3.青柳護の場合 1
萌葱から眼鏡販売完了のメールを受け取って小さく息をつく。
……これで少しは絡まれることも減るだろう。
萌葱から話を持ちかけられた時には、状況も分からず商談を仕掛けてくる頭の回らない人間だと思った。だが、話を聞いてみれば眼鏡をファッションとして確立することで特異性をなくしてしまうという趣旨は悪くなかった。
彼は苦境にあっても自分からは頼ってこない。
ならば、社会の在り方そのものを変えてしまえという発想は単純でいっそ小気味がいい。
……本当に彼はいつだって自分を守ることを考えないから、見ているこちらの方が気が気ではない。
かけている眼鏡の位置を微調整しながら苦笑して、ふと初めて彼に会った日のことを思い出した。
*
……彼と初めて会った時。
彼は大粒の雨が叩き付ける中、水たまりに頭を突っ込んでいた。
何日も雨が降り続いていた頃だった。
車に乗り込もうとしたら、土下座をしている少年がいた。
……警備の者は何をしているのか?
辺りを見回し、少し離れたところで傘をさしている青年と目が合った。
まだ水たまりの中に額を突っ込んだまま顔も上げない少年に見覚えはないが、青年の方には見覚えがあった。
たしか緑のどこかの家の従者だったはずだ。
俺の視線に気づいたらしく、青年はさらりと一礼をしてこちらに近づいてきた。
その動きに警備の者たちが警戒しないところを見ると、警備の者には話が通っているらしい。
「いったい何の真似だい?」
青年に問えば、地べたに這いつくばったままの少年がパッと顔を上げた。
その髪は珍しくもない翡翠色だったが、目の色が驚くほどに薄い。
透明な水晶に一滴だけ緑の絵の具を混ぜ込んだような、見たこともないほどに淡い色だった。
髪の色は使役獣の影響を受けて変化することもあるが、目の色は生来持つ魔力の量によって決まる。
この少年はおそらく、魔力がほとんどないのだろう。
「無礼を承知でお願いします。どうか、お時間をいただけないでしょうか」
いつから雨に打たれていたのか。蒼白な顔で、震える体で。濡れそぼったスーツの中で泳ぎそうな細い体の中で、目だけが何かの感情でぎらぎらと光っていた。
神も悪魔も信じない自分だけれど、その一瞬に感じた未知の魔物と対峙したような戦慄とも高揚ともつかない感覚を今も覚えている。
「……とりあえず、きみは立ちなさい。
何をするにしてもそんな体勢でできることなんて何もないよ」
こちらを見据えたままふらりと立ち上がった少年と、少年の従者らしい青年を見る。
どれだけ水分を含んでいるのか袖や裾からばたばたと水滴が流れ落ちるスーツは、生地はいいが仕立てが粗雑だ。まだ隣に立っている青年が着ているものの方が質がいい。
青年は少年に傘をさしかけることもなく片手に大きな荷物を持ったまま、少年の斜め後ろに控えている。
……見れば見るほど妙な主従だった。
突然現れた闖入者をどうしたものかと一瞬考えて、決断する。
「次の相手には遅れると伝えておいて」
配下の者に告げて、車のドアを開けさせる。
「きみが何をしたいのかはわからないけれど、まずは話をする態勢を整えようじゃないか」
先に車に入って片手で招けば、少年はそこで初めて不安そうに目をさまよわせて青年の方を見た。
「主はこのような姿なので、後日身なりを整えた上で伺わせていただければと思います」
「機会は一瞬だよ。当たり前に次があるなんて本当に思っているのかい?」
そう、これは単なる気まぐれだ。
少しばかり珍しくて興味を惹かれたに過ぎない。
アポイントも無しに突然土下座してくる相手など、本来なら歯牙にもかけず踏みつぶすだけだ。
晴れた日に服装を整えて現れて、それで俺の興味を惹けるとでも思っているのだろうか?
薄く笑って見せれば、少年は色の失せた唇をぐっと噛んで一歩を踏み出した。
青年はため息をついて、少年の後ろ襟をつかんで少年の歩みを止める。
「……失礼いたします」
車の中に半身だけ入ってきた青年は、革張りの座席の上に持っていた荷物から取り出した大きなゴミ袋を広げ始めた。
背もたれから足元の絨毯にまでゴミ袋を敷き詰めると、敷き詰めたものとは別のゴミ袋を出してきて口元を広げる。
「主、この袋の中に入れるだけ入ってください。こんな高級車の座面濡らしたら、張り替え費用だって出せないんですから」
青年の言葉に頷いて、胸から下をゴミ袋に包んだ少年が車に乗り込んでくる。
その後ろから青年が乗り込んできて車のドアは閉められた。
一気に車の中が雨の匂いに包まれる。
湿気を追い出すために軽い冷房がかけられているのだが、その微風にも少年は体を震わせる。
青年は取り出したバスタオルで小言も苦言もなくただ少年の髪から滴る水をぬぐっていく。重そうな上着を脱がせて新しく出したゴミ袋の中で絞り、乾いたバスタオルで震え続ける細い体を手際よく包む。
……この事態を予想していたような用意の良さだね。
次の訪問先の資料を読むのも忘れて奇妙な二人を眺める。
てきぱきと動く青年だが、自分が年若い主人を守らなければならないのだというような庇護欲や情があるようにも見えない。そもそも以前見た時には、彼の主は彼と同年代の人間だったはずだ。
一方で青年にされるがままになっている少年の方は、さっきからまばたきすらしていないんじゃないかと疑うくらい一心にこっちを見てきている。
どうしようもなく奇妙でちぐはぐな二人だ。
あまりに妙すぎて、あの頃常に抱えていた重いものの存在を一瞬とはいえ忘れてしまっていた。
*
……あの頃の俺は、ありていに言って腐っていた。
俺の生命線である彼女を、失いかけていたからだ。
幼少のころから常にともにあり、誰よりも信頼できる腹心であり、唯一心を預けられる恋人であり婚約者。
彼女自身、能力は高く周囲からの信頼も厚く、俺と彼女との関係は常に良好だった。
十九歳の時に、跡継ぎだった父親が青柳家から放逐されることになった。そのため、もうすでにいくつもの会社を経営していた自分が跡継ぎになることになった。
社長業と後継ぎの両立は息をつく間もないほどの忙しさだったが、『お前さんは完璧すぎてじじいの出る幕がないねえ』と冗談まじりに言われる程度には問題なく跡継ぎとしての責務を果たしていた。
人生はいつだって順風満帆。それが当たり前だったし、多少の逆境や困難くらいは自身の能力と周囲のサポートで苦もなく乗り越えられてきた。
彼女との関係を邪魔できるものなど何一つ存在しなかった。
……あの時までは。
二十二歳の時、彼女に病気が見つかった。
子宮に異常があり、子は望めないという。
彼女との間に子が望めないというのは正直に言えばショックだった。
だが、同性のパートナーを得ることも珍しくない青の一族だ。
子ができないというのなら養子を取ればいい。
彼女にもそう言い含め、表面上はそれで解決したかに見えた。
けれど、その数か月後。婚約を取りやめるようにと勧告を受けたのだ。
その理由は彼女の病気。
俺の次の跡取りには先代の血を受け継いだ者がふさわしいからだそうだ。馬鹿馬鹿しい。
先代の威光が大きいのは理解できるが、血筋で何が決まるというのか。
俺の子供など、先代に怒りを買って『ないもの』として扱われている両親の血も受け継ぐというのに。この家の人間は愚か者どもばかりか。
親戚衆の集まる会合で受けた勧告を俺はその場で撥ね付けた。
その日の会合は荒れたが、馬鹿馬鹿しい妄言はすべてねじ伏せ、勧告に賛同した人間は一人残らず黙らせた。
「申し訳ありません」
いつもより色の失せた顔で、彼女が謝る。
彼女が謝らなければならない理由などどこにもない。
強く彼女の手を握れば、触れた指先は冷たかった。
*
あれ以来表立った批判は消えた。だが、くすぶり続ける不満は青柳家直系の跡継ぎでありすでに個人資産も億を超えている俺ではなく、立場としては使用人である彼女に向かうことになった。
俺がいれば刃向かってはこないので可能な限り常に彼女のそばにいるようにしているが、仕事の都合上どうしても離れる時間はできてしまう。
俺の前では気丈にふるまうが、確実に疲弊していく彼女。
いっそのこと幹部どもを一掃してしまおうかとも考えたが、彼女自身に思いとどまるようにと言われてしまっては実行もできない。
彼女は明らかに無理をしているとわかる笑顔で『大丈夫』と繰り返すけれど……もう見ていられなかった。
*
「跡継ぎの座を捨てます」
先代の部屋を訪ねて言い放った俺に、先代は淡く苦笑を向けてきた。
「そうかい。……お前さんは最後まで助けを求めてはこなかったね」
……先代は、彼女を婚約者から降ろすように迫ってきた者たちに対して肯定も否定もしなかった。
動かず、ただ俺たちがどう動くのかを観察していたのを知っている。
「護は今まで自分が望んで手に入らないものなんてなかったろう。
お前さんは優秀だからね」
……優秀さなど。
彼女一人守ることもできない今の俺には、皮肉にしか聞こえない。
「だが、人生には自分の力だけではどうしようもない理不尽だってあらあな。
お前さんが跡継ぎを捨てると言うならそれでもいいさ。
ここからお前さんがどうしていくのかを楽しみにしているよ」
先代はくしゃりと崩れた笑顔を浮かべて言った。
「何を選ぼうがお前さんがかわいい孫であることは変わらないからね」
その言葉に、正座したまま強くこぶしを握り締めた。
……それならばなぜ、彼女を擁護する言葉ひとつだけでも発してくれなかったのか。
先代が一言、血筋など馬鹿馬鹿しいと言ってくれれば老害共も黙ったはずだ。彼女が無理をして痛々しい顔で笑う必要だってなかったはずだ。
……そう、思ってしまう自分に腹が立つ。
自分も人の上に立つ人間として、対立する意見が出た時にどちらかだけに肩入れをするわけにいかない状況があることは理解している。
それでもおそらく、俺が助けを請えば無下にはされなかっただろう。
それをしなかったのは、自分でなんとかできるはずだというプライドと先代に子ども扱いされたくないという意地だ。
……彼女を追い詰めてしまったのは他の誰でもない。俺自身だ。
情けない言葉が漏れ出さないように強く歯を食いしばって、俺はただ深く頭を下げた。
*
「跡継ぎを辞めてきたよ」
先代の部屋を出てネクタイを緩めつつ彼女に告げれば、彼女はこぼれ落ちそうなほどに目を見開いた。
「どうしてそんなことを!これから青柳家の実権を握ってやりたいことがたくさんあるとおっしゃっていたではありませんか」
確かにやりたいことはたくさんあったし、それをするための道筋も整えてはきた。けれど、そんなことは彼女と天秤にかけるまでもなく些末なことだ。
「もう決めたことだよ。先代に了承ももらってきた」
「あなたという方は……!」
何かを言いかけて、彼女は口を閉じた。
何かをこらえるように強く目を閉じると、長く息を吐いて俺を見上げてくる。
「私が……いたらなかったのですね」
「違う。俺の選択であり決定だ」
強く言い切ったが、彼女の視線はもう俺から離れてしまっていた。
*
……俺のしたことで彼女が手放しで喜ぶとは思っていなかったけれど。
それ以来、彼女との間に壁を感じるようになった。
話しかけても目は合わず、数か月が経った今では仕事の場以外笑顔すら消えてしまった。
話し合おうにも何が悪かったのかもわからない。
跡継ぎの座を捨てるという選択は、あの状況から彼女を守るためには最善だったと今でも自信を持って言い切れる。
けれど、決定的に何かを間違えてしまった気がしてならない。
彼女の笑顔を、ぬくもりをなくしてしまった俺は、陸に打ち上げられた魚や翼をもがれた鳥と同じだ。
彼女の存在を感じられなければ、光も希望も感じ取れない。
このところずっと正体のわからない痛みが胸元に常にあり、視界はゆがんで息もうまく吸えない。
……けれど、不調など一片も悟らせないように笑う。
これは自分の選んだ結果だ。
何があろうとも、無様をさらしはしない。




