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9 悪役令嬢、推しに事業計画を査閲される

 学院の時計塔が午後の訪れを告げる。

 私は、慣習という名の鎖を断ち切るように、最高学年の重圧が漂う学院を早退した。


 授業よりも、今は現実が私を待っている。


 向かう先は、王都の動脈とも呼べる商業区画の一角。

 そこに、私の理想を具現化した聖域が産声を上げたのだ。


 推し活工房。


 看板に刻まれたその文字は、見る者の心を和ませるような愛らしい曲線を描いている。

 重厚な扉を押し開ければ、そこにはインクの香りと魔力の残滓、そして何よりも情熱という名の芳香が満ちていた。


 壁面には、ユーフィが魂を削って描き出した肖像画が整然と並ぶ。

 鉄の意志を宿した騎士、真理を追究する魔術師、天上界の旋律を奏でる音楽家……。

 彼らは皆、この掌サイズの小さなキャンバスの中で、永遠の命を吹き込まれていた。


「アルマデリア様、ようこそお越しくださいました!」


 出迎えてくれたユーフィの瞳には、かつての迷いは消え、創造主としての誇りが宿っている。

 横では魔術師のリオンが、魔法加工の余韻に包まれながら不敵に微笑んでいた。


「準備は万全です。新作の『銀騎士の追憶』シリーズも、今まさに最終的な魔力定着を終えたところですよ」


 私は、清潔に整えられた店内をゆっくりと見渡した。

 陳列された商品の一つひとつが、前世の記憶と今世の宿命が交差して生まれた奇跡のように思えた。


 公爵令嬢としての地位を捨ててでも守りたかった、私だけの城。

 けれど、ここは終着点ではない。

 世界を変えるための最初の一撃なのだ。


「……アルマデリア様」


 不意に、背後から大気を凍てつかせるような凛冽な声が響いた。

 振り向いた私の視界に飛び込んできたのは、銀糸を紡いだような髪、そして冷徹な青灰色の瞳。


 レイナルド・シュタイナー。

 私の最推しであり、そしてこの事業の運命を左右する監督役。


「レイナルド卿……」


 心臓が、囚われた鳥のように激しく拍動した。


 お、お、推しが、私の聖域に足を踏み入れた。

 その事実だけで、肺が押し潰されそうなほどの幸福に襲われる。


「会議の刻限です……準備はよろしいか」


 彼の声は、氷の剃刀のように無慈悲で、それでいて不思議なほどの透明感を湛えていた。


 私は震える心を鎮め、彼を奥の事務室へと案内した。

 そこは、実務という名の現実が支配する、狭く、けれど濃密な空間。


「では、提出された計画書の精査を開始する」


 レイナルドは無言で書類の頁をめくり始めた。


 私の徹夜の結晶――情熱と論理を編み上げた渾身の書面。

 彼が一行読み進めるごとに、室内には爆発せんばかりの沈黙が膨れ上がっていく。


 私は、彼の長く美しい睫毛が刻む影を、祈るような心地で見つめていた。

 どうか、この想いは、ただの道楽ではないことを、認めてほしい。


 永遠とも思える静寂の果てに、レイナルドが低く呟いた。


「……よく練られている。感服した」


 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。

 それが最推しの口から発せられた、肯定だと気づいた瞬間、胸の奥で何かが弾けた。


「本当ですか!?」


 叫びにも似た声が漏れる。

 レイナルドはわずかに眉を寄せたが、その瞳の奥には、初めて私を対等な存在として認める光が宿っていた。


「予算の配分、そして魔法素材の安定供給ルートの確保。公爵令嬢の座に胡坐をかいた者の仕事とは思えぬ。現実的かつ、強固な意志を感じる」


 嬉しくて、目頭が熱くなるのを必死に堪えた。

 最推しからの称賛。

 それは、どんな宝石を贈られるよりも私の魂を激しく揺さぶった。

 けれど、彼はそこで言葉を止めなかった。


「……だが」


 その一言で、再び温度が下がる。


「致命的な欠陥が一点。人員が、あまりにも不足している」


 レイナルドの指先が、書類の一部を鋭く指した。


「画家一名、魔術師一名。この少数精鋭では、熱狂という名の奔流に飲み込まれ、早晩、瓦解する。注文が増大した際、納期を遅延させれば、それは殿下への不敬に直結する。その覚悟はおありか?」


 私は言葉を失った。

 定期市での反応を考えれば、彼の指摘は正論を通り越して予言に近い。


「信頼できる技術者を確保するのは至難の業でしょう。さらに、人件費の増大は初期投資を圧迫する。……貴女の熱意が、この構造的な脆弱性に耐えられるか、私は危惧している」


 私は俯いた。

 彼の指摘は鋭い刃となって、私の甘さを切り裂いていく。

 けれど、その刃には、かつての冷笑は混じっていなかった。


「アルマデリア嬢」

 レイナルドが、少しだけ声を潜めた。

「勘違いしないでいただきたい。私は、この事業を葬るためにここにいるのではない」


「え……?」


「私の義務は、この『推し活』とやらを監視し、王家の威光を守ること。……そのためには、この事業が成功し、健全な形で民に受け入れられねばならぬ。貴女を厳しく律するのは、貴女という人間を、そして殿下の期待を守るためだ」


 その言葉が、凍えた心に熱い火を灯した。

 レイナルドは敵ではなかった。

 彼は、最も厳格で、最も誠実な伴走者として、私の傍に立とうと言っている。


「……ありがとうございます。人員の件、早急に手を打ちますわ。私の誇りにかけて、最高の同志を募ってみせます」


「期待している。次回の定例会議は一週間後だ。……手抜かりなきよう」


 彼は扉に手をかけ、一瞬だけ振り返った。

 その瞳には、どこか複雑な色が混じっていた。


「……一つだけ聞く。貴女をそこまで駆り立てるものは、なんだ?」

「え?」

「……いや、愚問だったな。……殿下への、忠誠心だろう」


 彼は自ら答えを出し、納得したように去っていった。


 ……え、違うけど。

 私の原動力は貴方ですけど!?


 その銀色の背中を見送りながら、私は深く息を吸い込んだ。

 彼の誠実さに応えるためには、私はさらなる高みへと昇らねばならない。



 その夜、私の部屋に、予期せぬ闖入者が現れた。


「アルマデリア様、私を仲間に入れて!」


 寮の応接室に飛び込んできたのは、社交界の華、ソフィア・ハーヴェイだった。

 彼女の瞳は、昼間の学院での様子とは打って変わって、真剣な情熱に燃え盛っている。


「ソフィア? こんな夜更けに、一体どうしたの?」


「推し活工房のことよ! 今日の学院でのお話を聞いて、私の魂が叫び出したの。……私、社交界という名の空虚な檻に、もう耐えられない。私も、誰かの幸せを願う情熱を形にする仕事がしたいの!」


 ソフィアは、私の手を取って身を乗り出した。


「あのね、私には、宮廷楽団の第一奏者という……推し?の方がいるの。彼を支え、彼の音楽を世界に広めるためなら、私はどんな泥に塗れても構わない! 人手が足りないのでしょう? 事務も、宣伝も、何でもやるわ!」


 その申し出は、まさに天からの福音だった。

 令嬢としての誇りと、オタクとしての熱狂。

 それらを併せ持つソフィアは最適任。


「ソフィア……貴女という心強い味方を得て、私の計画は真の完成へと近づいたわ!」


「任せてちょうだい! 王都中を、推しの光で塗り替えてみせるわ!」


 推し活という名の新しい信仰は、身分という名の壁を超え、人々の孤独な心に火を灯し始めていた。


 私は窓の外、レイナルドが守っているであろう、男子寮の最上階の灯りを見つめた。


 忙しくなる。


 推しのために、そして私が私であるために。

 悪役令嬢の真実の戦いは、まだ始まったばかり。


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