62.ひとつひとつ
緑川視点
ねんざは無理をすると癖になりやすいので、翡翠とともに外に出ないといけない案件は後日に予定を変更した。
少なくともこの三日間は足に負担がかかるようなことはしないように言い含めて、執務室に戻る。
仕事は一日休めば取り返すのに三日かかる。
翡翠のことは気になるし、もう少しそばにいたくもあったけれど仕事は仕事だ。
まとめられた資料を手に社用車に乗って視察に向かう。
何があろうと、日々積み重ねていくことでしか信用も業績も得ることはできない。
守りたいなら、まずはしなければならないことをすることだ。
息をついて意識を切り替える。
僕の行動に、社の業績も社員たちの生活もかかっている。
さあ、しっかりしないとね。
*
視察の後、遅めの昼食をはさんで二つほど商談をまとめた。
普段ならこの後は業務の改善計画案を練りつつ情報収集を兼ねた会食に出席するのだが、今日は五時過ぎに仕事を切り上げた。
付き従っていた秘書と従者たちは先に帰した。
護衛と運転手だけを伴って、僕は魔力専門医のところに来ている。
昔からある個人病院は、診療時間が終わる間際なので他に患者の姿はない。
靴を脱いで備え付けのスリッパに履き替えて、受付に向かう。
「いつもの検診です」
「はい。少々お待ちください」
待合室の椅子に座って、いくらもしないうちに名前を呼ばれた。
身長や体重、採血や視力検査などを済ませて診察室に入る。
「前回の検診から四十二日。仕事は忙しいのかね」
白衣を着て首から聴診器をぶら下げた先生が、検査結果を見ながら言う。
「おかげさまで、閑古鳥が鳴くようなことにはなっていませんよ。いつもぎりぎりの時間ですみません」
「患者を診るのは医師の仕事だから気にする必要はないよ。ただ、前回から時間があまり開くのはよくない」
「はい。すみません」
素直に謝る。継続して診察してもらっている先生には頭が上がらない。
「また視力が下がっているね。他に体に不具合は?」
「時々指先がしびれますが、それ以外は目立った変化はありません」
「足はどう?」
「変わりはありません」
スリッパと靴下を脱いで左足のふくらはぎの上までズボンをまくり上げた。
そこには足先からひざ下まで広範囲に変色してひきつれた痕が残っている。
「感覚は?」
「あります。痛みもありませんよ」
足の指を一本一本、足の甲から足首、ふくらはぎに至るまで感覚が残っているかをぐっと親指で押しながら確認される。
「……変化はないようだね。少しでも違和感が出たら忙しくても必ず診察を受けること」
「わかっていますよ」
来るたびに何度も繰り返されている言葉だ。
相変わらず僕のことをかけらも信用していない先生に苦笑する。
「それだけ無茶なことをしているという自覚を持ちなさい」
「わかっていますよ。……周平君を借りてもいいですか?」
先生の息子の名前を出すと、先生は少し考えた後でうなずいた。
「ああ。君で最後の患者だし構わないよ。……ほどほどにするように」
「それはあまり約束できませんが。迷惑はかけないようにします」
「そういうことを言っているんじゃないんだがね。
……次の検診はまた一か月後。必ず時間を取るように」
ため息をついて先生は念を押す。
*
医院の隣に建っている先生の自宅のチャイムを押すと、どたどたと家の奥から走ってくる足音が聞こえてきた。
「よ!卒業するとなかなか会わないな。お気に入りの子とはあいかわらずか?」
片手で玄関扉を開けて、あいさつもそこそこにニカッと笑ってくる。
短い髪をワックスで立たせているこの男は茜周平。この医院の跡取り息子だ。
学園時代、隣のクラスだった茜は魔力の感知能力が高く、僕の低すぎる魔力と使役獣の関係に気づいて入学早々向こうから声をかけてきた。
それ以来、群衆たちを強化するための研究に手を貸してくれている。
ついでに言うと、僕の群衆に対する執着を知った上で茶化してくる珍しい人間でもある。
「今朝告白したよ」
隠すようなことでもないのでさらりと言えば、茜は目を丸くした。
「おお?どういう風の吹き回しだ?とりあえずおめでとうって言えばいいか?」
「やっとスタートラインに立てたところだけどね」
それでも今までからすれば大きな一歩とは言えるかもしれない。
「いやいやまさかだなあ。パソコン抱えておまえのこと追いかけてた子だろ?……そりゃ、がんばらないとだな」
まあ入れよと家の中に引っ込む茜を追って、茜の部屋まで向かう。
「そうだね。だから試験データを確認しようと思ったんだよ」
「なーるほどな。こっちもそろそろ方針の話をしたいとこだったからちょうどいいわ」
茜は部屋の中で異彩を放つ胸のあたりまである大きな金庫を開けて、ファイリングされた紙の束を取り出した。
「ほいよ。これが今のところのデータだな」
ばさりと渡された臨床試験のデータを見ていく。
「……優位性は見られないね」
「だな。多少の耐性上昇は見られるけど、術に耐えられるほどじゃない」
僕たちは今、群衆に色付きの魔力を与えて魔力を増やすための試験をしている。ある程度魔力が増えれば、身体強化の術を直接かけても不具合が出ないだろうという目算だ。
魔力の少ない者が術を受けると、相手の魔力に耐えきれずに肉体が崩壊する。それは僕の体で実証済みだ。
……数年前、使役獣と契約したときに僕の体は使役獣からの加護に耐えられず、左足から壊死しかかった。
今は僕の魔力で耐えられる分だけの加護を与えてもらっているが、それでも使役獣の力が強すぎて体に不具合が出ている。
具体的には視力の低下に時折起こる末端のしびれ。
このまま進めば失明は確実で、体を動かせなくなる可能性も高い。
必要な量の魔力がなければ、術も加護も毒にしかならない。
「魔力も……定着はしていない、かな」
投与をやめると魔力量が減るのが顕著に数字に出ている。
「今のところな。濃度と頻度は変えていくつもりだけど、期待はできないっていう印象だな」
群衆たちはあまりにも簡単に死にすぎる。
寿命に関してはまだ手が出せないけれど、日常生活での死にやすさだけでも改善したい。
そのための基礎段階なのだが、年単位で試験と検証を繰り返してもまだ成果はまったくと言っていいほど出ていない。
「この方向からのアプローチは考え直した方がいいんじゃないか?」
がりがりと頭をかきながら茜が言う。
「もし魔力が定着しても全員に毎日術をかけ続けるわけにもいかないだろ」
「そうだね……」
群衆の数は膨大だ。毎日術をかけなおすのは現実的ではない。
やるなら効果が一定期間持続する術で、というのは当初からの方針だ。
だが、他の研究所に依頼している術の開発も手詰まり感がある。
効果持続型の術は、対象者の魔力を使って維持するという方式が一般的だ。術をかけるときに魔力をためておいてそれを維持に使うという電池方式も考案されたが、それだと結局術にかかる魔力が増えて群衆側の負担が増えるため採用はできなかった。
……やりたいことは明確なのに、それに至る道筋がわからない。
「まあ、他人の魔力を移植する方法のめどは付いたし、あっちには使えなくてもおまえの目の治療には使えるんじゃないか?」
「……そうだね。これなら他の魔力が弱い人間にも有効だろうしね」
笑うと、茜はほっとしたような顔をした。
……こうやってまた、目的とは違うものだけが増えていく。
「魔力の少ない色付きの治療に使うなら、色付き相手のデータを集めないといけないね」
「その辺りは他の医院とも連携してやろうと思ってる。最終的には最低でも百人単位で治験者集めないといけないからなあ」
「そこは若先生の手腕に期待だね。ちなみに先生は何か言ってきてないのかい?」
僕たちのやっていることを知っているだろうに、ちらりと苦言を言われることはあっても止められたことはない。
「親父は患者第一だから。治療の役に立つなら何も言わないな」
「先生らしいね」
「何も言わなさすぎてばれたら捕まるってわかってるのかどうか、いまいちわからないんだけどなあ」
「現行の法律では罪には問われないはずだよ」
「そんなもの群衆を強くしようとか考える馬鹿がいるって誰も考えてないからだろ。危険だってわかったら法改正なんかあっという間だぞ」
「それは知ってるよ」
カラーコンタクトとカツラを売り出したとき、ひと月もせずに規制がかかって販売中止に追い込まれたことがある。
護さんが手を貸してくれなければ、僕も僕を助けてくれた人たちも無事ではいられなかっただろう。
「普通は一回痛い目にあったら懲りるんだよ」
「馬鹿正直にやるのは危険だというのは学んだよ」
「……ほんっとうに!馬鹿につける薬ってどこにあるんだろうな!」
思いっ切り自分の頭を両手でかき回しつつ叫ぶから、せっかくセットしていた髪がぐしゃぐしゃになっている。
「そんなものがあったら人類はここまで発展してないよ」
笑って言ったら茜は脱力したように座り込んだ。
「あーうん真正の馬鹿に言ったおれが馬鹿だった。
……で、こっちでも別の角度から考えてはみたんだけどな」
大きなため息をついて茜は話題を戻す。
群衆を死ににくくするには、どういう方法が考えられるか。
使役獣の力を借りる方法や術をかけた物品を持たせる方法。消費魔力を抑えた術の開発。
話していけばどれも持続性や普及の面で行き詰まる。
……そもそも群衆がどういう原理で存在しているのかも解明されていないのが現状だ。
自然と対応策も常識の枠を出ないものしか浮かばない。
個人の研究レベルでは、知識も発想も試行回数も圧倒的に足りない。
そしてなにより、群衆が強くなることを社会が認めていないのが問題だ。
『群衆は色付きのための道具でしかない。
力も能力も劣る存在でなければならない』
この、世の中の『普通』を崩せなければ、研究も解明も遅々として進まない。
そして、方法を見つけられたとしても。現状のままでは握りつぶされ排除され、存在自体なかったことにされてしまうだろう。
「群衆の有用性を社会に浸透させる方が先かな……」
「授賞式、テレビで見たぞ。無茶するなよ」
「無茶じゃないよ。必要なことだからね」
「保身を考えろって言ってるんだよ」
心配してくれる茜に、笑みを返す。
保身なんか考えて届くほど、簡単な望みじゃない。
「このデータはもらっていくね。茜もくれぐれも気を付けて。何か問題が起きたら僕の名前を絶対に出してね」
『首謀者は僕で、茜は僕に逆らえないよう脅されている』という提出用の証拠は用意してあるから。
「そんなことするくらいなら最初っから首突っ込んでないっての」
「それでもだよ」
眉間にしわを寄せる茜に笑って、家を出る。
いつもよりは早い時間だが、一旦会社に戻って仕事の確認をしたら、今日はもう自分の部屋に戻ってデータの精査をしよう。
考え方の方向性自体が間違っているのか、試験方法が間違っているのか。
ひとつひとつ可能性を潰していくしか、求める答えにたどり着く方法を僕は知らない。
「……きっともっといいやり方があるんだろうけれどね」
少しでも前に進んでいると信じて。
まっすぐに正解をつかみ取るような力は、僕にはないのだから。




