第18話 鬼
――アバタメ――
合議を終えた俺は、もつれそうになる足を急がせて家に戻った。
カズラが寝てから、タケに話をする。
「タケ。明日……マリを焼く……。
さっきの合議で決まった。鬼と契って、赤子ができた。」
口に出した瞬間、言葉と共に俺の中から怒りが抜け出ていく。
掟に飲まれ、闇の中に引きずり込まれていく気がした。
息を吸い、腹にもう一度火を起こし、タケの瞳を見つめて言う。
「俺は、させねぇ。朝日と共に逃がす。
タケ──俺は間違ってねぇ。」
タケが俺の手を強く握る。
春の風が戸をカタカタと揺らした。
「タケも、それでいいな。」
タケは、ただ静かに頷いた。
誰一人会わずにマリの所へ行く。
子供のころからさんざん駆けずり回った山だ。
見つかるわけがねぇ。
それでも、もしもの時のためにタケに家をすぐ捨てられるよう準備をさせる。
タケ、カズラ……俺がもっと融通が利いていたら、不安な思いなどさせなかった。
もっと上手く、生きれたらよかった。
囲炉裏に残した小さな火を背に、二人で荷物をまとめる。
外ではカエルの声が途切れることなく続いている。
今まで、こんな過酷な春の始まりは経験したことがなかった。
荷造りを終え、草鞋を履いていると、タケが俺の後ろに立った。
「あんた……。」
続く言葉が出てこないのだろう。
タケは口を噤んでしまう。
カエルの声ばかりが聞こえる。
「わかってる。これで終いだ。もうしねぇ。」
俺のせいで家族の立場が危うくなるかもしれねぇ。
二度と勝手なことはできねぇ。
だけど、こうしないと俺は俺でいられねぇ。
タケは黙って火打石で切り火を切る。
「行ってくる。」
戸をそっと開き、暗闇に目をならし、足を踏み出した。
俺はまとわりついてくるような夜の闇に沈んでいった。
月は雲に隠れ、あたりを照らすものは何もなかった。
――サトル――
マリと私の子供ができた。
正直、喜びと不安な気持ちは半々だ。
この世界で異物である私たちが、子供を育てきれるのか。
子供は将来どこで暮らすのか。
考えれば考えるほど眠れなくなってくる。
外からハクビシンのキャアキャアという甲高い声がする。
もし私たちが山の獣だったら、こんなことに悩まないのだろう。
そんなことを考えていると、するどく戸を叩く音がした。
マリも目を覚まし、私と顔を見合わせる。
夜明け前にここを訪ねてくるやつが、まともなわけがない。
マリに寝床を出ないよう言うと、山でとってきた薪を握り、戸に近づく。
暴力は嫌いだが、そうも言ってられない。
体格の差は子供と大人ほど──大丈夫だと自分に言い聞かせて戸を開く。
――アバタメだった。
なぜ彼が来たんだ。
彼が衣服や道具を息子の治療のお礼だと置いていったことは聞いていた。
だけど、なぜこんな夜更けに……。
お互いの目が合う。
悲しそうな彼の瞳が、何か尋常でないことが起きたのだと私に理解させた。
「サトル……。」
アバタメがぽつりと私の名前を呼ぶ。
マリ以外に名を呼ばれたことは、この世界に来て初めてだ。
小さな灯が胸に灯った。
「サトル、マリ──ここから逃げろ!」
唐突にアバタメが言う。
否定も疑問すらも許さない、強い口調だ。
山の中の生き物が息をひそめたような沈黙が訪れる。
「何言ってる! やっと赤子があたしのところに来たんだ!
ふざけたこと言うな!」
沈黙を破ったのはマリだった。
マリの声が夜に吸い込まれるのを待って、アバタメが話し始める。
「バレたぞ。村のもんはみんな知ってる。合議でここを焼き払うことが決まった。
お前たちもろともだ……。」
アバタメの声に、呼吸が浅くなり、血が湧き上がる。
私が──いや、私たちが、お前たちに何をした。
煮えたぎる怒りが腹を突き破り、喉から飛び出ようとしたその時、
マリが私の手を握り、言った。
「サトル、支度しよう。アバタメ、いつあいつらが来る?」
どこか冷たい水を思わせるような、マリの声が響いた。
さっきまで燃えるような怒りをまとわせていたマリは、
すでに凍てついた瞳に変わっていた。
そうだ。
ここはこういう場所だ。
誰もが掟に絡め取られて、逃げられない。
鬼と言われた俺だけが、その暗く歪んだ世界に気づいている。
「今日、日が落ちたら火を点ける。すぐ支度しろ。」
アバタメの声に我に返り、動き出す。
必要なものを籠に入れていく。
支度をしていると、アバタメが声をかけてきた。
「サトル、お前がいた場所には逃げれないのか。」
アバタメと会話をしていることに違和感を覚えつつ、答えた。
「もう、あそこには二度と戻れないんだ。俺と同じ人たちにも、二度と会うことはない。」
そう答えたあと、納得したのか「そうか」とだけ言い、アバタメは支度を手伝い始めた。
段々と夜が明け始めるころ、支度が済んだ時、アバタメが懐から何かを取り出して言う。
「これ持ってけ。売れば金になる。」
白い貝を細工に使った櫛と簪をマリに持たせる。
「これ、タケの嫁入り道具でねぇか。これは貰えねぇ。」
マリが目を見開いて言う。
「タケが、必ずマリに渡せと言ってた。受け取ってくれ。」
アバタメが、少し戸惑いがちに言う。
マリの手に櫛と簪をのせながら、アバタメは何かを決意したように私たち二人に視線を向けた。
「サトル、マリ。逃げろ。死なずに逃げ続けろ。
──すまねぇ。できるのはこれだけだ……達者でな。」
そう言うと、アバタメは振り向きもせず村へ走っていってしまった。
残された私たちはこれからのことを少し話し、歩き始める。
このまま山を登り、尾根づたいに他国に逃げる。
金が必要になれば、宿場町でマリが物を金に変える。
どこかに腰を落ち着ける場所が見つかるまで逃げる。
見つからなければ、永遠に彷徨う。
マリの手を強く握る。
二人で生き、二人で死ぬ。
お腹の子は、何が何でも生かす。
それだけを約束した。
山の稜線に日が昇り始めた。
だけど、私にはその朝日が呪いのように見えた。
――アバタメ――
誰にも見られずに村に入り、家へ戻る。
戸を閉めると、静かなタケの声がふってきた。
「あんた、どう。」
俺が家を出てから、囲炉裏端で一睡もせず待っていたらしい。
酷く憔悴している。
本当に苦労をかけた。
「タケ、大丈夫だ。みんな終わった。」
俺はそっと安心させるように言った。
タケが白湯を持ってきてくれた。
ありがたく受け取り、喉を濡らす。
「あんた、おつかれさま。」
タケの静かな呟きが、ささくれた心を穏やかにさせた。
そしてタケを優しく抱きしめて言う。
「少し休もう。」
二人して、一瞬のやすらぎを抱きしめながら床に入った。
夕刻、男たちが広場に集まってくる。
中央ではモガリネが、穢れを払う小豆の粉を男たちの顔に塗りたくっている。
獣脂と薬草と小豆を混ぜた軟膏だ。
広場は赤い顔の男たちであふれていた。
モガリネが俺を見つけ、こちらに向かってくる。
目が合うと、何も言わず頷いた。
モガリネの被る仮面が作る影が、いつもより濃く見える。
仮面に空いた目と口──三つの穴が、まるで夜の闇のように見えた。
顔に軟膏を塗られていると、シラネブとヒナネブがたいまつを持ってやってきた。
誰一人、声をあげる者はいない。
モガリネが重苦しい祝詞を唱えると、男たちは鬼の家へと行進を始めた。
山道を進む、赤い顔の男たち。
鬼の家に着く少し前に、シラネブが小さな声で皆に伝える。
「鬼の所さ着いたら、まず俺とアバタメで中を見る。
そして村八分と鬼を縄にかける。
アバタメ、覚悟はできてるな。」
シラネブの言葉が胸を貫く。
かろうじてうろたえないよう取り繕う。
なんとか頷き返すが、胸の早鐘が止まらない。
もう着いてしまった。
モガリネの指示で、男たちが家を囲む。
シラネブがホソガネから縄の入った袋を受け取る。
その手が震えていた。
そして俺を見る。
シラネブは戸口に進み始めた。
ゆっくりと奴の後を進む。
戸を抜け、土間に入り、静かに戸を閉める。
中には、誰もいない。
シラネブは俺を一瞥すると、袋を開き始めた。
何をしようというのか……。
袋から獣の骨が出てくる。
そして俺に静かな声で言う。
「おめも手伝え。」
二人して袋から骨を出し、土間に並べる。
一言も言葉を交わさず並べ終えると、シラネブが俺の肩に手を置き、目を見据えた。
何も言わず肩を強く握ると、静かに振り返り、家を出た。
俺は一呼吸してから家を出る。
家を出ると、モガリネが戸口そばの屋根に火を点けた。
男たちが次々と続く。
俺とシラネブが最後にたいまつを屋根に放り投げた。
炎に照らされた男たちの顔が、泣いているようにも、笑っているようにも見える。
火の粉が天まで上がって、暗闇に溶けていく。
シラネブ、モガリネ、ヒナネブが指を組んで祝詞を呟いている。
ヒナネブの嗚咽が聞こえる。
嗚咽は、段々と笑い声のように聞こえてきた。
ああ、俺たちが鬼になったのだ。
サトルとマリを焼き殺した。
俺たちこそが鬼だったんだ。
居酒屋 常夜
――夜の終わり――
「とまぁ、これで俺の話はお終い、打ち止めだ。
おーい、兄さん、お終いだよ。聞いてっか。」
与太郎の口調が一気に変わり、現実に戻ってこれた。
でも体は震え、酒で温まったはずなのに寒気が止まらない。
「あれぇ、兄さん悪酔いかい? 大丈夫かい。
ちょっと刺激が強すぎましたってか。」
与太郎は煙草を消すと、盃をあおった。
そして俺を見て、にこりと笑う。
その笑顔を見た瞬間、もうここにいてはいけない気がしてきた。
鞄を開け、財布から一万円を出してカウンターに置く。
酔ったから帰ると告げ、そそくさとコートを取り、店を後にする。
背中に与太郎の声が響く。
「兄さん、気つけて帰んな。焦らなくても終電はまだ先だ。」
街灯の下を駅へ向かって急ぐ。
早く家に帰りたい。
セミが電信柱に止まり、鳴いている。
うるさくて腹が立つ。
コートを落とさないよう強く握り、速足で歩く。
駅まで、もう少し。
踏切に捕まった。
息を整えていると、後ろから声をかけられた。
「にいさん、財布忘れてるよ。」
振り向くと、与太郎が立っていた。
俺の横に並び、財布を渡しながら言う。
「あれ兄さん、ずいぶん背が高いね──まるで巨人か、鬼だ。」
与太郎の声が、どこか遠くから聞こえる。
踏切警報機がカーン、カーンと間抜けな音を立てる。
まるで鐘のようだ。
電車が入ってくる。
それは見慣れた形ではなかった。
どこか潰れたように屋根が低い電車が、踏切の前を通っていく。
電車の警笛の音が聞こえ、俺の世界は真っ暗になっていった。




