第16話 嫉妬
――ハスネ――
木枯らしが吹きすさぶ中、俺はもろ肌を脱ぎ、ふんどしを締め直した。
男たちが桶で冷水を何度も浴びせる。肌は赤くなり、白い湯気が上がる。歯がカチカチと震えた。
とうとうこの日が来た。俺も贄名を授かる。
肝煎の息子──ハスネ。それも今日で終わる。
肝煎の息子。
それが嫌だと思ったことはない。
幼いころ母を亡くし、必死に村をまとめ上げながら俺を育ててくれた父。
その背中を、ずっと俺は追いかけてきた。
寂しいときは「いつでも来い」と言ってくれたアバタメ、タケおばさん。
父に諭されたとき、いつも相談にのってくれたモガリネ。
村の人々。
俺は村に育ててもらった。
だから、なんとしても立派な肝煎になる。
村の広場には火のついた薪炭が並べられ、辺りが暗くなってから儀式が始まる。
モガリネが仮面を被り、薪炭の前で祝詞をあげる。
今日、儀式で贄名を授かるのは俺だけだ。
男も女も年寄りも赤子も、村中が総出で見守る。
モガリネに促され、俺は薪炭の前に立つ。
燃え上がる火の粉が夜空を、赤い羽虫の群れのように舞い上がる。
モガリネが酒を俺に吹きかけ、柄杓を渡された。
俺は一息に飲み干した。
火を渡り、穢れを絶ち、生まれ変わる。
――ヒナネブ。
それが俺の新しい名だった。
ヒナネブ──その名を初めて口にしたとき、俺はその響きがどこか遠く感じた。
けれど、足裏の熱がすぐ現実を呼び戻した。
すっかり冷えた上半身、だが足裏はじくじくと熱を感じていた。
その熱を感じながら、どんなことでもやり遂げられる気がした。
春になったら、あの人に会いに行こう。
この村で唯一、理不尽に絡めとられたままの人。
あの美しい人が、このままでいいわけがない。
俺が肝煎になる村で、理不尽をまかり通すわけにはいかない。
――サトル――
寒さに耐え、互いに寄り添い、冬は駆け足で過ぎた。
冬に閉じ込められている間に、私の言葉は随分と上達した。
「サトル、遠くでウグイスの声がする。もうすぐ春だ。」
マリが、まるで自身が春の化身であるかのような優しい音で私に言う。
私が言葉を覚えたことで、彼女もずいぶん話をするようになった。
最初の印象と違い、彼女はとてもおしゃべりだった。
雪が溶け、梅がほころび始めたころ、ふと彼女が告げる。
「サトル、ちょっと聴いてほしい。」
めったにない、緊張した声だ。
囲炉裏に腰掛け、彼女の話を聞く。
――ヒナネブ(ハスネ)――
春が来た。
野に花が咲き始めたころ、マリに会いに行くことにした。
川は雪解け水が流れ、ウグイスが鳴いている。
今年の春は格別だ。
今日を区切りに、マリの苦しい日々がきっと終わる。
十二の時、初めてマリに会った。
父であるシラネブに連れられ、籠を背負ってこの道を歩いた。
マリは静かに穏やかに、俺に笑いかけてくれた。
「おっかぁ」と思わず呟きそうになった。
父に「村八分と決して話すな」と言われてなければ、口にしていたかもしれない。
何度も顔を合わせるうち、父のいないところで話をするようになった。
村八分になった理由。
あんな理不尽なことがあってはいけない。
マリの背負う影を見ているうちに、段々と男として守らなければと思うようになった。
ある日、意を決して気持ちを伝えた。
十四の夏のことだ。
マリの家の土間に膝をつき、持ってきた荷をほどいていた。
冷えた土の感触が膝にしみていたのを覚えている。
「マリ、俺はお前を好いてる。いつか肝煎になったら絶対に村に戻す。
そしたら俺と祝言をあげてほしい。」
マリは目を見開く。
勝気で美しい瞳がくもり、口を開きかけたが、息を静かに吐き、戸口を顎で指した。
俺は静けさの中、ただ出ていくことしかできなかった。
マリはきっと、村八分の自分を好かないよう気を使っているんだと思った。
心が痛かった。
あれから三年、俺は男になった。
もうマリを守れるはず。
どうにかしてマリを村に認めさせ、俺が肝煎になったらもう一度、気持ちを伝える。
結婚はできないが、妾になるという道もある。
今よりも、もっといい未来が待っている。
浮かれていると、マリの家が見えてきた。
――マリ――
赤子を宿したことは、あたしにとって救いだった。
サトルがどう思うか、それが不安だった。
ここで父になる重さを受け入れてくれるだろうか。
異人の子だ。無事に生まれるのか、村に知られたらどうなるのか。
それでも伝えよう。震えていても、笑顔で伝える。
あたしはそう決めた。
「サトル。赤子が……赤子ができた。」
サトルの目が大きく見開く。
顔を手で覆う。
不安な気持ちが心をよぎる。
喜んでくれないか——。
一瞬、目の前が暗くなりかけた時、サトルがおいおいと声を上げて泣き始めた。
そして幼子のような口で言う。
「良かった……。マリと家族になれるんだ。」
そう言うと、目を擦る。
サトルは本当によく泣く。嬉しいことがあると特に。
立ち上がり、抱きしめる。
「三人で生きよう。」
春の穏やかな風が戸口から流れてくる。
不思議に思い、目をやると、戸口にハスネが呆然と立ち尽くしていた。
「ハスネ!」
慌てて声をかける。
「俺はハスネじゃねぇ!!ヒナネブだ!!」
何かを突き刺されたかのような叫び声をあげ、ヒナネブは走り去っていった。
――ヒナネブ(ハスネ)――
鬼が、俺からマリを奪った。
優しい笑顔も、俺が受け取るはずだった視線も、全部あの鬼に奪われた。
あいつがマリを抱きしめる姿が脳裏を焼き尽くす。
腹を手に当てたマリの嬉しそうな笑顔。
あの笑顔は、俺のものだった。
俺が助けて、俺が祝われるはずだったのに。
俺の未来が。
――奪われた。
怒りが冷静さを溶かしていく。
つぶやくように、自分に言い聞かせる。
「俺は肝煎の息子だ。村のために動くのは、俺の役目だ。」
足裏の火渡りの熱が、まだ残る。
あの熱を怒りに変え、鬼を打ち殺す。
奪われた未来のため、村を守るため。
風のように丘を駆け下り、村へ戻る。
雪を蹴るたびに、心臓が跳ねる。
何事かと家々の戸が開き、人々の顔がこちらを向く。
俺はためらわずに叫んだ。
「鬼が襲いに来る! 男は武器を持て、女と子は家の奥へ隠れろ!」
ざわめきが広がる。誰かが子を抱え、誰かが戸を閉める。
男たちが俺の周りに集まってきた。
そのとき、仮面を付けたモガリネが人の波を縫って歩いてきた。
俺は呼び止めるように、声を張った。
「モガリネ! 鬼だ。鬼が来る!」
男たちはどよめき、急いで家へと駆け込んでいった。
雪の上を走る足音と戸を閉める音が、山全体に反響していた。
「ヒナネブ、合議を開く。肝煎を呼んでくれ。」
モガリネの冷静な声が、ひどく遠くから聞こえた。




