第6話 タイムパラドックス・時迷いの書物
春の終わりを告げる風が、京都の古びた路地を抜けていた。
薄桃色の桜が散り、地面に敷き詰められた花弁は、まるで時の流れを嘲笑うかのように静かに朽ちていく。
俺、黒坂真琴は、そんな季節の変わり目に、修学旅行の下調べのために買った旅行情報雑誌『ららぶ』を手に持っていた。
表紙には「京都特集」と赤い太字で書かれ、色鮮やかな伏見稲荷の千本鳥居が目を引く。
ページをめくれば、寺社の歴史や観光スポットがぎっしり詰まっていて、付箋を貼った箇所はすでに十数カ所を超えていた。
この雑誌が、まさか俺をこんな事態に巻き込むとは、買った時には夢にも思わなかった。
突然、目の前が暗転した。
気がつけば、俺は見慣れぬ場所にいた。
目の前には、煤けた木造の建物。
空気には焦げ臭さが混じり、遠くで誰かの叫び声が響く。
そして、目の前に立つ男――織田信長。
歴史の教科書でしか見たことのない顔が、血と汗にまみれて俺を見下ろしていた。
その鋭い目つきは、まるで俺の心臓を鷲づかみにしているかのようだった。
部屋の隅には、三人の若者が控えている。
森蘭丸、森力丸、森坊丸だ。
彼らは信長の側近として名高い兄弟で、それぞれが静かに、だが鋭い視線で俺を見つめていた。
蘭丸は眉を寄せ、力丸は腕を組み、坊丸は目を丸くして、何か奇妙なものを見るような表情を浮かべている。
「見させてもらった」
信長はそう言って、俺のリュックから取り出した『ららぶ』を手に持つ。
その仕草は、まるで獲物を吟味する猛禽のようだ。
指先で表紙を撫で、ページをパラパラとめくる音が、静寂の中で異様に大きく響く。
蘭丸が一歩前に出て、雑誌を覗き込む。
「上様、それは何でございますか」
小声で呟くが、信長は手を軽く上げてそれを制した。
「お前達は見なくて良い」
「はっ」
力丸は無言で兄を見つめ、坊丸は首を傾げて俺と雑誌を交互に見つめている。
「これは、未来の書物であろう?」
信長が雑誌を突き出してきた。
その声には、疑いと好奇が混じり合った不思議な響きがあった。
俺は思わず息を呑む。
目の前の男は、教科書の中の肖像画とは比べ物にならないほどの迫力を放っていた。
鋭い目、浅黒い肌、そして、その背後に漂う、血と硝煙の匂い。
蘭丸が
「未来?」
と呟き、力丸が
「馬鹿な」
と鼻で笑うような音を漏らす。
坊丸は目を輝かせ、
「不思議な絵だ」
と雑誌の写真を指差した。
「見たこともない紙、景色をそのまま切り取ったかのような絵、いくつか見覚えのある寺社、景色、巻末の20●●年と書かれている事から、この時代の物ではないのか?と、思ったがどうだ?」
鋭い。
隠し立てはしないほうが身のためだ。
短気で知られる織田信長だぞ。
嘘をつけば、次の瞬間には首が飛んでいるかもしれない。
俺の背中に冷や汗が流れ落ちる。
心臓がドクドクと鳴り、喉がカラカラに乾いていた。
蘭丸が信長の横に立ち、俺を睨むように見つめる。
力丸は壁に凭れ、冷ややかな目で様子を窺う。
「はい」
素直に答えるしかなかった。
声が震えていないか、自分でもわからない。
蘭丸が小さく頷き、信長に目をやる。
「神隠しにでもあってここに現れたか?」
神隠し?
金隠し?
角隠し?
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
俺、何を聞かれているんだ?
力丸が
「神隠しだと?」
と低い声で呟き、坊丸が
「神様が連れてきたのかな」
と無邪気に口を挟む。
蘭丸は黙って信長の次の言葉を待つ。
「わからないとしか言いようがないのですが」
信長は一瞬、俺をじっと見つめた。
その視線は、まるで俺の魂の奥底まで見透かすようだ。
そして、ふっと口元を緩ませる。
蘭丸が小さく息を吐き、力丸が目を細め、坊丸が
「わからないって面白いですね」
と笑った。
「まぁ良い。で、儂は本能寺で光秀に討たれていたのだな?」
スッゴい直球だ。
直球すぎて、受け取るか迷うレベル。
でも、受け取らなかったら、次はバットを振りそうだ。
しかも、バッターから奪い取ったバットで。
俺の頭の中で、そんな馬鹿げた想像が一瞬よぎる。
「はい、のちの世に本能寺の変と言われる明智光秀の謀反で織田信長様は死んでいます」
言葉を選びながら、なんとか答えた。
信長の顔に、一瞬だけ驚きの色が浮かんだように見えた。
だが、すぐにそれは消え、代わりに不敵な笑みが広がる。
「そうか、そう書いてあったな。この石碑の本能寺跡と書かれたところで、それを貴様が助けてくれたわけだな?」
俺が気を失っている間に、雑誌を読み込んだらしい。
あの分厚い『ららぶ』を、こんな短時間で。
信長の知的好奇心と情報処理能力、恐るべしだ。
「はい、そうなってしまいました。」
俺の声は、どこか頼りなく響く。
だって、こんな状況、どう受け止めればいいんだよ。
「ハハハハハッ、比叡山を焼き討ちするような者に天は助けを遣わしたか、ハハハハハッ」
信長の大笑いが部屋に響き渡る。
その笑い声は、まるで雷鳴のように俺の耳を震わせた。
笑い事じゃないよ、こっちは。
頭の中が混乱でぐちゃぐちゃだ。
あれ?
タイムパラドックスって、やばいんじゃないか?
俺、消えるのか?
雑誌の内容、変わらないのか?
いろんな疑問が頭を駆け巡る。
「なんだ、急に青ざめて」
信長が笑いを収め、俺をじっと見つめる。
その視線に、俺はさらに焦る。
「あのですね、歴史を俺が変えちゃったわけなんですよ、そしたら必然的に俺、生まれない可能性があるから消えるのかなって」
言葉がとっ散らかって出てくる。
自分でも何を言ってるのかわからなくなってきた。
「わからん」
信長の返答は、あっさりしすぎて逆に怖い。
俺、必死に頭をフル回転させる。
「すみません、紙と鉛筆を下さい」
「えんぴつ?書くものか?蘭丸、筆と硯じゃ」
信長が声をかけると、蘭丸が素早く小さな机と紙、筆、硯を持ってきた。
力丸と坊丸も興味津々で近づいてくる。
その硯、すげぇ彫刻が施されてる。
絶対、重要文化財レベルだろ、これ。
俺は手に持った筆を見つめ、使い慣れない感触に一瞬戸惑う。
でも、やるしかない。
一本の線を紙に引いた。
墨が紙に滲み、黒い線がゆっくりと伸びていく。
その上にバツ印をつけ、そこから分岐する線を引く。
「この線が俺の知っている時代の線とします、時の流れ、川の流れとでも言いますか」
チラリと手を止め、信長の顔を見上げる。
彼は真剣な表情で俺の書く線を見つめていた。
その視線に、ちょっとだけ安心する。
「よい、続けよ」
信長の声に促され、俺は話を続ける。
理解してもらえるか不安だけど、もう後戻りはできない。
「このバツ印を本能寺の変とします、で、織田信長が生きている線、あ、すみません、呼び捨てなんかして、本当にごめんなさい、殺さないで」
声が裏返りそうになる。
背中がびっしょりだ。
汗で服が肌に張り付いて気持ち悪い。
目の前で信長がじっと俺を見据えている。
その視線は、まるで刃物のように鋭く、俺の心を切り裂きそうだ。
蘭丸が一瞬目を細め、「呼び捨てとは大胆な」と小声で呟く。
部屋の中の空気が一瞬、重くなった気がした。
俺の心臓が喉から飛び出しそうになる。
「あぁ、良い。良いから話を続けよ」
信長の声は意外にも穏やかで、俺の緊張を少しだけ解いてくれた。
でも、その裏に潜む何か――怒りか、好奇か、俺にはわからないものが蠢いている気がして、背筋がゾクリとする。
「はい、で、この分岐したこの線の未来は俺がいた未来とは別の線になります。と、なると、出会うはずの者が出会わず出会わないはずの者が出会う、となれば俺の両親、祖父母もまた出会わなく俺が生まれない、わかります?」
言ってる自分でも混乱してきた。
タイムパラドックスって、卵が先か親鳥が先かみたいな話だよな。
頭がぐるぐるする。
筆を持つ手が震えて、墨が紙に少し滲んだ。
蘭丸が「出会わない?」
と首を傾げ、力丸が
「ややこしい話だ」
と眉を寄せる。
坊丸は、
「えっと、つまり暴れ馬殿ががいなくなってしまうと?」
と心配そうに俺を見上げた。
その純粋な瞳に、ちょっと胸が締め付けられる。
信長はしばらく黙って俺の書いた線を見つめていた。
その沈黙が、まるで嵐の前の静けさのように感じられる。
部屋の外から、遠くの戦火の音が微かに聞こえてくる。
焦げた木の匂いと、汗と血の混じった空気が鼻をつく。
俺は息を整えようと必死に胸に手を当てるが、心臓の鼓動は収まらない。
蘭丸が信長の横で姿勢を正し、力丸が壁に凭れたまま目を細め、坊丸が膝を少し前に出して俺の説明に耳を傾ける。
そして、信長が突然口を開いた。
「なら、貴様だけがこの線からこっちに移ったのではないのか?太流の川の流れから小魚一匹が、飛びはね隣の川に移った」
そう言って、信長は俺の書いた線に小さな丸を描き、そこから矢印を引いた。
その動きは、まるで戦場の地図を描くような確信に満ちていた。
筆を握る手が力強く、墨が紙にしっかりと染み込む。
俺は一瞬呆然とする。
ん?
タイムパラドックス、俺より理解してる?
いや、もともとタイムパラドックスなんて仮説にすぎない。
証明なんて無理だ。
なら、複数の時間線が存在する説でもいいのかもしれない。
俺はたまたまその一本に移っただけ。
太流の川に迷い込んだ小魚みたいに。
「帰れるのかな?」
思わず口からこぼれた言葉。
信長がふっと笑う。
その笑みは、どこか楽しげで、どこか底知れない。
俺の胸が締め付けられる。
帰りたい。
でも、どうやって?
この時代に取り残されたら、俺はどうなるんだ?
「面白き者が迷いこんだ物だな、ハハハハハッ、荷物は返す」
信長がそう言って、俺のリュックサックを差し出してきた。
その笑い声が部屋に響き、煤けた壁を震わせる。
俺はそれを手に取り、呆然と立ち尽くす。
目の前の男は、歴史を変えたかもしれない俺を、ただ面白がっているだけなのか。
風が窓の隙間から吹き込み、紙の端を揺らした。
俺の旅は、まだ終わりそうにない。
部屋の外では、本能寺の変の騒ぎがまだくすぶっているようだった。
遠くで聞こえる兵士の叫び声と、馬の蹄の音。
俺がここにいることで、何かが変わった。
いや、変わらなかったのか?
信長が生きているこの時間線は、俺の知る歴史とは別の流れだ。
なら、俺の存在はどうなる?
頭の中が再び混乱で埋め尽くされる。
リュックを握る手が汗で滑りそうだ。
中に入っている『ららぶ』をもう一度見たい衝動に駆られるが、今それを広げる勇気はない。