茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧⓪話・第八話 大津からの文――不在の妹、隣の妹
安土の黒坂屋敷での暮らしにも、ようやく一つの流れが出来始めていた。
朝は真琴様を送り出し、台所を見て、表の座敷を整え、届いた品を改め、記録を見直す。昼には来客や使いに応じ、夕刻には屋敷の空気をもう一度整える。やることは多いが、忙しさに流れが生まれると、人の心は不思議と落ち着くものだ。
ただ、その流れの中に一つだけ、どうにも規則正しく収まらぬ存在があった。
お江である。
「姉上様、これ見て。桃子ちゃんが出してくれたお菓子、こっちの方が丸くて可愛い」
「お江、菓子を並べ替えないでください」
「えー、でも見た目って大事でしょ?」
その言い分自体は間違っていないのだが、問題は、客へ出す前の菓子皿を本人の好みで並べ替えていることである。私は帳面から顔を上げ、少しだけ眉をひそめた。
「見た目は大事です。ですが、順もあります」
「順?」
「はい。何を先に見せ、何を後に見せるかで、相手の受ける印象は変わるのです」
お江は、ふうん、と言いながらも、やはり分かったのか分かっていないのか怪しい顔をした。
横では桃子が、お江に並べ替えられた菓子皿を前におろおろしている。
「お江様、それは、その、御方様が見立てなされた並びにて……」
「え、姉上様が?」
「そうです」
私がそう言うと、お江はようやく手を引っ込めた。
「じゃあ戻す」
「最初からそうなさい」
そう言ってから、私は思わず心の中で息をついた。
お江が安土へ来てから、屋敷はたしかに賑やかになった。
大津では母上様とお初の間を飛び回っていたあの子が、今はこちらで、桜子たちの後ろをついて歩き、私の帳面を覗き込み、真琴様の帰りを待つようになっている。
その明るさに助けられることもある。
だが同時に、大津に残した者たちの気配が、かえって遠く濃く思われることもあった。
そう思っていたところへ、ちょうど大津から文が届いた。
「御方様。大津より」
桜子がそう言って差し出した文の封を見た瞬間、私は自然と表情をゆるめていた。
母上様の文字である。
手を洗い、座を正してから封を切る。
文の匂いは、墨と紙の匂いばかりでなく、どこか大津の空気まで運んでくるような気がするから不思議だった。
母上様の文は、いつも通り簡潔で、静かで、しかし要ることはきちんと書かれていた。
大津城は変わりなく回っていること。
風はまだ冷たく、湖の気配が朝夕には強いこと。
蒲生氏郷もよく働いていること。
城下の者たちも、安土ほどではないが次第に落ち着いてきたこと。
そしてその中に、家の内の様子が自然と織り込まれていた。
お初は、相変わらず素直でないらしい。
文にはもっと穏やかな書き方がされていた。
「何事にも一度は首をかしげ、二度目でようやく手を出す」とある。
だが、それを私が読み下せば、つまりは“素直でない”ということに尽きる。
私はそこで思わず笑ってしまった。
目に浮かぶようである。
大津の広間で、母上様や家臣が何かを決めようとすると、まずお初が「本当にそれでいいの?」と口を出し、しかし最後には自分で一番きちんとやる――あのいつもの気質。
さらに文には、
「茶々がいない分、お初も少しばかり言い過ぎる」
とあった。
「姉上様、何て?」
お江が、こちらへ身を乗り出してきた。
まったく、文を見るとすぐにこうである。
「お初は相変わらずだと」
「なにそれ、すごく分かる」
お江はけろりと言った。
私は少しだけ目を細める。
「あなたが言うと、何やら軽く聞こえますね」
「だって本当だもん。お初姉様、姉上様がいないと余計に意地張るし」
その言い方も、ずいぶんと容赦がない。
けれど、兄弟姉妹というものは案外そうしたものなのだろう。甘さと遠慮のなさが、同じところにある。
文をさらに読み進めると、お江のことも書いてあった。
もっとも、お江は今ここにいるのだから、母上様の書きぶりも少しおかしい。
「そなたが連れていったお江の分、大津の湯殿はしばし静か」
とあり、私は今度は声を立てぬように笑った。
「何? 何て?」
「あなたがいないから、大津の湯殿が静かだそうです」
「えー、それってつまんないってこと?」
「そうは書いておりません」
「でも、そういうことでしょ?」
お江は勝手に都合よく解釈して胸を張った。
たぶん、半分は合っている。
そして最後に、私の胸へ少しだけやわらかく刺さる一文があった。
「大津の女たちも、茶々不在で少し寂しそうである」
大津の女たち。
その中にはもちろん、母上様のまわりに仕える者たちも、お初も含まれているのだろう。
桜子たちも、以前ならこの文を読んで「大津へ戻りとうございます」とでも言いそうなところだが、今は安土の屋敷にしっかり根を下ろして働いている。だからこそ、かえってその一文が胸へ残った。
私は文を膝の上へ置いた。
今の私は、安土にいる。
真琴様が城へ上がる間、屋敷を預かり、贈り物を見、来客へ応じ、噂の火元を見ている。
それが今の私の務めだ。
けれど同時に、大津にも私の家がある。
母上様がいて、お初がいて、あの湖風の城がある。
湯殿の湯気、足軽たちの気配、庭を渡る冷たい風。
あちらにもたしかに、私の手で整えた暮らしの続きがあるのだ。
私は今、その二つの家の間に立っている。
安土で真琴様の家の顔となりながら、心のどこかでは大津の家の続きを案じている。
嫁いだ先の家と、生まれ育った気配を残す家とが、もう私の中で一つの流れになっていた。
「姉上様」
お江が、少しだけ声をやわらげた。
「なに?」
「母上様も、お初姉様も元気?」
私は頷いた。
「ええ。元気そうです」
「そっか」
それだけ言うと、お江は少しだけ安心したような顔をした。
やはりあの子なりに、離れている母や姉を気にしているのだ。
「文、返す?」
「もちろんです」
「私も書く!」
「変な絵は描かないように」
「まだ何もしてないのに!」
私はようやく本当に笑ってしまった。
こうして隣にいる妹は、目の前の空気をいともたやすく動かす。
その賑やかさに救われる一方で、遠く大津にいるもう一人の妹の静かな不在感が、かえって私の心へしみてくる。
お初は今、大津で何を見ているのだろう。
あの風の強い城で、母上様の隣に座り、どのように口を尖らせ、どのように真面目な顔をしているのだろう。
そう思うと、不思議なもので、安土の座敷の空気が急に二つの城をつなぐ細い糸のように思えた。
その日の夕刻、私は母上様への返書をしたためた。
安土は変わりなく、黒坂屋敷も少しずつ整っていること。
真琴様は相変わらず忙しいこと。
お江はやはり騒がしく、しかしその賑やかさに助けられていること。
そして、お初には「そちらの城を困らせぬ程度に素直になりなさい」と、半ば本気で、半ば笑いを含めて書いておいた。
筆を置いた時、私は静かに思った。
私は今、ただ夫の留守を預かる妻であるだけではない。
安土と大津、二つの家の間へ立ち、そのどちらにも目を配る役目を負っている。
それは面倒で、忙しく、時に心を引き裂くようでもある。
だが、そうして初めて、“黒坂家”というものが一つの家として広がっていくのだろう。
文をたたみ、封をする。
外では、安土屋敷の夕支度が始まっていた。
私はその気配を聞きながら、文の向こうにいる大津の家族を静かに思った。
近くにいる妹と、遠くにいる妹。
賑やかな家と、風の強い城。
そのどちらも、たしかに私の暮らしの中にあるのだと、あらためて感じていた。




