83.大切なものを買いに
翡翠視点
「本当に気を付けてね。青藤さんもくれぐれもよろしくお願いします」
最後まで心配そうな顔をした緑川様に手を振って、社用車に乗り込みます。
今日は仕事ではなく完全に個人的な用事です。
ですが、護衛を付けることと車を使うことだけはどうしても承諾してほしいと言われて、今に至ります。
社用車の後部座席、わたしの隣に座っているのはわたし専属の護衛だと紹介された青藤様です。
ぴんと伸びた背すじが美しい、ショートカットの似合う凛とした雰囲気の女性です。
群衆に専属の護衛なんて、不相応にもほどがあります。
そう言ったのですが、聞き入れてはもらえませんでした。
それどころか、お願いだから護衛を付けさせてほしいと両手をにぎって懇願されました。必死な顔が間近に迫ってくらくらしました。
この状況で断れる人間がいったい何人いるのでしょうか。……少なくともわたしには無理でした。
『群衆に運転手付きの車なんて贅沢なんだよ』と、ため息まじりに言っていた彼の気持ちが身に染みてわかります。
青藤様には本来ならお休みのところを出勤させてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
不相応な扱いに身がすくみそうになりますが、なんとかこらえます。
これくらいのことで弱気になっていてはいけません。
……今日は、ケンカを買いに行くのですから。
*
緑川様の名前で貸し切りにしていただいたお店の前に車が止まります。
こちらは、服飾から化粧品までそろう品のいいセレクトショップだそうです。お店の外観からすでに高級そうな雰囲気が漂っています。
小さく息を吐いて、車から降りました。
青藤様がお店の入り口の扉を開いてくださいます。
「……ありがとうございます」
お礼を言って店内に入れば、猫のようにしなやかな動きでわたしの後ろについてきてくださいます。
「あら。本当に来ましたのね。よくも顔を出せたものですわね」
店に入るなり飛んできた言葉に、逃げ出したくなる気持ちを押しとどめます。
背後の青藤様が動こうとなさるのを感じて、一歩前に踏み出しました。
今日は、わたしが戦わなければならないのです。
萌葱様はあの日のような鮮やかなドレスではなく、色味を押さえたスーツ姿でした。
それでもあふれ出る、自信に裏打ちされた華やかな空気に美しい容姿。
……わたしには、何一つかなうところはありません。
それでも。緑川様のように、彼のように……背すじを伸ばしてまっすぐに萌葱様の目を見返します。
お腹の底まで息を吸い込んで、自分を奮い立たせます。
「以前売っていただいたケンカを……改めて買い取りにまいりました」
震えずに言えました。……うまく笑えているといいのですが。
萌葱様は、一瞬あっけにとられたような顔をした後、ぎらりと好戦的な表情で笑い返してこられました。
「あら。やっとその気になったっていうわけかしら?」
*
――授賞式の日、死ぬことを受け入れたあの時。
女子トイレの床に倒れ込んだままで、わたしはぱきんと何かが壊れる音を聞きました。
けれど、覚悟していた痛みも死も訪れず、ただ静かな時間だけが流れます。
そしてわたしは閉じていた目を開きました。
「……どうして、抵抗しないんですの」
萌葱様は、先ほどまでの激昂が嘘のように静かな声で言いました。
わたしはなぜか殺されてはいないようです。
スカートを踏みつけていた足もいつの間にか退けられています。
体を起こして立ち上がろうとして、右足首が痛むことに気が付きました。立ち上がるのはあきらめて、スカートを引き寄せてタイルの床の上に座ります。
「……抵抗する必要が……なかったからです……」
萌葱様を見上げながら答えれば、萌葱様の眉がキリキリとつり上がりました。
「まあ!本当にゴミらしい意見ですわね!一思いに消えてしまったらいかが?」
「そのつもりだったのですが……」
実際にあのまま踏みつけられていれば、今ごろわたしは死んでいたでしょう。
視線を下げれば萌葱様の細いハイヒールのかかとにヒビが入っているのが見えました。
先ほど聞こえた何かが壊れる音はおそらくこれだったのでしょう。
「本当に!どうしてあなたなんか!」
本当に悔しそうに萌葱様は叫んで歯を食いしばります。
その目がこぼれそうな涙できらきらと光っています。
……この方は『群衆なんてゴミだ』と言いながら、他の色付きの方々よりもずっとわたしを人間として扱ってくれています。
群衆など、邪魔なら会話などせずただ殺せばいいのです。
それなのに真っ向からぶつかって話しかけてくるこの方は、群衆を……少なくともわたしのことを対等に話ができる相手だと認めてくださっているのです。
言葉にトゲはありますが、それはわたしの立場を考えればむしろ当然です。見方を変えれば、それだけ緑川様のことを真剣に考え、心配なさっているということになります。
群衆に心を砕いてくださる緑川様は、色付きの中では異端です。
色付きの世界の中で傷を負いながら戦っているあの方には、緑川様自身を理解し支えてくださる方が必要です。
……それは、すぐに死ぬ群衆にはできないことです。
萌葱様は、群衆を人間として扱ってくださる方です。
そして、緑川様自身を大切に思ってくださっている方です。
わたしでは、すぐに死んであの方を悲しませてしまうでしょう。
まぶしいほどに自信と生命力にあふれたこの方なら、緑川様をきっと、支えて、守って、引っ張って行ってくれるでしょう。
わたしには……できないことです。
群衆であることを今ほど苦しいと思ったことはありません。
……ですが、あの方のことを想うのならば。わたし自身がどんなに離れがたく思っていてもここで消えるべきなのです。
「どうか……あの方をお願いします」
耐えがたい胸の痛みを押し潰しながら、萌葱様の目を見る勇気もなく、ただ深く頭を下げました。
「……馬鹿になさらないでくださる?どうしてわたくしがあなたごときの願いを叶えなくてはいけないのかしら」
しばらくの沈黙の後で萌葱様は言って、どこかから出した氷の矢で緑川様からいただいた髪飾りを射抜きました。
その衝撃に意識を失い、起きた時には緑川様が目の前にいたのです。
*
「普通、あれだけ言われれば反論してくるものですわ。
何も言わずに身を引くことが相手のためになるだなんて。
わたくしあなたみたいな女、大嫌いよ!」
「……はい。ありがとうございます」
お礼を言えば、萌葱様は馬鹿にされたと思われたようでした。
「この状況でお礼なんて、一体何のつもりかしら?」
「萌葱様がわたしを、一人の人間として見てくださっているからです」
最初から萌葱様はわたしのことを恋敵として認めてくださっていました。それを認められず、目と耳をふさいで逃げだしたのはわたしです。
「先日は……せっかく売っていただいたケンカを買いもせずに逃げ出してしまい、大変失礼いたしました」
震えないように、逃げ出さないように、緑川様と彼の顔を思い浮かべます。
怖くても、本当は強くなんかなくても、胸を張って笑うあのお二人のように。
わたしも目をそらさずに……笑顔を作ります。
「緑川様の隣は……どなたであっても譲れません」
緑川様と一緒にいたいのであれば、わたしも戦わなくてはいけないのです。
あきらめて逃げて、誰かが差し伸べてくれる手を待つだけでは、欲しいものは手に入らないと……萌葱様が教えてくださいました。
萌葱様はにらみつけるようにじっとわたしを見つめた後、緑川様からいただいた髪飾りに目を向けました。
「あの方の髪の色ね。意匠は勿忘草かしら。……あの方らしい選択だわ」
ふう、とため息をつくと、萌葱様はせいせいしたというように皮肉まじりに言いました。
「あなたごときが何を言ったところで、無意味でしたでしょう?
あれだけあの方の嫌がることをしたのですもの。
あなたがどんなに浅はかなことをしたとしても、あの方がわたくしに好意を持つことはありえませんわ。残念でしたわね」
胸を張って自信満々に、萌葱様はわたしを見下します。
「……やっぱりわざとだったんですね」
緑川様のことを少しでもご存じなら決して選ばないであろう、群衆を愚か者だと切り捨てる言動に、防がれるのがわかっている場面での私への攻撃。
殺すつもりならいくらでも機会はあったはずなのに。結局萌葱様は最初にわたしを突き飛ばした以上のことは何もなさっていないのです。
それに、緑川様が傷を負われた時の動揺と後悔の表情は、嘘には思えませんでした。
おこがましいかもしれませんが、萌葱様はわたしに発破をかけていたように思えるのです。
「わたくしはあなたの浅はかな思惑を潰したかっただけですわ」
「……わたしが死んだときには、どうかあの方をお願いします」
「わたくしにあなたのおこぼれを待てとおっしゃるの?ごめんこうむりますわ」
ふん、と鼻から息を吐いて萌葱さんは長い髪をふわりと後ろに払いました。
「わたくしは商談の場に私情を挟まないあの方が好きでしたの。
あんなに感情的なあの方には幻滅いたしましたのよ」
萌葱さんはとてもとても綺麗に笑いました。
『すみません』と謝るのも『ありがとうございます』とお礼を言うのも違う気がして、わたしは黙って頭を下げました。
*
「それで、本日はどんな御用向きかしら?」
「緑川様の隣に立つための、服装と化粧を選んでいただきたいのです」
「わざわざわたくしのところに来るなんて、あの方は何もおっしゃらなかったのかしら。もしかしたらとんでもなく流行遅れのものをわざとすすめるかもしれなくてよ?」
「お願いするのなら、わたしを……一人の人間として見てくださる方にお願いしたいと、わがままを言って来たんです。
緑川様は、萌葱様ならプライドにかけて最良のものを用意してくださると、おっしゃっていました」
緑川様はわたしがまた傷つけられるかもしれないことに関しては最後まで危惧していらっしゃいました。ですが、商売人としての能力に関しては一切の心配はいらないと、ため息まじりで教えてくださいました。
「まったくあの方は……どこまでも甘いんですから」
萌葱様は喜んでいるような困っているような笑みを浮かべて、小さくため息をつきました。
「あなたはあの方を緑川様と呼んでいるのね」
「はい……」
他人行儀に聞こえるかもしれませんが、わたしにとって緑川様は緑川様です。
きっとどれだけたっても名前を呼ぶことはできそうにありません。
「あの方はご自分の名前が嫌いですから、それでいいでしょうね。
自分を殺そうとした人間につけられた名前なんて、本当は全部捨ててしまいたかったのでしょうけど。
本当に……あんな扱いを受けて、殺しもせずに他人として商談を続けるだなんて考えられませんわ。わたくしならあれだけ強力な使役獣がいれば、事故に見せかけて殺させていますもの」
「……それはどういうことでしょうか」
聞き逃せない情報が色々とあるのですが。
思わず聞き返すと、
「あなたは大切な方のことを他人に聞いて、それをそのまま信じるのかしら?」
反対に聞き返されて言葉に詰まりました。
緑川様の深い部分にあるであろうお話を勝手に聞くのは……違う、気がします。
「……自分で聞きます」
「それがよろしいんじゃなくって?」
萌葱様はあごに指先を添えて小さく笑いました。
「お話はわかりましたわ。カモがネギを背負ってきたんですもの。破産するまで逃がしませんわよ?」
「使い道もないので望むところです」
萌葱様の目を見て、笑みを返します。
……手持ちで足りるといいのですが。
*
「どこまでいっても地味ですけれど……まあ、及第点ではなくて?」
そんな言葉とともに、紅筆が下ろされました。
鏡の中の自分を見ると、それほど時間もかけていないのにいつもより顔色がよく、目が大きく見えます。
仕事で使うスーツは薄い灰色と紺色が一着ずつ、普段用の服もいくつか選んでいただきました。
正直、スーツなんてどれも大差ないと思っていたのですが、丈や腰の絞りのある無しだけでも印象がかなり違います。内側に着るシャツの種類でも雰囲気が変わるので、同じスーツでも違って見えます。
色味を押さえたスーツに対して、普段着の方はどれも自分ではまず選ばない色やデザインばかりです。
ですが、実際に着てみれば服だけが主張しすぎて浮くこともなく、これなら抵抗なく着られそうです。
普段は黒や紺や灰色の無地の服ばかりなので、自分に淡いピンクやオレンジや小花柄が似合うとは思ってもいませんでした。
また、いつも使っているパソコンを持ち歩くためのバッグまで用意されています。
オレンジがかった茶色で一見派手そうに見えますが、シャープなデザインのためかスーツに合わせてみても意外なほどになじみます。
緑川様のおっしゃった通り、萌葱様にお任せすれば間違いないようです。
「もっと派手なものをすすめられるかと思っていました……」
今、化粧に使われたのと同じ化粧品が机の上に並べられていますが、下地にファンデーション、茶系のアイシャドーに頬紅と口紅が一本だけです。
つやつやした唇に緑から金色にグラデーションを描くアイメイクにゴージャスなつけまつげ。眉山の形まで計算されたようなフルメイクかつそれが違和感なく似合う萌葱様です。同じようなことをしろと言われても服や化粧に負けてしまうのではないかとひそかに思っていました。
「地味がごてごてと飾り立てても見苦しいだけですわよ。
人にはそれぞれに合った見せ方というものがありますのよ」
そもそもほとんど化粧もしていない人間に使いこなせまして?と、もっともなことを言われて素直に首を振ります。
「最後の仕上げはこちらですわ」
言いながら、店内の一角にある眼鏡コーナーに連れていかれます。
……そうです。眼鏡です。
緑川様しかかけているのを見たことがない眼鏡が、デザインや色も様々に並んでいます。
壁には眼鏡をかけたスーツ姿の男性の大きなポスターまで貼られています。
「あなたなら……これでしょうね」
渡されたのは、とろりとしたキャラメル色のフレームの眼鏡です。
この眼鏡のデザインはとてもかわいらしくて、それと同時に実際にかけてみると仕事もできそうに見えるのが不思議です。
「あの……これは?わたしは目は悪くないのですが……?」
「液晶画面からは目にとって有害な光が出ていることを知らないわけではないでしょう?
この眼鏡のレンズには有害なブルーライトを遮断する機能がありますのよ。色付きにとっては何の問題にもなりませんけれど、脆弱な群衆は対策を取った方がよろしいのではなくて?
特にあなたは画面を見ている時間が長いのでしょうしね」
眼鏡の位置を微調整してくださりながら萌葱様は綺麗に微笑みます。
「眼鏡をかけている人間の能力が低いだなんて風潮は、眼鏡がファッションアイテムとして定着すれば無粋になりますわ。
今は見下しているような人間も、流行になればあっという間に追随しますのよ。
先日青柳様とお話できたのは僥倖でしたわ。
眼鏡をファッションとして広めることに関しては、青柳様も賛同してくださいましたもの」
ほとんど連行状態だったあの状況下で、そんな話を切り出せることに純粋に驚きます。
「どんな状況であろうと、機会は活かしてこそですわ!
首尾よく青柳様にテストモデルを引き受けていただけましたのよ。
世界の十人に選ばれる知名度、影響力、そしてあのルックス!
青柳様が広告塔になってくだされば、損害賠償分なんて軽く取り返して大幅な利益が出ますわ!」
先ほどから気になっていたのですが、このポスターのモデルは青柳護様だったようです。
レンズの下側だけに枠がある銀縁眼鏡が青柳様の鋭利な容貌を引き立てています。眼鏡の横側……たしかテンプルというのでしたか……にも蔦を思わせる装飾がほどこされています。
ご本人が元から持つ魅力とあいまって、非常に印象的です。
萌葱様のおっしゃる通り青柳様の影響力も含めれば、眼鏡をファッションの一環として取り入れようとする方が出てきても不思議ではありません。
「あの方にも、あの野暮ったい眼鏡に飽きたらお越しになってと伝えてくださる?
今なら、青柳様モデルも取り置きできましてよ?」
そう言って萌葱様が取り出したのは、テンプル部分の特徴的な装飾はそのままで、レンズの上側にだけ枠がある眼鏡です。
レンズの形もポスターの中のものよりやわらかな曲線を描いていて……とても緑川様に似合いそうです。
……と、言うよりも、これは。緑川様のためにデザインされたものなのではないでしょうか。
驚きが声にならず、ただただ萌葱様を見上げれば、『お分かり?』というように萌葱様の唇の両端がきゅっと上がります。
……それは、緑川様を守ろうとする意志そのものです。
こんな、やり方もあるのだと。
知らなかった世界が開くのを感じます。
「……この眼鏡は、非売品ですか?」
「まさか!青柳様が許された方にならお売りしますわよ?」
それは……非売品と言われるよりずっと、青柳様と親しいことを強調する結果になりそうです。
「……かしこまりました。お伝えしておきます。
緑川様はきっと……喜んで買い換えられると思います」
緑川様はあまり表に出さないようにしていらっしゃいますが、青柳護様のファンです。
青柳様がお使いのメーカーの万年筆や、ネクタイピンなどをわざわざ取り寄せて使っていらっしゃいます。
青柳様がモデルをされている眼鏡など、喜ばないはずがありません。
「見ていなさい。眼鏡なんてあっという間に珍しくもなくなりますわ!
流行なんて、集団心理と情報操作でどうとでもなりますのよ」
堂々と言い切る萌葱様のあふれ出る自信に怖気づきそうになりますが、わたしも……がんばると決めたのです。
「わ、わたしも……負けません!」
何をどうすれば負けないことになるのかはわかりませんが、せめて気持ちだけでも、逃げずに……がんばるのです!
「……こんな、弱い生き物になんてなりたいとも思いませんけれど。
わたくし……あの方のあんな子どもみたいな笑顔なんて初めて見ましたのよ。
楽しくて仕方ないという顔であなたと話していた姿を見た時から、あの方にはあなたでなければいけないのだとわかりましたわ。
それなのに当の本人たちはうじうじぐだぐだと!
あなたもケンカを売られてあっさり引き下がってどうするんですの!
売られたケンカはきっちり買い取って十倍返しが鉄則でしてよ!」
……がんばろうとは決めましたが、さすがに十倍返しまではできそうにありません。口に出したら怒られそうなので……黙っておきます。
「あの方の隣に立つつもりなら堂々となさい。
納得なんてできませんけれど、あの方が選んだのはあなたなのですもの。
……あの方に恥をかかせたら承知しませんわよ!」
「……っ。はい!」
「あなたの場合、まずは姿勢ですわ。第一印象の八割は姿勢で決まりますのよ!
目線は常に相手の胸より上!猫背なんてもってのほかですわよ。こんな低いヒールでふらつくなんてありえませんわ!体幹を鍛えなさい!」
……その後、効果的なストレッチ法から取るべき栄養素まで多岐にわたる講義を受けることになりました。
やはり努力なくして綺麗は手に入らないようです。




