第15話 人間
居酒屋 常夜
――幸せな結末――
俺は酒の入っていたコップをカウンターに置き、与太郎に言った。
「いや、おじさん。いい話だったよ。胸にグッときたよ。」
与太郎の与太話に押しつぶされる気がして、店を早く出なければと思った。
すると与太郎は自分の盃を口に運び、盃を干した。
「さぁてね、にいさん。まさか与太郎の与太が、めでたしめでたしで終わると思うんかい。」
与太郎が自分の徳利から俺のコップに酒を注ぐ。
それだけの所作が、やけに垢ぬけて見える。
「この酒な、『鬼鳴き』っていうんだ。いい酒だよ。」
与太郎に勧められ、コップを口に運ぶ。
米の旨味が口の中でふくらむ。
「サトルもマリも、好いた惚れたで恋に落ちたって年じゃねぇ。一人ぼっちの寂しさを、痛いほど知ってる奴らさ。
そんな二人の結末が、ハッピーエンドでたまるかよ。」
与太郎の声が、不思議なほど響き、頭に染みわたってくる。
「にいさん。与太郎の与太、いい話だって? ……そうは問屋がおろさねぇ。
たとえ小便ちびるほど怖くても、胸がつぶれるくらい苦しくても、与太は終いまで止まらねぇ。
覚悟を決めて最後まで、耳の穴かっぽじってよく聞きな。」
抗うことのできない力が働いているかのように、俺は与太郎の与太話に耳を傾ける。
気づけば俺は、盃よりも与太郎の言葉を味わっていた。
――アバタメ――
カズラの熱が下がった夜、寝言で「天女……山大人……」と呼んだ。
それが誰だかわかっているから、たちが悪い。
マリ。お前は昔から気の回るやつだったが、今もそうか。
村八分……礼をすることもできねぇ。
息子を助けてもらって、礼をしねぇ親がどこにいる。
俺は農民頭だが、人間だ。
タケに訳を話すと、そっと嫁入り道具の貝細工の鏡を渡された。
夜明けとともに、俺は宿場町へ向かった。
――サトル――
秋は駆け足で過ぎ去り、山は木枯らしの色を帯びていた。
あの日から、私とマリは夫婦のように過ごした。
私は言葉を習いながら、マリから共に生きるすべを学んだ。
彼女は根気ある教師で、とても我慢強く、何度間違えても見捨てなかった。
私の手は、土の味を知る手になっていた。
夕刻、囲炉裏の前で草鞋を編んでいると、彼女が言った。
「もうすぐ冬が来る。今年はサトルと二人で越えなければならない。
食べ物も、服も、薪も足りない。やることがたくさんある。
二人で乗り越えよう。」
たんたんとした口調だが、緊張感をはらんでいた。
冬支度は想像を超えた忙しさだった。
保存食を作り、薪を確保する。
家の修繕もしなければならない。
そんな日々でも、心温まる時間があった。
雨が降って作業が出来ないときには、絵を描いた。
マリを描いた。
出来上がった絵を贈ると、彼女は絵を胸に抱えて感謝の気持ちを伝えてくれた。
――マリ――
「サトル、ありがとう。大切にする。」
サトルの絵は、あたしと瓜二つだった。
まるで鏡だ。
もしかしたら、あたしより綺麗かもしれない。
大切にしよう。
冬支度を急ぐ。
外に出ると、木枯らしが吹くようになってきた。
白鳥が空を飛んでいる。
もうすぐ冬が来る。
食料はなんとかなりそうだ。
後は服だ。サトルの服がない。
今着ているものでは冬は越せない。
ハスネに頼るわけにもいかない。
サトルのことは隠さなきゃいけない。
不安な思いを抱きつつ冬支度を続けていると、誰かがこの家に近づいてくるのが見えた。
アバタメ。
なぜアバタメがこの家に来るの。
村八分になったあたしに近づくのは、肝煎の家のやつだけだ。
ふと恐ろしい想像が思い浮かぶ。
サトルを殺しに来たか。
あたしは急いでサトルに隠れるよう促す。
木枯らしの中を、草鞋が地面を踏む音が近づいてくる。
アバタメが戸口に立って、戸を叩いた。
戸を開け、土間に立ってアバタメを睨みつけて言う。
「何しに来た。村八分に用なんかねぇだろ。」
アバタメはフッと笑うと、土間にあるサトルの草鞋を指さして言った。
「マリ、お前、随分と足がでかくなったな。」
気付かれた。
土間の包丁に目を向ける。
「まぁ、待て。お前たちには用はねぇ。天女と山大人に礼を言いに来た。」
サトルが連れてきて共に看病した子どもの顔が思い浮かぶ。
そうか、あれはアバタメの子か。
あたしは自分のことを「天女」、サトルを「山大人」と言って、熱にうかされた子どもに伝えたんだ。
村八分の家で助けてもらったと、子どもに言わせるわけにはいかなかったから。
あたしが納得したと察したのか、アバタメは背負っていた籠を土間に置いた。
籠の中からは大量の古着が出てきた。
半纏も沢山ある。
これでサトルに冬を越させることができる。
「天女と山大人に渡せ。それだけだ。これで帰る。」
アバタメはくるりと背を向け、戸口に立って言った。
「マリ、あれは鬼じゃねぇと俺は思ってる。」
そうだ。あの人は鬼じゃない。
あたしが選んだ男だ。
誇らしさと同時に、どうしようもない苛立ちが胸にこみあげる。
あたしは苛立ちの正体を知っている。
村の掟。
目に見えないツタにがんじがらめにされた人々。
アバタメのように優しさや誠実さを持ち合わせても、村の掟は壊せない。
それでも、アバタメには言っておきたい。
「サトル……あの人の名前、鬼じゃない人よ。私たちと異なる人。」
アバタメはもう一度こちらを振り向いて言った。
「そうか。俺はここのことを誰にもしゃべらない。お前も、誰にも知られるな。」
そう言って外に出ていった。
空をカモたちが賑やかに飛んでいく。
冬が来た。
そして、静かに“人の季節”が始まった。




