第2話 本能寺の変
焦げ臭い空気が鼻腔を突く。
熱気が肌を刺し、目の前には信じがたい光景が広がっていた。
俺は今、何かの間違いで燃え盛るお寺の只中に立っているらしい。
木造の柱が赤々と燃え上がり、黒煙が天井を這うように広がっていく。
耳をつんざくような木材の軋む音と、遠くで響く叫び声。
本当に燃えているのか?
いや、そんなはずはない。
これは現実じゃない。
きっと間違った出口を開けてしまったんだ。
撮影?
アトラクション?
それとも映画村のセット?
目の前に広がる世界は、国営放送の時代劇や映画で何度も見たような光景にそっくりだった。
古びた畳の床、煤けた壁、炎に照らされて揺れる影。
どこか懐かしくもあり、異様でもある。
頭が混乱して、現実と非現実の境界が曖昧になっていく。
「ぬはははははは、この信長、光秀ほどの者に殺されるなら良かろう、天から与えられし寿命はこれまでか、是非に及ばず」
突然、豪快な笑い声が耳に飛び込んできた。
振り返ると、そこにいたのは長い髪をポニーテールのように縛り上げた男。
白い寝間着のような浴衣を纏い、髭を生やしたその顔は、ダンディーという言葉がぴったりだった。
博物館で見たような黒光りする弓を手に持っている。
彼は炎に囲まれながらも、まるでこの状況を楽しんでいるかのように笑っていた。
その姿はあまりにも現実離れしていて、俺は思わず今開けた襖を閉めようと手を伸ばした。
だが、襖は動かない。
腰が抜けて力が入らないわけじゃない。
しっかりと力を込めているはずなのに、まるで何かに押さえつけられているかのように、びくともしない。
俺が悪戦苦闘していると、別の声が響き渡った。
「信長、覚悟ー!撃て撃て撃てー!」
バンバンバンバンバンバンバン。
けたたましい銃声が空気を切り裂く。
白い着物の男—信長と呼ばれたその人物—に向かって、火縄銃が次々と火を噴いた。
だが、彼は怯むことなく、一人また一人と弓矢で応戦していく。
壁によじ登り、火縄銃を構える敵兵を正確に射落としていくその姿は、まるで戦国の英雄そのものだった。
炎の中でも冷静沈着で、どこか楽しげですらある。
呆然と見つめる俺に、突然その視線が向けられた。
「おい、貴様何者?珍妙ななりをしてどこから出てきた?」
珍妙ななり?
俺は思わず自分の姿を見下ろした。
詰め襟の学ラン。
うちの高校の制服だ。
どこにでもあるオーソドックスなデザインで、珍妙と言われる筋合いはない。
だが、すぐに気づいた。
ああ、そうか。
この状況では、俺の格好が異質なんだ。
戦国時代らしいこの世界で、学ランを着た高校生が現れるなんて、そりゃあおかしいよな。
頭の中で状況を整理しようとするが、どうにも腑に落ちない。
自分が置かれた状況が理解できないまま、脳は勝手に都合のいい解釈を始めていた。
これはきっと何かのアトラクションだ。
今流行りの体験型アトラクションなんだろう。
そう思うのが一番納得できる。
お金を払わずに入ってきてしまった俺が悪い。
謝ってしまおう。
「ごめんなさい。ごめんなさい。今すぐ出ていきますから」
声が震える。
怖い。
怖すぎる。
炎の熱さも、銃声の響きも恐ろしいが、何より怖いのは、目の前に立つもう一人の男の視線だった。
桔梗の家紋が刻まれた前立てのついた立派な具足を身に纏ったその男。
鋭い目つきで俺を見つめるその姿に、背筋が凍りつく。
「おい、貴様、どこから出てきた?あの扉は、もしもの時にと作り始めていた南蛮寺に続く脱出通路、まだどこにもつながっていないはずだが」
奮闘する寝巻の男—信長—が、敵兵よりも俺に興味を示しているらしい。
その声には苛立ちと好奇心が混じっていて、俺を一層混乱させた。
「いやいや、お寺の通路から歩いていたら真っ暗闇で何が何だかわからなくて、ここに出てしまって今すぐ出ていきますから、戻りますから」
急いでこの場から逃げ出したい。
映画の撮影だろうと、ドラマだろうと、アトラクションだろうと、今ここにいるのはおかしい。
もしこれが映画やドラマなら、こんな大規模な火事のシーンを撮り直しなんてできないはずだ。
俺の存在が台無しにしてしまう。
「ふっ、南蛮の宣教師みたいななりをしおって、ん?さては貴様がわしを地獄へと導く死神か?」
信長が笑いものを見るような目で俺を見た。
うわっ、なんだよ。
俺、この撮影かアトラクションに完全に巻き込まれちゃってるのか?
話が続くには無理がありすぎるだろ。
でも、気になる。
あの桔梗の具足を着た男の影が、どうしても気になる。
もうどうでもいい。
これだけは言わなきゃ。
「そこの人、狐憑いているよね?」
一瞬、場が静まり返った。
信長も、具足の男も、動きを止めて俺を見た。
「はぁあ?何を言う、わけのわからぬ者よ、貴様も信長ともども殺してくれる、撃てー撃てー!」
バンバンバンバンバン。
再び火縄銃が火を噴く。
今度は俺の方にも銃弾が飛んできた気がして、思わず身を縮めた。
床板がぶち抜かれ、木屑が飛び散る。
なんだこれ、実弾か?
トリック?
仕掛け?
爆薬?
もうわけがわからない。
頭が真っ白になる。
「ちきしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
小梅太夫ばりに叫んでしまった。
だが、その瞬間、視界の端に映ったものに俺の意識が引き戻された。
狐だ。
あの具足の男の背後に、ぼんやりと揺らめく狐の影が見えた。
妖だ。
見えたものは滅さなければならない。
撮影の邪魔だと言われようと、仕方がない。
妖は滅するのが家の決まりだ。
代々受け継いできた家の仕事。
人に災いをもたらすものを、見過ごすわけにはいかない。