53話 竜の谷の伝説
「二人とも辛いことを思い出させてすまない。ただ、それぞれの話を聞いて重要なことがわかった」
ロゼの言葉が私を二百年前から現在に引き戻す。
彼女は部室の本棚から百科事典を取り出した。
かなりの厚みがあるそれは専門書には及ばないが多くの事柄に関してそれなりの文字数を使い説明してある。私も何回か利用したことがあった。
両手で抱えても重さを感じる大辞典を机に置きロゼは手慣れた仕草で頁をめくった。
目当ての項目が見つかったのかその指が止まる。
「見てごらん」
空いている方の手でロゼが指差している部分に視線を移す。
そこには竜の谷と書いてあった。見たことは無いが確かアルとロゼの父親である辺境伯が管理している土地の筈だ。
「この場所は隣国サマルアとの国境に存在する。本当に深い谷で落ちたら翼でもない限り助からないと言われている」
「サマルアと……?」
「そうだ。今は長い橋がかけられていてそれを使って行き来している」
嘆きの谷が存在するお陰で境界の守護が出来ていると言ってもいい。ロゼの言葉に私は首を傾げた。
もし嘆きの谷が私の想定した場所に存在しているなら、二百年前にはそんなものはなかった。
サマルアとの国境は平地で大規模な森林と巨竜の棲む洞窟があった。だから人間は迂闊に近づこうとはしなかった。
私の死後に地形に変化があったのだろうか。事典の説明を読み進めていくと地震による地割れで出来たと書かれていた。
成程。しかし国境を分断する規模の谷の原因となった地震とは随分と恐ろしい。
巨竜ザッハークの翼を奪い高所から地に落とした時でさえそのようなことはなかったというのに。
そのような事を考えているとロゼがとんでもないことを言い出した。
「竜の谷は聖女エミヤが生み出したと言われている」
「は?」
突拍子もない話に思わず間抜けな声を発してしまう。
「矢張り違ったか」
「当たり前でしょう、私を何だと思っているのよ!」
横にいたアルまでそんなことを言い出すのでつい大声を上げてしまった。
確かに攻撃魔法で地面を穿ったりしたことはあるがそんな大規模な地形変動をした記憶はない。
そんなことが出来る力など二百年前の私でも持っていない。
自然現象以外で人為的にそのようなことが出来る存在なんてそれこそ神ぐらいだろう。
あるいはザッハーク級の力ある竜か。巨竜は罪を犯した神の成れの果てと言われていた。
私は確かに竜を倒すことが出来たが、それは彼らの弱点属性の魔法を使うことが出来たからだ。
全てにおいて竜の上位というわけではなく寧ろ殆どが劣っていて唯一光魔法だけで勝っていたに過ぎない。
「私にそんな能力はないし、そんなことをした記憶はないわ」
改めてロゼに宣言する。彼女はそれを否定しなかった。
「そうだろうね、先程の話にそういった事実は含まれていなかった。そんなことをする余裕もなさそうだった」
ただ伝承として竜の谷は聖女エミヤが生み出し、また生贄として身投げをした場所だと言われている。
そうロゼに淡々と言われ、私は誰がそんな大嘘を後世にまで伝えたのだと溜息を吐きながら嘆いた。




