きくちゃんが教えてくれたこと
「おばあちゃん、戦時中の大変だったこと、色々教えて」
ノートを開きながらそう尋ねるのは、小学四年生の娘。『祖父母から戦時中の話を聞く』という夏休みの宿題の為、今日は郊外にある実家に来ていた。
「大変なことねえ」
三角に切られた赤い西瓜が、お行儀良く整列する白い皿。母はそれを座卓に置くと、座布団の上によいしょと腰を下ろした。
「うん。爆弾が落ちてきたとか、食べる物がなかったとか」
「特になかったよ。この辺りは空襲もないし、畑やってたから食べもんにも困らなかったしね。お父ちゃんも身体が弱かったから、戦争に行かんで済んだし」
「そうなの? ……困ったなあ。出来るだけ大変だったことを聞いてきてくださいって言われたのに」
眉を寄せうーんと唇を尖らせる孫に、祖母も同じ顔で腕組みをする。
「うーん、やっぱしなあんもないねえ。この辺では逆に学童疎開を受け入れてたくらいだから」
「学童疎開?」
「うん。空襲に遭いやすい都市部の子供達が、田舎へ避難してくるの」
「あ、授業で少し聞いたかも」
「和香と同じくらいの小さい子達が、親元を離れて知らない土地でよく頑張ってたよ。ばあちゃんもまだ子供だったから、その子らと仲良くすることくらいしか出来んかったけどね」
「ふうん」
「和香。せっかくだから、その話を教えてもらったら? 疎開した子達がどんな風に過ごしていたかとか」
「うん! 教えて、おばあちゃん」
母は私達の顔を見てにこりと笑うと、当時の『疎開っ子』達のことを話し始めた。畑仕事や、魚の捕り方を教えたこと。茱萸を取って一緒に食べたことなど。
「そうそう、一番仲良くなったのが、“きくちゃん” ていう一つ上の女の子でね。ばあちゃんも、色々なことを教わったんだよ」
この辺りで学童疎開を受け入れていた話は何度か聞いたことがあるが、母がその名前を口にしたのは初めてだ。ただ懐かしむのとは違う、何かを視る母の深い目の色に、私の好奇心がくすぐられる。娘の宿題であることも忘れ、ずいと身を乗り出した。
「きくちゃん? どんなことを教わったの?」
「……ああ、そういえば、美和子にも話したことがなかったね。なんとなく話しちゃいけない気がして。でも、もう話してもいいよね? 昭和は終わって、もう新しい時代になったんだし」
母は誰かに伺いを立てるようにそう言うと、冷たい麦茶を喉に流してから、ゆっくりと口を開く。
「きくちゃんはちょっとだけ不思議な子でね……すごく不思議なことを沢山教えてくれたんだ」
◇◇◇
『はい、芋のおだんご。早く食べんとなくなってしまうよ』
『……ありがとう』
それが初めて聞いた、きくちゃんの声だった。身体と同じで、細くて小さくて。耳を近付けて、よおく聴かないと聞こえないくらいの透明な声。
喋ってくれたことにも、おだんごを受け取ってくれたことにも、私はホッとしていた。きくちゃんは、一緒に疎開してきた都会の子供達とも、田舎の子供達ともほとんど話さず、いつも一人で離れた所に居たから。
あれは夏の真ん中だったか……ジージーと蝉が鳴く木の下で。おだんごを食べ終わるまで、黙って隣に座っていた私に、きくちゃんの方から名前と歳を教えてくれた。
『……私、 “きくよ” っていうの。国民学校の五年生で。家族からは、 “きくちゃん” て呼ばれているわ』
『あっ、あたしとおんなじ! 私も “きくち” だから、みんなに “きくちゃん” て呼ばれているの。名前は “かずこ” なんだけど、いっぱいおるから。きくちゃん同士だねえ』
そう言うと親近感を抱いてくれたのか、白い頬っぺたを少しだけ赤くしながら、はにかんでくれた。
お互いにきくちゃんと呼び合うようになったその日から、私達は自然と仲良くなった。きくちゃんは相変わらず他の子とは距離を置いていたけれど、私とだけは喋ってくれたし、沢山笑ってくれた。
蝉の声がどんどん遠ざかる、夏の終わり頃。
初めて話をしたあの木の下に並んで座っていた時、きくちゃんがふと呟くように言った。
『私ね……ちょっと変わっているから。なるべく人と話さないようにしているの。母さんからも、そうしなさいって言われていて』
『そうなの?』
『うん。前にね、色々話しすぎて、友達から非国民て言われたことがあるの。……非国民なんかじゃないのに』
『何を話したの?』
『夢で見たこと。私、小さい頃から、不思議な夢を見るの。たとえば、お隣のおばさんが自転車で転んで大怪我する夢とか、向かいのお嫁さんから双子が生まれるけど一人が死んじゃう夢とか。ほとんどが悪いことで、それが全部本当になるの。日付も分かるのよ』
『へえ! すごいねえ! あたしなんか、甘いお汁粉や西瓜の夢しか見んよ。食べる前に全部消えちゃうけどね』
ふふっと声を上げて笑うきくちゃんに、私も楽しくなってふふっと笑った。
ちょっと不思議なきくちゃんの、すごく不思議な話。信じるも信じないも何もなくて、渇いた喉に水を送るみたいに、すっと吸い込まれていく。私の反応に安心したのか、きくちゃんはその先を続けてくれた。
『戦争が始まってからも、いろんな夢を見るの。なかでも一番繰り返し見る夢は……』
きくちゃんは少し間を置き、今までで一番小さな声で囁く。
『誰にも言わないって約束してくれる?』
お雛様みたいな綺麗な顔に浮かぶ、真剣な目。なんだか怖いなと思いながらも、好奇心の方が勝っていた私は、『うん』と深く頷き、きくちゃんの口元に自分から耳を寄せた。
『……来年の八月十五日にね、日本は戦争に負けるの。それで、その少し前の六日と九日にね、新型の爆弾が日本に落ちる』
思わず『ええっ!』と大声を上げてしまった私を、きくちゃんはしっと制した。
大好きなお汁粉も西瓜も我慢しているのに。負けちゃうなんて悔しいな。
……空襲も経験していない、身内に兵に取られた者も戦死者もおらず、比較的食料にも恵まれていた私は、呑気にそんなことを考えていた。
『きのこみたいな煙が出る、すごく怖い爆弾でね。熱と光が、人を町ごと熔かしてしまう。全部熔かした後に、気味の悪い黒い雨が降って、それを浴びた人もみんな血を吐いて倒れていくの。毒が残るから、しばらくは住めなくなる』
『……どこに? 日本のどこに落ちるの? まさか、この辺じゃないよね?』
きくちゃんはぶんぶんと首を振る。
『うんと遠くよ。六日が広島市。九日が長崎市。どっちも大勢の人が亡くなる』
ひろしま……広島……!
『ばあちゃんが、母ちゃんの方のばあちゃんが、広島市におる! おじさんも、おばさんも……従姉妹のサワちゃんやトワちゃん、この間生まれたばかりの赤ちゃんも』
『そう……なら広島を出た方がいいけど……きっと信じてくれないよね。こんなこと言ったって、どうせ間諜か非国民て言われるに決まってる。あの時……あの時だって、叱られるばかりで何も信じてもらえなかったもん』
『でも……黙っているせいでみんなが死んじゃったら……!』
『仕方ないわ。視たらいけないものを勝手に視ているんだから。本当は、自分の中にしまっておかなきゃいけないことなの。それなのに……なんでまた話しちゃったんだろう。なんできくちゃんには話しちゃったんだろう。ごめんね……ごめんなさい』
私は首を横に振るしか出来なかった。きくちゃんが悪い訳じゃない。興味本位で聞いてしまったのは自分なのだから。
まだ、どこか遠いことのように感じていた戦争。それが大切な人の命を奪うかもしれないという恐怖に、初めて直面していた。
その夜、布団に入っても、私はなかなか寝つけずにいた。
……家族で広島に行ったのは、まだ戦争が始まる前の夏休みのこと。ばあちゃんが切ってくれた西瓜をみんなで食べて、庭で種を飛ばしあいっこした後は、線香花火をした。夜はばあちゃんと従姉妹達と蚊帳の中ではしゃいで、母ちゃんにうるさいって怒られて大笑いしたっけ。
おじさんは頼めば何回でも肩車してくれて、おばさんは綺麗な布で、子供達にお揃いのワンピースやお手玉を作ってくれた。
面白いばあちゃんも、岩みたいに大きなおじさんも、優しいおばさんも、大好きな従姉妹達も……まだ会っていない、絶対に可愛い赤ちゃんも。みんなみんな熔けていなくなっちゃうなんて……
私は布団から跳ね起きると、机の引き出しから宝箱を取り出した。広島からの年賀状や手紙、おばさんのお手玉や、サワちゃん達が描いてくれた絵や折り鶴。
月明かりが照らす薄暗い部屋の中で、何度も何度もそれを出し入れしては眺めていた。
『和子、どしたん? 寝れんの?』
襖が開いて、隣の部屋から母ちゃんが顔を出す。たまに出る、広島のみんなと同じ懐かしい喋り方に、目から涙がどっと溢れた。
『母ちゃん、どうしよう……みんなが……みんなが……』
もう、間諜でも非国民でも構わなかった。捕まって牢屋に入れられても、みんなを助けられるなら何でもいいと。
きくちゃんが教えてくれたことを話す私を、母ちゃんは咎めることもせず、黙って耳を傾けてくれていた。泣きじゃくる背中を擦り続けてくれた手は、ただただ優しくて温かくて。
────信じるも信じないも、母ちゃんは何も言わなかった。
『この話は、きくちゃんと和子と母ちゃん。三人だけの秘密ね。他の誰にも言ったらいけんよ』と言っただけ。
それから何日もかけて、母ちゃんは長い手紙をしたため、広島のばあちゃん家へ送った。
きくちゃんは他にも色々なことを教えてくれた。聞くのは怖かったけど、それ以上に私は知りたかったから。そして、全部が教えてくれた通りに起こってしまった。
次の年の三月には東京の下町で大きな空襲があり、五月には疎開っ子達の家がある横浜でも、大きな空襲があった。当たったとか、本当になったとか……そういう驚きは何もなくて。ただ、八月のことばかりを案じていた。
その少し後、六月に入ってすぐ、広島からばあちゃん達が、家へ疎開して来た。いつまでかは決めていない。おじさんの仕事が見つかるまで居てくれると聞いて、涙が出る程嬉しかった。おじさんだけはまだ広島に残っていたけれど、七月の半ばには神奈川へ来てくれてホッとした。
八月六日には広島に、九日には長崎に、恐ろしい新型爆弾が落ちた。新聞を手にした大人達は、震えながら抱き合っていて。ばあちゃんもおばさんも、泣きながら何度も何度も『和ちゃんありがとう』と言ってくれた。私じゃなくてきくちゃんのおかげだと言えば、ばあちゃんは仏壇に手を合わせながら、口の中でお礼を言っていた。
八月十五日、ラジオ一つで呆気なく終戦が告げられた日の夜。目が冴えて何度も寝返りを打つ私の元へ、きくちゃんがやって来た。
『……きくちゃん!』
『きくちゃん』
身体を起こし、手をしっかりと握り合う。
『ありがとう、きくちゃん。きくちゃんのお陰で、ばあちゃん達が助かったわ』
『ううん。きくちゃんが私を信じてくれたから。大事な人達を助けられて、本当によかった。あの時は誰も信じてくれなかったから……だから、すごく嬉しかったの。ありがとう、きくちゃん』
“ あの時 ”
それはきくちゃんの命を一瞬で奪ったという、悲しい出来事だった。
学校の帰り道で機銃掃射に遭う夢を見たきくちゃんは、別の道から帰ろうと必死に友達に訴えたらしい。だけど非国民と苛められていたきくちゃんの言葉になど、誰も耳を貸さず……結局、最後まで救おうとした彼女を含め、七人もの幼い命が犠牲となったのだ。
何故きくちゃんの魂が、他の児童達にくっついて此処へ疎開してきたのかは分からない。もしかしたら、私の “魂を視る” 力が、彼女の “未来を視る” 力を引き寄せたのかもしれない。せっかく未来が視えていたのに、誰も救えなかったという未練も。
そして広島のばあちゃんも、私と同じく “視える” 人だったから。母が手紙になんと書いたかは知らないけれど、私の話を信じ、生まれ育った故郷を後にする決断をしてくれたのだと思う。
◇◇◇
グラスの氷が、母の手の中でカラリと音を立てる。母は薄まったそれをごくごくと飲むと、ふうと息を吐いた。
「きくちゃんはその後どうなったの?」
和香の問いに、母はにこりと微笑いながら答える。
「綺麗なお空へ昇ったよ。にこにこ笑いながらね」
「寂しくなかった?」
「ちょっとだけね。でも、いつも胸にいるから。それに……」
祖母と孫は、よく似た顔を同時に庭へ向ける。
「おばあちゃん、もしかして、あの子がきくちゃん?」
「そうだよ。毎年八月十五日になると、こうして会いに来てくれるんだ。……きくちゃん、いらっしゃい。みんなで一緒に西瓜を食べよう」
母は自分の隣に座布団を用意すると、ぽんと叩きながら誰かを手招きする。二人と違い、私には何も視えないけれど、温かな何かをそこに感じた。
『きくちゃん』の前に一番大きな西瓜を置くと、母も一切れ手に取り、塩をパラパラとかける。口を大きく開け、真っ赤な天辺をがぶりと噛ると、顔中に笑みを浮かべて言った。
「ああ、甘いねえ。甘くて本当に美味しい。西瓜をお腹いっぱい食べられるなんて。いい時代になったねえ」
顎に垂れた果汁を、子供みたいな仕草で拭う母。私も和香もごくりと唾を飲み込み、瑞々しい西瓜を手に取った。
扇風機の羽根が回る音と、西瓜を夢中で噛る音だけが響く和室。
シャクシャクシャクシャク。
それは蝉の合唱にも風鈴にも花火にも負けない、幸せな夏の音色だった。
ありがとうございました。
※戦時中、西瓜は作付け禁止作物でした。
(芋、麦、根菜、落花生など、主食の足しになる物を作る為)
※和子の母が広島へ送った手紙ですが、私信は検閲がなかったという記録を元に書いております。