嫉妬心、の、手放しかた。
誤字報告!ありがとうございました!!!
ええ、御休所 じゃ、なんか、「こちらで休憩どうぞ~!」みたいだし
字面がちがうぞ、と……。
調べても良かったんですが、
あえて、「指摘してくださるかたがいらっしゃると嬉しいな~(*^^*)」と、思ってのことでした。
こういう話だからこそ、
私はワタシのアホさかげんを全快……じゃなかった、全開にしてゆきたいのです。
嫉妬心、嫉妬の苦しみを抱えたときに、それを「ダメなことだ」「みにくい感情だ」なんて思い込むから、自己否定感が余計に強まって、「こんな気持ちにさせられる」と、怨みのようなものが強まると思うんですよ。
子どもの頃からの「刷り込み」もよくない気がします。
白雪姫に「嫉妬した」継母が~とか。葵の上に「嫉妬した」六条の御息所(漢字が違うような気がします……これじゃ、休憩所みたいだ( ̄□ ̄;)!!ろくじょうのみやすどころ。源氏物語です!)
子どもが手に取るような「絵本」でも、
嫉妬した、から、頑張って今があるぜい!もう良いのさ♪的なカッコいいイケてるキャラの話がいっぱい刷り込まれていたら良かったのになぁ、と思いませんか?
大事なのは、「嫉妬」という感情を、どういう行動に移していくのか。そのはずなのに、
嫉妬は恥ずかしい感情だ、みたいな「百害あって一利なし」の「ウンコみたいな思い込み」
があるせいで、多くの人が不必要に苦しんで、かえって感情の処理を難しくしている。なかには、間違えてしまう人もいる気がします。
嫉妬なんてなぁ、
犬や猫でも抱くレベルの、ナチュラルな感情なんだよ!
発達段階で、2歳とか3歳とかそんな、汚れもない澄んだ瞳をした子どもでも抱くようになる、ものすごく普通の情動なんですよ。
とっても雑なくくりかたをしてしまえば、あのこが好き……☆というのと同じレベルの、素朴で、人間(生き物)らしくて、ごくフツーの感情、なんですよ!
嫉妬心は、可愛いレベルなら、ちょっとくらいあったほうがむしろ親しみやすくて魅力的かもしれん、その程度の話だと思います。本来は。
もちろん、その感情が、「どこまで強くなりやすいか」は個人差がありますし、「切り替えが上手くやれるかどうか」も個人差がありますが、
むしろ、「嫉妬なんかしない人」というのは、
●自分はどこをとっても誰にも負けないという意識がある(本質的にありえないことなので、そういう人は、己を客観視できていないか、自分に都合のいい現実しか見ないようにしているだけだ、と思われます)
●仙人レベルで、俗世から離れている、解脱している。ハイレベルの宗教家、よくも悪くも、もはや、恋愛の喜びや性の悦楽や食の楽しみや社会的な達成感に基づく充実感など、よくも悪くも俗っぽい楽しみからは遠ざかっていると思われます。
そんなことないよ!というひとは、たぶん、嫉妬しなくなったというのではなく、
①嫉妬する自分を認めたくないあまりに、自分に嘘をついている
はたまた、
②切り替えが超絶上手になっているので意識に上りにくくなっている
だけ!!!と思います。
●自分が関心があるものしか関心を持たない、極端なタイプ。
もあるかもしれませんね。これは才能とも言えますが、言うまでもなく、よほど突き抜けた成果を出して一芸で認められない限り、社会生活は難しくなりがち、でしょう。
一番可能性が高いパターン
◯印象が悪くなりたくないので、嫉妬しませんという顔をしている
◯嫉妬するなんて認めたくないから、否認しているだけ(嫉妬は醜いという思い込み、刷り込みの影響)
だと思うんですよね。ものすごく大ざっぱに言えば、
「私は嫉妬なんてしません」なんて、そんなに素晴らしいとも思えませんし、そんな状況を羨む必要なんてないと思います。という話です。
切り替え上手になる、というのは大事かもしれませんが、それは嫉妬するしないの話ではなくて「感情コントロール」の「スキル」の話ではないでしょうか?
だから、「嫉妬心を抱いてしまうこと」自体は、なんにも気にすることなんてないと思います(*^^*)
つらいし、苦しいですけれど、そんな自分は、
(ああ、私は現実を素直に受けとめることができる、他人に関心を抱くことも、羨ましいって思えるくらい他人の良さを見つけることもできるからこそ、こんな気持ちになれるんだ)と
認めてあげる「べき」だ!とさえ思います。
そして、強い感情を感じたら、「とりあえず、いったん、離れてみる」がおすすめです。
情報を遮断するんですよ。それは「逃げ」じゃない。
「自分自身の体勢を立て直すため」の「勇気ある戦略的撤退」なのだよ!!!
……やることは同じだとしても、どのように受けとめるか、気持ちは大事だと思います。
戦略的撤退だったら、自分自身の力を取り戻してレベルアップをはかってから再トライも可能ですよね?そっちのほうが賢い!と思いませんか(笑)
人を羨む気持ちも、ねたんで苦しくなることも、恥ずかしいことでもなんでもないナチュラルなことなのだから、けっして、自分を責めない。
その上で、気分転換をはかる。あるいは、それを「なにかを頑張る」エネルギーに転換したら、もっと輝ける!今よりもすてきな自分になってやるんだ!と、
負けず嫌い根性を自分の糧にする。
「嫉妬や妬みを、昇華して、“かがやき”へと変えるんだ」
そんな風に、自分を認めてあげるのです。
そうしたら大丈夫。
きっと、本来の自分らしく、あなたらしく、キレイに笑える日が来るからーー
そう思うのです。
ねたみ、そねみ。なに一つ恥じることなんてない。それらはすべて、身の回りの自分以外の誰かに関心を持ち、見つめることができる、その良さを見つけることができるからこそ起こる自然な反応だし、
感情が高ぶるのも、情が深くて感情豊かだから。
大切なのは、感情の豊かさや情の濃さは、諸刃の剣であり、その情緒が豊かである人ほどに、「感情をコントロールする能力、スキルレベル」は高いものが必要になるんだ!と自覚すること。
食への関心が希薄な人が、ダイエットのために食事をコントロールする難易度と、
美味しいものを食べる喜びを知る、食べるのが大好きな人が、食事をコントロール去る難易度とでは当然違うように、
情緒が豊かである人ほど、自分の感情を自覚して、認めて、それがマイナスな方向に行かないように、豊かさの「プラスの側面」がいかされるように調整していくことは、努力が必要なんだってこと。
けれども、それは意識づけ、スキルだと思います。経験や慣れもあるのかも。
そうして、乗り越えたさきでは、
ねたみ、そねみの苦しみを知る人ほどに、人のいたみに寄り添って癒すことができる、人間的な心の豊かさを得ることができるようにもなるし、
まして、小説という創作活動においては、人の心の深みを知ることは強味となるのではないかーーと、思うのです。
このエッセイを書いたきっかけ。
たまたま、本当にあった怖い話というもので、嫉妬心から恐ろしい嫌がらせをしてきた人の話を読みました。確かに、無意識に自慢話をしてしまったとき、相手の気持ちや反応は分からないし、怖いとも思いました。
が、同時に、人を羨み苦しむ側の気持ちも、かなりリアルに想像できる堀田としては、シンプルに「気持ちが悪い」とも思えませんでした。
もちろん、それは許してはならないことです。
また、嫉妬心から、相手を引きずり下ろすような行動に出ることはーーどう転んでも、賢いやりかたではない、「失策」であることは明らかです。もし「成功」して、その場の気持ちが晴れたとしても、です。その行為が丸裸にされたとき、失う代償はけっして軽くはすみませんよね。いつまでも残ります。
モラルの問題もありますが、「どんな気持ちを抱えたとしても、やらないほうがいいこと」なのは明らかだ、ということは間違いがありませんよね?
さらに言えば、自尊心が傷つくと思うんですよね。
嫉妬心から人を引きずり下ろそうとしたりするときって、自分が「良くなろう」という気持ちではありませんよね。そうして非建設的で、人から隠れなければならないような行動をとることで、仮に隠しとおせたとしても未来に禍根を残すような行動に出てしまったーー時点で、
その人の心のなかには、シミのようなものが残ってしまう気がするのですよ。
自分で自分を否定する感情と、斜に構えたような発想が、しみついてしまう。
たとえば、悔しかったり羨んだりしてツラくたって、その気持ちを受け止めて自分なりに前に進んでいる限り、恥ずかしいことなんてないんです。
嫉妬心は、ある面では、他者への関心の強さがあるからこそ生まれるものだと思います。相手が得られたものを「素晴らしいなぁ」「良いなぁ」と思えることも、見方を変えれば、「自分以外の誰かの優れたところや恵まれたところを、きちんと認識し、評価することができる」美点でもあると思うんですよ。
それが「嫉妬心」という感情の高まりに繋がるのも、その人の感性が鋭く、情が濃く、感情が発達しているからという側面もあるのかもしれませんよね。
問題は、「有り余った強いエネルギーが、コントロール不能に陥っている、そうして、周囲はもちろん自分自身さえも傷つけてしまうような状況」にある、といえるのではないでしょうか。
苦しみ続けてほしくない。
大事なのは、どういう行動に変えていくか、その部分のはずです。
自分で自分を不幸にする呪縛から、解放されて、幸せになってほしいなと考えて、なにか参考になると良いなぁ、と思い、このエッセイを書きました。
嫉妬はみにくいなんて否定せずに、まるごと優しく抱きしめるように受けとめたほうが、
みんな幸せな結果に繋がるような気がするんですよね。