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8 悪役令嬢、ヒロインと遭遇する

 春の陽光が、王立学園の白亜の校舎を、残酷なほど鮮やかに照らし出していた。  

 新学期。

 それは、運命という名の残酷な舞台装置が動き出す合図でもある。


 私は、濃紺のブレザーに袖を通し、鏡の前で己の覚悟を確かめた。  

 胸元に刻まれた銀の徽章――最高学年を示すそれは、私がこの物語の終幕に向けて歩み出したことを告げている。


 いよいよ、始まるのね……。  


 原作において、この一年は破滅へのカウントダウン。


 聖女の如き微笑みを湛えたヒロインが入学し、王子たちの心を奪い、アルマデリアは嫉妬という名の毒に狂い、奈落へと堕ちていく。  


 けれど、今の私の胸にあるのは、他者への憎悪ではない。

 徹夜で仕上げた、レイナルドへの献身の証――事業計画書という名の福音だ。

 しかも、ちょっとだけ推しに褒められた。


「お嬢様、用意が整いましたわ。……その瞳、まるで戦場へ向かう女神のようです」  


 エイミの声に、私は静かに微笑んだ。


「ええ、これは聖戦よ、エイミ。私は、この世界に、推し活。という名の救済を刻み込むのだから」


★  


 学園の門をくぐった瞬間、大気の震えが伝わってきた。  

 ひそひそと囁かれる声。それは、私という存在に向けられた好奇と、困惑と、そして微かな軽蔑が混じり合った不協和音。


「アルマデリア様よ」


「春休み中に商売を始めたという噂は、本当だったのね」


「誇り高き公爵令嬢が、市場の卑俗な熱狂に身を投じるなんて……」  


 事業計画書を提出したばかりだというのに、話が早すぎる。


 冷ややかな視線が、私の肌を刺す。

 けれど、私は顎を引き、より優雅に、より堂々と廊下を歩んだ。


 私の背負っているのは、単なる商売ではない。

 愛の定義を書き換えるという、高潔な革命なのだから。  


 教室の扉を開けると、そこは社交界の縮図だった。


「アルマデリア様!」  


 駆け寄ってきたのは、ソフィア・ハーヴェイ。

 デビュタント組みの蝶と称される彼女の瞳は、好奇心で爛々と輝いている。


「お久しぶりですわ、ソフィア。その緋色のリボン、今日の陽光によく映えていて素敵よ」


「そんなお世辞より、お聞きしたいのは噂の真相ですわ! 推し活工房……とやらの事業を本当にお始めになったの?」  


 彼女の言葉に、周囲の令嬢たちが一斉に色めき立った。


「殿下からの正式な認可も得ておりますわ。騎士団の皆様の、魂の美しさを封じ込めた聖遺物を扱っておりますの」


「まあ!」  


 令嬢たちが、感嘆の吐息を漏らす。


「騎士団……。では、あの氷の騎士、レイナルド卿の肖像も?」  


 誰かが発したその名に、私の鼓動が不意に乱れた。


「ええ……もちろん。彼の気高さを、掌の中に収めることができますわよ」


「私、どんな犠牲を払ってでも手に入れたいですわ!」  


 少女たちの情熱は、乾いた草原に放たれた火のように、瞬く間に燃え広がっていく。  

 しかし、その熱狂を切り裂くように、冷徹な声が響いた。


「……嘆かわしいことですわ」  


 セシリア・ローレンス。

 古き秩序の信奉者である彼女が、扇を鋭く閉じ、私を射抜くような視線を向けていた。


「アルマデリア様。貴女のされていることは、貴族の品位を泥に塗まみれさせる不敬、……いえ、冒涜ではありませんか?」


「品位、かしら?」


「ええ。殿下や騎士の方々を商品として売り捌くなど、淑女の風上にも置けません。私たちは、良縁という名の運命に従い、家の格を守るために生きるべき存在でしょう?」  


 彼女の言葉は、正論という名の刃だ。けれど、私は一歩も引かなかった。


「セシリア、貴女は知らないのね。愛とは、独占することだけではないわ」


「なんですって?」


「誰かの幸せを願い、その光に照らされるだけで満たされる……。恋よりも純粋で、信仰よりも激しい魂の叫び。私はそれを形にしたいだけ。……貴女の心に、形にできないほどの憧憬あこがれが眠っているのなら、それを否定しないで」  


 セシリアは唇を噛み、沈黙した。彼女の瞳の奥で、誇りと戸惑いが激しく衝突しているのが見て取れた。 


 午前の喧騒を抜け、昼下がりの中庭へと向かう。  

 そこで私は、運命の特異点と邂逅した。  

 人だかりの中心に立つ、一人の少女。  


 栗色の髪が春風に揺れ、茶色の瞳には知性の光が宿っている。

 清楚でありながら、どこか野生の草花のような力強さを秘めた美貌。  


 エリーゼ・ミラベル。

 彼女はやがて、この世界の真実を司る、天才哲学者となるのだ。


「……あの方が、噂の奨学生?」


「平民でありながら、叡智の寵児と称えられるエリーゼ様よ」  


 生徒たちの賞賛を浴びながら、彼女は困惑したように、けれど凛とした態度で微笑んでいた。


「……まだまだ未熟な身。皆様と共に、世界の理ことわりを学びたいと願っております」  


 その清涼な鈴の音のような声。

 王子たちが、そしてレイナルドさえもが魅了される理由が、その一瞬で理解できた。

 ――でも、私は貴女を憎んだりしない。  


 私は、静かに彼女へと歩み寄った。

 周囲の生徒たちが、嵐の予感に息を呑む。


「初めまして。アルマデリア・エルデンベルクよ。最高学年の生徒として、貴女を歓迎するわ、エリーゼ様」  


 エリーゼが、驚愕に目を見開いた。


「……アルマデリア様? 王太子の婚約者であらせられる、あの……」


「ええ。けれど、今の私にとって最も興味深いのは、貴女が研究しているという――哲学、よ。実は私、最近、恋愛哲学における新境地を開拓しておりますの」  


 エリーゼの瞳に、知的な好奇心の火が灯った。


「恋愛哲学……! それは、エロスとアガペーの止揚(アウフヘーベン)について、でしょうか?」


「もっと切実で、もっと情熱的なものよ。今度、ゆっくりと語り合わないかしら? 貴女の知性と、私の情熱が混ざり合えば、新しい愛の定義が生まれる予感がするわ」  


 エリーゼは、花が綻ぶような満開の笑みを浮かべた。


「喜んで! アルマデリア様……お噂以上に、不思議で素敵な方ですね」  


 周囲からは、驚天動地の囁きが漏れていた。


「公爵令嬢が、平民を友として迎えた……?」


「アルマデリア様が、狂われたのではなくて……?」  


 それらの声を、私は心地よい音楽のように聞き流した。  

 嫉妬に狂う悪役令嬢は、もういない。  

 私は、運命という名の脚本を自ら書き換え、新しき愛の布教者として立つ。


 庭園の隅、影のように控えるレイナルドの視線を感じる。

 彼からすれば、私がヒロインを手懐けているように見えているのかしら。


 見ていなさい、レイナルド。

 貴方が守ろうとしているこの世界を、私はもっと優しく、もっと尊い場所へと変えてみせる。  


 私は、エリーゼの手を優しく握り、春の光に満ちた未来を幻視していた。  

 それは、破滅でも断罪でもない、誰もがそう――推しの光に救われる、新しい愛の地平だった。


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