
(どう見ても、ぬいぐるみだな)
どうやら近くのイベントでショーをしているスタッフらしい。
男は鏡の前で、真剣な顔でひげを剃っている。
ぬいぐるみの頭は洗面台の上に置かれていた。
奇妙な光景だった。
しばらくして、その男は満足そうにカミソリを洗い、
ぬいぐるみを着る気配もなく、別の個室へ入った。
そして、すぐに音がした。
……どうやら、うんちをしているらしい。
今だ。
彼は個室の扉に手をかけた。
だが、その瞬間、気づいた。
着替えたばかりのシャツにも、
はっきりと血がついている。
トイレの外では、人の声がする。
このまま出れば、説明が必要になる。
説明は、彼にとって好ましい状況ではなかった。
彼は静かに振り返った。
床には、脱ぎ捨てられたぬいぐるみ。
巨大なクマだった。
彼は数秒だけ考えた。
そして――
クマの脚を履いた。
数分後。
巨大なクマが、国会議事堂へ入っていった。
警備員が軽く会釈する。
「おはようございます、先生」
クマは小さくうなずいた。
どうやら、この国では
議員バッジさえ付いていれば、クマでも議員らしい。
彼はエレベーターに乗った。
ぬいぐるみの頭の中は蒸し暑く、
視界は小さな穴だけだった。
それでも、議員控室までたどり着く。
秘書が驚いた顔をする。
「先生……その格好は……?」
クマは短く言った。
「事情がある」
秘書は数秒黙ったあと、静かにうなずいた。
この国の政治では
事情があることは珍しくない。
秘書はタブレットを差し出す。
「本日の質問資料です」
クマはそれを受け取った。
そして、ページをめくった。
その瞬間。
クマの中の男は、動きを止めた。
そこには一枚の写真が載っていた。
――路地裏。
――倒れている男。
――胸から流れた血。
彼の記憶と、完全に一致していた。
その写真の下には、こう書かれていた。
【極秘資料】
〇〇省汚職事件
本日午後、追及予定
クマはしばらく黙っていた。
ぬいぐるみの顔は、もちろん表情を変えない。
だが中の男は、ゆっくりつぶやいた。
「……なるほど」
そして静かに言った。
「総理に質問がある」
そのころ、テレビ局では速報が流れていた。
【速報】
国会議員、ぬいぐるみ姿で登院
だが、まだ誰も知らなかった。
このクマが
今日、日本最大の汚職事件を暴くことになる
ということを。
そして――
その事件の最初の犠牲者の血が、
まだ彼のシャツに残っていることも。




