第5話 織田信長
目の前に置かれた飯は、山のように盛られていた。
木の膳にこんもりと積み上げられた玄米は、朝陽の淡い光を受けて鈍く輝き、まるで小さな丘のようだった。
朝ご飯なのか昼ご飯なのか、それすら判然としない。
ただ、寝起きのぼんやりした頭に、その量が異様に映った。
一口目を箸で掬う。
パサパサとした食感が舌に広がり、硬さが歯に響く。
噛むたびに微かな土の匂いが鼻腔をくすぐり、平成の白米とはまるで別物だ。
だが、三日ぶりの食事らしい。
らしい、というのは、俺の記憶が曖昧だからだ。
腹の底から湧き上がる空腹感が、それを裏付けていた。
箸を動かす手が止まらない。
今まで食べたことのないほど胃に詰め込んだ。
喉が詰まりそうになるたび、膳の脇に置かれた水を一気に飲み干す。
絢爛豪華な漆塗りの椀からこぼれた滴が顎を伝い、学ランの襟に染みを作った。
学ラン。
そう、俺はまだ修学旅行用の制服を着ている。
黒い詰襟に擦り切れたズボン。
昨日まで、友達と笑いながらバスに揺られていたはずなのに。
飯を平らげると、目の前に現れたのは一人の美少年だった。
だが、その目は鋭く、俺を値踏みするように見つめていた。
「天主へ案内いたします」
短く告げられ、俺は立ち上がった。
御成御殿を出ると、渡り廊下が目の前に伸びていた。
木の軋む音が足音に混じる。
左右に広がる庭は、秋の終わりを思わせる枯れた草と、遠くに霞む山々が静かに佇んでいた。
空は薄曇りで、冷たい風が頬を撫でる。
天主への道は長かった。
石段を一歩ずつ登るたび、足が重くなる。
最上階に辿り着いた。
広い部屋の中央に、先ほどのダンディーなオジサンが立っていた。
黒い羽織に金の装飾が施された扇子を手に持つその男は、まるで時代劇のセットから抜け出したような風貌だ。
髪は後ろで結ばれ、顎には薄い髭が伸びている。
だが、その目だけは異様に鋭く、俺の心臓を掴むように突き刺さった。
二人っきり。
部屋には静寂が満ち、風が木枠の隙間を通り抜ける音だけが微かに響く。
「来たか」
低い声が部屋を震わせた。
「さて、貴様は何者だ?」
何者?
突然の問いに、頭が真っ白になる。
返答に困り、一拍置いてしまう。
喉が乾き、言葉が詰まった。
すると、彼が先に口を開いた。
「わしは、織田信長じゃ」
織田信長。
のぶなが・・・・・・キター!
信成じゃない、本物の信長だ。
頭の中で叫びがこだまする。
だが、目の前の男は落ち着き払い、俺の動揺など意に介さない様子で扇子を軽く振った。
とにかく名乗ろう。
「黒坂真琴と言います」
声が震えた。
「茨城の暴れ馬ではないのか?」
「あ、まあーはい」
曖昧に頷くしかなかった。
「申せ、貴様は何者だ?」
「何者と言われても困ります。あの、貴方は本当にあの織田信長?」
「どのだ?」
そりゃそうだ。
本人に「あなたは織田信長か?」と聞いても意味がない。
俺は本当に安土桃山時代にいるのか?頭が混乱し、現実感が薄れていく。
パンッ。
扇子が鋭い音を立てた。
気短すぎるだろ、この人。
「あの、私はこの国の礼儀作法など一切知りません。無礼は許してください」
まず謝っておく。
でないと、殺されそうで怖い。
目の前の男からは、冗談ではない殺気が漂っている。
「許す」
意外にも穏やかな声だった。
「いつの頃から来た?正直に全部話せ」
いつの頃?
どこからではなく、いつの頃?
この男、俺がここにいる理由を知っているのか?正直に言うしかない。
「私は、1999年、平成11年11月29日生まれ、黒坂真琴、17歳です。信じてもらえないでしょうが、400年ほど後に生まれた日本国民です」
言葉が止まった。
信じてもらえるわけがない。
俺だって自分が何を言ってるのか分からないんだから。
「続けよ」
ん?
意外な反応に目を瞬かせる。
「続けよと言われても困りますが、そうですね、出身は茨城県・・・・・・いや、常陸の国って言ったほうがいいのかな?とにかく常陸の国、鹿島神宮近くで生まれ育ちました。一応ですが、鹿島神道流と陰陽力を身に付けています」
「塚原卜伝か?知っておるぞ、続けよ」
だから、続けよって困るんだよな。
「あっと、その、何を言えばいいのか分からないのですが、とにかく私は、お寺の地下道を通ってきたらあの場に出ちゃっただけで、明智光秀とは何の関係もないですから。私は帰りたい」
「ふはははははは、そうかそうか、帰りたいか」
笑い声が部屋に響き渡った。
「はい、帰りたい。未来に、元の世界に」
バン、バン、バン。
扇子を左手のひらで三回叩く。
すると、襖が静かに開き、先ほどの美少年が入ってきた。
手に持つお盆の上には、布に覆われた何かがある。
「見させてもらった」
「はい?」
「貴様の荷物じゃ」
布が取り払われた。
「あっ!俺のリュック!」
そこには、修学旅行で使っていた俺のリュックサックがあった。