第1話 覚醒
居酒屋 常夜
——夜の始まり——
その日、俺はやりきれない気持ちを抱え、さびれた居酒屋の暖簾をくぐった。
カウンターは八席。客は二人。
俺と、いつの間にか隣に腰かけていた小柄な男。
冷酒をあおっても、ちっとも酔わない。
「にいさん、えらく顔色が悪いな」
男は、不思議と軽い調子で声をかけてきた。
そして、ぐいっと盃をあおってにやりと笑う。
「人生なんざ思い通りにいかねぇ。理不尽でも歩くのが、人間ってやつさ」
カウンターの皿の影が妙に長く伸びていた。
男の声が、灯りを少し落としたみたいに低くなる。
「にいさん、ひとつ面白ぇ話をしようじゃねぇか。
奇っ怪で、馬鹿馬鹿しくて、でも少しばかり怖ぇ話をな」
俺が黙って耳を傾けると、男は肩をすくめて笑い、ぽつりと言った。
「にいさん、これから語るのは俺の話じゃねぇ。
……別の男の話だ。
そいつ名前は、なんだっけ……まぁ語るうちに思い出すだろ。
そうそう、お上品なやつでな、自分のこといつも“私”って呼んでたっけ」
盃がカウンターにとんと置かれる。
それが合図のように、居酒屋のざわめきが遠のいた。
俺は耳を澄まし、男の話に引き込まれていった。
こうして俺はその男の与太話
――異人奇譚――と出会った。
第1話:覚醒
クー、クーと山鳩の鳴く声で目を覚ます。
背中がひどく痛む。
右手の指が固まって、何かを掴んでいる。
スマホだ。
充電コードが刺さったままの黒い機種。
違和感が全身を這うように登ってくる。
おかしい。
素足にちくちくと草が触れる。
背中には冷たい土の感触。
湿度と蚊の羽音がまとわりつく。
土の上にパジャマ姿で横になっていた。
ここはどこだ。
私は誰なんだ。
ふと右手に目をやる。
スマホを開く。
ロック画面には男と女、そして子供。
家族だろうか……。
幸せそうで、少し照れくさそうに三人で微笑んでいる。
背景には国民的人気テーマパークの大きな城。
この男は私だ。
それはわかった。
妻らしき女性と中学生くらいの女の子……おそらく私の家族。
妻と娘の三人家族。
名前は……思い出せない。
クー、クー。また山鳩が鳴いている。
自然公園やキャンプ場のような森の匂い。
酔っぱらってどこかの公園で眠ってしまったのか?
そんな事が今まで一度か二度あった気もする。
違う。
ここは公園なんかじゃない。
ましてやキャンプ場でもない。
ベンチや街灯、周りに人工物がなく、人の気配が一切しない。
足元に違和感。
見下ろすと、冬用の毛足の長いスリッパを履いてる。
「なんで、スリッパ…」
思わず声が出た。
誰も答えない。
また山鳩の声がした。
そうだ、あの声はマンションのベランダからも聞こえていた。
娘が小さいころ、『おばけ?』と怯えていた鳴き声だ。
娘、妻。おぼろげな記憶が少しだけ何かを形作った。
あの日家族で暮らしてた……マンション。
今、目の前にある異様な森。
ふと異様さの正体に気づく。
音がしない。
正確には人が作る音、車、電車、飛行機。
現代なら当たり前に耳に届くはずのざわめきが一切ないのだ。
家族は……どこだ。
一人なのか。
「おーい、誰か…」
弱弱しい声が出た。ひどくのどが渇く。
誰も答えない。怖気が足元から這い上がる。
きーんとした耳鳴りがする。
唾が飲み込めない。
立ち尽くし、右手に持っているスマホをもう一度見つめる。
スマホだ。
家族に連絡を取れる。警察にも連絡しよう。
遭難か、拉致か、それとも夢遊病か…とにかく連絡をとろう。
「嘘だろ……富士山でも繋がったのに」
圏外──そんな場所、日本にまだあるのか。
「はは、久しぶりに見たよ、海外だったりして」
現実感が消失した。
冗談にでもしないと、地に足がつかない。
Wi-Fiは……つながるわけないか。
地面に座り込む。そうだ地図アプリ……これも駄目だ。
とにかく自分の事を思い出そう。
何か打開策があるかもしれない。
LINEを開く。自分と妻の会話。
私はSATORU、妻はMARIKOというアカウント名。
思い出せないがLINEの最後の会話は私の発言だ。
既読はついてない。
「体調が悪いのに無理させてごめん。本当に反省してる。」
私は何を謝ってるんだ……会話をさかのぼる。
どうやら娘の習い事の迎えを、飲み会を理由に妻に押し付けたようだ。
そこには普通の日々があった。
じゃあなんで私はここにいるんだ。
クー、クー。
また山鳩が鳴いた。
立ち上がるとかさりと厚く積もった落ち葉から音がする。
もう一度、かさりと音がした。
思わず後ろを振り返る…何もいない。
「大丈夫、大丈夫だ。いくぞ」
今歩き出さなければ、このままここを動けない気がした。
とにかく人を探そう。
ここに座っていてもしょうがない。
空が赤く色づき、森の向こうに沈んでいく。
遠くからヒグラシの声がする。
こんなところで夜を迎えるなんてごめんだ。
充電ケーブルをまるめて、パジャマのポケットに入れ歩き出す。
パジャマに書いてある文字を読む。
『everyday happy day』
「なんの冗談だよ。」
大きな声を出して渇いた笑いをもらす。
だんだんと夜が近づいてきている気がする。
何か喋っていないと夜に喰われそうだ。
歩き出すと思ったよりも、足が速く前に出た。
走り出したくなるのを必死でこらえる。
落ち葉が薄いところを歩く。
思ったより歩きやすい。
獣道なのかはわからない。
もしかしたら人が歩いた跡なのか。
山の中のハイキングコース的なところにいるのかもしれない。
夢遊病…聞いたことしかないが、それかもしれない。
でも記憶がないのは、スマホの電波がないのはなぜなのか。
「大丈夫だ。誰かを見つけて警察に連れてってもらおう。電波もきっとメンテナンスとかそんなことだろう」
必死の思いで状況を合理的に説明しようと独り言をつぶやき続ける。
心を支配しようとする一つの感情に抗う為に。
「スマホがあってよかったよ。電波が戻れば連絡もできる。病院に行けば心の不調とか原因がわかるはず。」
スマホ。
ふとある不安が心をよぎる。
右手のスマホを見つめる。
残り19%。
心臓が動きを止めたように感じた。耳鳴りがする。
あまり時間がない。駆け足になる。
途端に足首に痛みが走り、眼前に地面が迫ってきた。
地面に手を着こうとしたが顎をぶつけた。
落ち葉に隠れた木の根に足を引っかけたみたいだ。
起き上がれない。
舌を噛まなかったのは幸運だった。
顎を擦りむいただけ。
だが、立ち上がる気力は出ない。
「なんでこんな目に。痛い、喉が渇いた、どうなってんだよ」
そのときガサリと草をゆらすような大きな音がした。
体がこわばる。
熊、猪。
獣たちが頭の中をすごい勢いで暴れ回る。
熊に襲われて生きたまま喰われる想像を二周した。
そして何もいないことに気づく。
「なんなんだよ。理不尽すぎるだろ。何か悪いことしたか!」
情けなくて悔しくて涙が出そうになる。
突然、スマホから軽快な着信音が鳴り響いた。
助かった。
右手のスマホを見つめる。
画面を見た時、どうしようもないため息があふれた。
[18:00 ユキを塾に送迎]
着信かと思った。救いの声かと。
……ただのリマインダーだった。
どうやら私はまめな男らしい。
自嘲的に笑って気持ちを落ち着ける。
18時か。
そろそろ日が暮れる。
自分に鞭を打って立ち上がる。
段々と足元が歩きやすくなり、木々の密度が薄くなってきた。
国道にでも出られるかもしれない。
あたりが薄暗くなり見えにくくなってきたころ、そこに辿り着いた。
木々の隙間から、それは唐突に現れた。
崩れかけた屋根。傾いた柱。
……だが戸口が、異様に小さい。
子どもの背丈ほどしかない引き戸が、いくつも並んでいる。
目の前のそれは、家のようで家ではなかった。
屋根は低く、壁は崩れ落ちている。
床は畳三畳ほど。
息苦しいほど狭い。
どこかで見たことのあるはずの「人の住処」が、まるで自分の記憶にあるサイズと違っていた。
胸の奥がざわつく。
「なんだよ、ここ……。落ち着け、大丈夫。」
声が震えた。深く息を吐いて目を凝らす。
よく見ると家々は苔に覆われ、屋根は沈み、戸口だけがぽっかり口を開けている。
なぜか、人が覗いている錯覚すらした。
押し殺してきた理性が、一気に決壊する。
「……怖い」
足がすくみ、膝から崩れ落ちる。
心臓は暴れる。
呼吸は掴めない。
ただ声だけが、森に吸い込まれていった。




