第4話 安土城
俺は、どうやら気を失っていたらしい。
意識が戻った瞬間、まず感じたのは体を包む異様な柔らかさだった。
目を閉じたままでも分かる、フカフカの高級布団の感触。
普段、薄っぺらいマットレスと硬い枕で寝ている俺には、まるで別世界だ。
体を動かすと、肌に滑らかに触れるシルクの寝巻きが微かな音を立てた。
白い生地に光が反射し、薄い光沢が目を引く。
あまりにも高級そうで、逆に落ち着かない気分になる。
下に目をやると・・・・・・パンツが、褌?
一瞬、自分の目を疑った。
現代の俺がこんなものを履くはずがない。
誰かに着替えさせられたのか。
頭がぼんやりして、その状況を飲み込む余裕もない。
目を開けると、そこは見慣れた自室の殺風景な天井ではなく、柔らかな光に満たされた異空間だった。
畳の部屋にはイグサの青々とした香りが漂い、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。
障子越しに差し込む朝日が、薄紙のような白い光を部屋に投げかけていた。
まず目に飛び込んできたのは天井だ。
豪華な装飾絵図が広がり、花鳥風月という言葉が頭をよぎる。
赤い椿が鮮やかに咲き、黄色い菊が静かに佇み、青い鳥が羽ばたく姿が木目の天井に溶け込んでいる。
絵師の手によるものだろうか、その一筆一筆に生命が宿っているかのようで、思わず息を呑んだ。
横に目をやると、襖には金箔の背景に牡丹と思しき花が描かれていた。
金色の輝きが朝の光に反射し、まるで部屋全体が黄金のオーラに包まれているような錯覚に陥る。
ここは高級旅館か、それとも寺か。
いや、それにしては雰囲気がどこか異質だ。
俺は何かに巻き込まれ、保護されたのだろうか。
頭の中が霧に包まれたようで、状況を整理する気力すらない。
ただ、夢落ちならそれでいいかと自分を納得させようとした。
視界の端に、衣紋掛けが映った。
そこに掛かっているのは、紛れもなく俺の学生服だ。
少しヤンチャな裏生地が紫で、龍の刺繍が施されたあの服。
普段の俺の厨二病を象徴するような一着だ。
それがこんな場所に無造作に掛けられているのが妙に現実味を帯びていて、夢という仮説が揺らぐ。
あの服は、俺が昨日まで着ていたはずのものだ。
誰かが手入れしたのか?
布団を剥いで体を起こすと、ふと視線を感じた。
部屋の隅に目をやると、そこにいたのは見覚えのある顔だった。
夢の中で見たような、大手アイドル事務所に所属していそうな美男子だ。
整った顔立ちに長い睫毛、透き通るような白い肌が朝の光に映える。
だが、その彼が小侍のような古風な装いをして、正座しながら首をコックリコックリと揺らしている。
眠気に負けそうになりながらも、俺を見守っているらしいその姿に、思わず声が漏れた。
「はい? え? なに?」
驚きと混乱が混じった声が、静かな部屋に響き渡る。
美男子がハッと目を覚まし、眠そうな瞳をこすりながら俺を見た。
その視線は柔らかく、どこか安心させるような温かさを湛えている。
彼の動きには不思議な優雅さがあり、まるで時代劇のワンシーンを見ているような気分になった。
「起きましたか、茨城の暴れ馬殿」
その呼び方に耳を疑った。
口をパクパクさせて言葉を探している俺を見て、彼は少し困ったような笑みを浮かべた。
まるで迷子になった子犬を見つけたような表情だ。
「大丈夫です、大丈夫ですから。ここは安土城の本丸御殿でございますから」
「は? はい? 安土城? はい?? え? 何言ってんの?」
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
安土城なんて歴史の教科書か大河ドラマでしか聞いたことがない。
織田信長が建てた豪華な城で、本能寺の変の後に焼失したと習った記憶がある。
俺の困惑ぶりに、彼は優しく、しかしどこか芝居がかった口調で説明を続けた。
「困惑するのはごもっとも。あの朝、明智光秀を討ち取ったあと、京の都から大急ぎでこちらに戻りましたしだいで・・・・・・失礼とは思いましたが、明智光秀を討ち取ったあなたをそのままにしておくには礼儀に失するので、運ばせていただきました。御館様が自ら馬にくくりつけて運ばれたのですよ。それから三日間、茨城の暴れ馬殿は寝ておられました。失礼とは思いましたがお着替えと体拭きをさせていただきました」
「はい? 御館様? 安土城? 明智光秀?」
歴史の授業でしか聞かないフレーズが次々と飛び出し、俺の脳は完全にパニック状態だ。
明智光秀と言えば、織田信長を裏切ったあの男。
本能寺の変で有名な、1582年の話だ。
だが、そんな遠い過去が俺とどう繋がるというのか。
頭が現実を拒絶しているのか、それとも本当に夢なのか。
混乱する俺に、彼はさらに言葉を重ねた。
「混乱しておりますか? 大丈夫です。御館様、織田信長様の命により、茨城の暴れ馬殿は御客人、いえ、命の恩人として最大限もてなすよう言いつかっております。どうか安心してお休みください」
織田信長。
その名前が耳に刺さった瞬間、背筋に冷たいものが走った。
歴史上の人物が、俺の目の前で生きているというのか?
いや、そんな馬鹿な話があるはずがない。
夢だ、これは夢に違いない。
そう自分に言い聞かせていると、突然、バン! と大きな音がした。
襖が勢いよく開き、俺は思わず肩を跳ね上げた。
驚くからやめてくれと心の中で叫ぶ。
そこに現れたのは、髭を生やしたダンディーなオジさんだ。
鋭い眼光がこちらを睨みつけ、まるで俺の心臓を鷲づかみにしたかのようだった。
顔には深い皺が刻まれ、風格ある佇まいが一目で分かる。
一瞬、俳優の役所広司を連想したが、サインをもらうどころか、その威圧感に体が硬直する。
着ているのは豪華な陣羽織で、黒地に金の紋が光っていた。
「目が覚めたか」
低い声が部屋に響き、俺の鼓膜を震わせた。
美男子が慌てて立ち上がり、畳に深々と頭を下げた。
額が畳に触れるほどの一礼に、彼の緊張が伝わってくる。
「御館様、先程起きられた所にございます」
俺は布団の上から動けない。
恐ろしさと好奇心が交錯し、体が言うことを聞かない。美男子は一礼を終え、丁寧に言葉を続けた。
「飯を食ったら天主に連れて参れ」
「はっ、かしこまりました」
ダンディーなオジさんはそれだけ言い残し、襖を開けたまま立ち去った。
その背中からは、圧倒的な存在感が漂っている。
俺は呆然とその先を見た。
庭の向こうにそびえるのは、まぎれもない城だ。
石垣の上に聳える天主、その異様な美しさに息を呑む。
「安土城!」
思わず叫び、裸足のまま庭に飛び出した。
冷たい土の感触が足裏に伝わり、現実感をさらに煽る。
天主がそこにあった。
雑誌やCGでしか見たことのない、望楼型の天主。
六角形の独特な形状、最上階には金閣寺を思わせる黄金の輝きが朝日に映える。
平成の復元模型とは比べ物にならない、生きた建築物が目の前に広がっている。
風が吹き抜け、庭の松がざわめく音が耳に届いた。
「スゲー」
驚愕の言葉しか出なかった。
語彙力が乏しい自分を恥じる余裕もない。
ただただ、圧倒されていた。
振り返ると、今飛び出してきた建物は平屋の御殿だ。
本丸御殿、御幸の間と呼ばれる場所だろうか。
障子の向こうに、美男子が静かに立っているのが見えた。
「本丸が一番安全ですので御成の間を使用してます。御館様の最大限の礼儀だそうです」
彼の声が背後から聞こえた。
俺は改めて周囲を見渡した。
朽ち果てた遺跡ではない、完全な安土城がそこにあった。
石垣の隙間から草が生え、遠くには青々とした山々が連なる。
空気が澄んでいて、現代の排気ガスの臭いは一切しない。
なぜこうなったのか、俺にはまだ理解できない。
だが、目の前の景色が、俺を否応なくこの時代に引きずり込んでいた。