第2話 闇夜
突然リマインダーの通知音がした。
[19:30 ユキのお迎え]
折れた心にかろうじて芯が通る。
――父親なんだ。
私はユキの父親なんだ。
膝をついてうなだれてる場合じゃない。
ヒグラシの鳴く声が消えた。
ジージーと夜の虫たちが鳴き始めた。
木々の影が長く濃くなってきている。
落ち着け。
そうだきっと観光地のなれの果てだ。
江戸をテーマにした遊園地。
二番煎じで失敗したんだろう。
じゃあなんで、案内板や電柱すらないんだ。
「考えないで行動しろ」
思わずつぶやき、唾を飲み込んで声を絞り出す。
「どなたか、いらっしゃいますか」
思ったより大きな声が出た。
返事はない。
安心した。
……返事がある方が怖い。
深呼吸をして崩れた建物の方に歩き出す。
木々の間、建物の裏、影が濃くなってきた。
何かがそこにいる気がしてくる。
パジャマが汗で濡れて冷たい。
夜が追い付いてきている。
一番形が残っている建物の前に立つ。
茅葺き屋根が苔むして緑色になっている。
戸口の扉が外れている。
土間には水たまり。
どこか懐かしさを感じる造りの建物。
戸口は胸の高さ。
くぐり戸かと思ったが、中は茶室ではなかった。
頭だけ中に入れて覗いてみる。
かび臭い。
土間にはかまど。
転がった茶碗。
片方だけの草鞋。
囲炉裏には灰が残っている。
囲炉裏の周りにはなぜか綺麗にならんだ箸。
「――テーマパーク、じゃない。」
言葉にした瞬間、重しのようにのしかかってきた。
誰かが、そこで明らかに暮らしていた。
だけど無視できない違和感。
どうして全て小さいんだ。
茶碗は幼児用、草鞋も子供用か。
箸なんて私の人差し指より、少し長いくらいだ。
虫の声、木々のざわめき、風の音すらもしない。
ここにいたのは人なのか。
足元から背中、指先まで怖気が走る。
駄目だ。
考えてはいけない。
中に入るために戸口に手をかける。
戸口のそばの壁には小さな手の跡が無数に残っていた。
いろりの周りの床にゆっくりと腰掛ける。
ギイと床板が軋む。
また静かになった。
背中を一筋、汗が伝う。
落ち着こう。
もうだいぶ暗い、土間の茅葺き屋根に空いた穴から月明かりが入る。
もう夜の手の中にいた。
心細さを慰めるようにスマホを開く。
20:22。バッテリーは17%。
減ってる。当たり前だが恨めしかった。
電波が戻った時に使えないと困る。
電源を切る。
囲炉裏のそばに小さな石とC字に曲がった小さな打ち金のような鉄片が置いてあった。
火打石──火を起こすための道具だ。
「マッチかライター使おうぜ」
一人おどける、その先を考えないために。
自分の心が折れないように息を深く吸い吐き出す。
「ギャーギャー」
女の叫び声。
目に涙が溜まり、視界が一瞬ぼやけた。
体が震え、全身に電気が走ったようだ。
喉が渇く。
ポキッと音がするように心は折れた。
声なんて聞こえてない。
錯覚、幻聴だ。
しばらく震えているとあたりは静けさを取り戻していた。
握っていた手をゆっくりと開く。
指が固まっていた。
ふと火打石に視線を走らせる。
その瞬間、部屋が暗くなっていき何も見えなくなった。
スマホはどこだ……。
囲炉裏の方に手を伸ばす。
月明かりが茅葺き屋根の穴から室内を照らし始めた。
雲が月を隠しただけだ。
だけど暗闇がどうしようもなく怖かった。
火打石を手に取った。
また暗くなる。
恐怖に任せて、石と鉄を叩いた。
火花が飛んで暗闇が後ずさる。
部屋の隅に何かがいた。
明るくなった瞬間——何かを見た。
体が石のように固まり、動けない。
飛んだ火花が、焦げた金属の匂いをわずかに残す。
随分と長い間そうしていた気がする。
何も起こらない。
壁の木目を何かと錯覚したのだ。
そろそろ夜明けか。恐る恐るスマホの電源を入れる。
21:57。
「嘘だろ。」
42歳の誕生日にMARIKOに言った言葉を思い出す。
「40過ぎるとさ1日も1年もあっという間だよな、早すぎてびっくりするぐらいだよ」
夜が、こんなに永いなんて知らなかった。
何度も目を覚ますたびに時刻は進んでいた。23時を過ぎ、気づけば1時を回っていた。
「テッペンカケタカ」ホトトギスの声が闇に響く。
……ユキ。お前も眠れてるか。父さんは帰るからな。
01:24。
うとうとしていると、また女の声が聞こえた。
さっきより近い気がした。
あれは獣の声だと言い聞かせ目を閉じる。
もうどっかいけ、お前の声は飽きたよ。
驚いてやるもんか。
いい加減に眠りたいんだ。
すると、なぜか微かなアンモニア臭を感じた。
02:45。
もう一度目を開けると朝だった。
朝日は鈍い茶色だった。夢の続きのようだ。
立ち上がりそっと外に出る。
夜が明けてもう一度周りを見渡す。
目に入るものが私の日常を奪っていく。
壊れた農具。
用途の分からない割れたツボ。
目に留まったのは小さな竹馬だ。
私の太ももまでしかない。
足をかけるところは脛あたりだ。
言いようのない違和感に囚われている。
するとかすかに水の音がする。
集落の高台へと続く坂道を行く。
岩の間から透明な水が静かに湧き出していた。
石組の貯水槽があり、あふれた水が小川になっている。
組まれた石の上に小さな椀が置いてあった。
水を手のひらですくう。
冷たい、一瞬の躊躇のあと水を口に含む。
冷たく甘い水が舌先に触れながら喉を通っていく。
飲み干して、息をつく。
「生きてる。ちゃんと生きてるよ俺。よかった。」
「MARIKO、ユキ待ってろよ。」
スマホを取り出して電源を入れる
——圏外。
フーッと息を吐き、気を取り直す。
廃墟の方を振り返る。
朝日の中に見えた景色が希望で輝いている。
少し先の平地に大きな集落が見えた。
白川郷のような集落だ。
観光地……そう思い込んだ。
あそこに行けばなんとかなる。
急に活力が戻ってくる気がした。
私はもう一口水を飲んで歩き始めた。
観光地なのに駐車場もない。
静かで、人影もない。
それでも──気付かないフリをした。




