14
「生まれてこなければよかったのよ……」
ビクッと身体を跳ね上げ目を開くと辺りは真っ暗だった。
起き上がり濡れた目元を拭う。
(……行こう)
やけに重く感じる身体に小さく息を吐き、ベッドから降りていつもの身なりになると西の牢に向かった。
巡回している兵士に気をつけながら牢の中を覗き込んだ俺は目を見開いた。
ベッドに横たわっているはずのベルナルドがいない。
一瞬にして血の気が引いた。
(まさか、別の牢屋に……っっ!)
小窓から離れようとした瞬間、何かに左手首を掴まれた。悲鳴を上げそうになった俺は咄嗟に右手で口元を押さえた。見ると牢の中から伸びた真っ白な手が俺の手首を掴んでいた。まさか……と思い、おそるおそる中を覗くとすぐ傍にこっちを見上げてるベルナルドの姿があった。初めてベルナルドを間近で見た俺は眉を寄せた。ベルナルドの目の下に薄っすらと隈が出来ていて、心なしか顔色も良くなかった。俺の手首を掴んでいる手も冷たい。
「だい……じょぶか?」
思わず声を掛けるとベルナルドが一瞬目を見開き、そして静かに「……ああ」と酷く疲れた声を漏らした。
小さな静寂が落ちる。
「……あ、あのさ、手を離し……ッ!」
巡回している兵士に見つかってしまう、と手を引こうとしたが逆に思いっきり引っ張られ鉄格子に額を思いっきりぶつけた。あまりの痛さに顔を顰める。
「なに……ッ!」
ベルナルドの行動に苛立ち睨もうとした瞬間、指にぬめる感触と共に激痛が走った。
「……ッッ!」
思いっきり手を引くとすんなりと抜け、見ると薬指の付け根に血が滲んでいた。ワケが分からずベルナルドを見下ろすと、ベルナルドも驚いた顔でこっちを見上げていた。よく見るとベルナルドの唇に僅かに血の痕がついている。
(まさか、こいつ……俺の指を噛んだのか?)
なんで?と混乱する俺の耳に砂利を踏む微かな足音が聞こえ、慌てて鞄から薬草を取り出し牢の中に投げ入れると逃げるようにその場を離れた。
部屋に戻った俺は備え付けの薬箱から傷薬を取り出し、水で消毒した傷口に塗り包帯を巻いた。ずれないよう手の甲にも巻いたら大袈裟に見えてしまった。
(絆創膏があれば良かったんだが……)
いや、あったとしても指の付け根だから貼るのが大変だ。鏡を覗き込むと案の定鉄格子にぶつけた部分…額の左側が青くなっていた。どうせ気に留める人なんていない。治るまで放置だ。
(……それにしても、なんでこんなことを?)
寝巻に着替えベッドに横たわった俺は左手の薬指を見た。傷がズキズキと痛む。
(なにかあったのか?)
不意に脳裏に浮かんだ……小説の内容。
(……でも、アレが起きるのはもっと先のはずだ)
俺はかぶりをふり痛む薬指を握り締めて硬く目を瞑った。
ガシャンッ!と食器の割れる音と共に、背後から聞こえた侍女たちの短い悲鳴。
「……っっ!」
テーブルの縁に思いっきり胸を打ち付け一瞬息が詰まった。倒れたティーカップからお茶が零れ、真っ白なテーブルクロスに茶色の染みが広がっていく。俺からは見えないがテーブルから落ちた食器が床の上で粉々に砕け散っているだろう。
「ハッ……」
テーブルに這いつくばるように前のめりになった俺は、目の前の男……ルシウスを見上げた。ルシウスは俺の左手首を掴んだまま俺を静かに見下ろしていた。感情の読めない赤い目に背筋が震えた。
ベルナルドに指を噛まれてから三日後、ルシウスに呼ばれた。アイザックは俺の額のアザに気付き一瞬顔を顰めたが、特に触れず黙って俺をルシウスの元へと連れて行った。
そしていつものように席に着こうとした……その時。
気付いたときには俺はテーブルに突っ伏し、ルシウスに左手首を掴まれていた。
不意にルシウスの左手が俺のほうに伸びてきた。俺は恐怖で目を反らすことが出来なかった。指が俺の額のアザに触れて、その冷たさに思わず肩が跳ねた。指がゆっくりとアザを撫でる。痛みはなかったが次に何が起きるのか分からず、恐怖で歯がカチカチと鳴った。
アザを撫でたルシウスは手を引き、今度は俺の左手首を掴んでいた右手を滑らせ、包帯が巻かれた薬指の付け根を親指と人差し指で挟んだ。手を引きたかったが身体が硬直して動かなかった。心臓が早鐘を打ち、「ハッ……ハッ……」と呼吸が浅くなる。
ルシウスは何かを確かめるかのように親指の腹で俺の薬指の付け根を撫でた。俺は指を折られるのではないかという恐怖に顔を引き攣らせ涙を浮かべた。
「部屋に戻せ」
ルシウスが俺の手を離してそう言った。無表情のアイザックが目に見えて動揺しながら俺を促す。俺は震える足を叱咤しルシウスから逃げるように温室を出て行った。