茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑥⑦話・家族になろうとする城
夜の大津城は、昼とはまるで違う顔を見せる。
日が高いうちは、人も声も音も、すべてが表に出ている。
政所では帳面をめくる音がし、足軽屋敷では兵たちが槍を動かし、船着き場では荷を運ぶ掛け声が飛び、台所では桜子たちの忙しない足音が響く。
城とは、昼のあいだはどこまでも“働く場”だ。
けれど夜になると、その一つひとつの音がやわらぎ、城全体が大きく息をつくようになる。
灯がともる。
渡り廊下の端、二ノ丸の角、足軽屋敷の窓、城下の商家の軒先、船着き場の見張り櫓――それぞれの灯は小さいのに、離れて見下ろせば、不思議と一つの温かい流れのように見える。
私は、その夜、一人で天守へ上っていた。
昼の騒ぎはもう収まっている。
女人の掟は定まり、家中の者どもは勝手に“解禁”などという軽い言葉で面白がったが、少なくとも黒坂家の内では、ひとつの形が出来た。
桜子たちも、お初も、お江も、そして母上様も。それぞれの立ち位置が、曖昧なままではなくなった。
だから本来なら、少しは安堵してよいはずなのだ。
だが、心というものは、物事が片づいたからといって、すぐに静まるわけではない。
私は欄干へ手を置き、春へ向かう夜風に頬を打たれながら、城下の灯を見ていた。
黒坂家は、変わった。
私が嫁いできた頃の黒坂家は、まだ“勢いのある家”だった。
真琴様の才覚、義父・織田信長の信、奇抜な城づくり、火縄銃、船、流通。何もかもが新しく、何もかもが前へ前へと進んでいた。
その勢いの中心に、私はただ必死にしがみついていた気がする。
だが今は違う。
勢いだけではない。
母上様がいて、お初とお江がいて、桜子たちがいて、政道殿がいて、城下の者たちがいて、足軽たちがいて、家臣たちがいる。
行き場を失いかけた者。
家の都合に押し出された者。
戦で居場所をなくしかけた者。
そうした者たちが、少しずつこの城の内側へ入り、息をし、暮らしを持ち始めている。
それは、力が広がっているのとは少し違う。
“家”が育っているのだ。
「やっぱりここにいた」
後ろから声がして、私は振り返った。
真琴様である。
夜風を嫌ってか、肩にはいつものように少し厚手の羽織を掛けておられる。毛皮ではないが、それでもこの方は季節の先取りというものをしない。
階を上がるのが少し面倒だったのか、襟元を直しながらこちらへ来られた。
「御主人様」
「茶々、冷えるよ」
「御主人様がそれを仰いますか」
「いや、ほんとに冷えるでしょ、ここ」
そう言いながらも、私の隣へ立つ。
結局、来るのだ。この方は。
私は少しだけ笑った。
「何か御用ですか」
「用っていうか、いそうだなと思って」
「どうしてです」
「今日の茶々、ずっとちょっとだけ遠く見てたから」
私はその言葉に、少しだけ目を細めた。
こういう時だけ妙に鋭い。
「そう見えましたか」
「うん。考え事してる時の顔」
真琴様は欄干へ肘をつくこともなく、ちゃんと立ったまま城下を見下ろした。
こうして並んでいると、この方の背は私より高く、肩も広い。細身に見えても、やはり男子なのだと分かる。だからこそ、近くにいる女たちが無意識に寄っていくのかもしれぬ、などと、また余計なことまで思ってしまう。
「茶々」
「はい」
「……今回のこと、まとめてくれてありがとう」
私は、少しだけ息を止めた。
礼を言われるとは思っていた。
けれど、いざ面と向かって静かに言われると、胸の奥に直接落ちる。
「変にこじれずに済んだのは、茶々のおかげだと思う」
私は視線を城下へ戻した。
「御主人様が人を拾うから、私が並べ直しただけです」
そう返すと、真琴様が小さく笑った。
「またその言い方」
「違いますか」
「半分は違う」
「半分は認めるのですね」
「うん、半分は認める。……でも、俺はそんなに“拾ってる”つもりないんだけどな」
「つもりがないのが、いちばん厄介なのです」
真琴様は困ったように笑い、それ以上は言い返さなかった。
しばらく、二人で黙って灯を見下ろした。
大津城下の灯は、今日もやわらかい。
あの灯の下で、女たちが湯を使い、足軽たちが飯を食い、子どもが眠り、商人が明日の算段をし、船頭が風を読む。
城とは、上に立つ者だけの場所ではない。
この灯の数だけ、人の営みがある。
「茶々」
真琴様がぽつりと言った。
「黒坂家って、もうただの主従の集まりじゃないよね」
その言葉に、私は小さく頷いた。
「ええ」
「なんかさ。みんな、ちゃんと家になろうとしてる感じがする」
私は、その言い方が少し好きだと思った。
もう家だ、ではない。
家になろうとしている。
まだ途中で、まだ不格好で、まだ騒がしく、時に面倒で、時に可笑しくて、それでも確かにそうなろうとしている。
「行き場を失いかけた者が、ここへ来て息をついております」
私は静かに言った。
「母上様も、私も、お初もお江も。桜子たちも、政道殿も。そうした者たちが、ただ居候ではなく、“ここで生きる者”になりつつある。……それは、もうただの勢いではありません」
「うん」
「家です」
その一言を、私は自分でも思っていた以上に深く感じていた。
家。
それは、血だけで出来るものではない。
婚儀や縁組だけでもない。
ましてや、官位や城や金子だけでもない。
同じところで湯を使い、同じ囲炉裏の匂いを嗅ぎ、同じ者へ腹を立て、同じ者を案じ、同じ灯の下で眠る。
そうして初めて、他人同士が家族のようになっていく。
「この先も」
真琴様が、風の向こうを見たまま言った。
「また人が増えるかもね」
私は少し笑った。
「でしょうね。御主人様ですから」
「その言い方、なんか俺が災いの元みたい」
「半分は」
「また半分」
そのやり取りが、今夜は妙に心地よかった。
私は欄干へ置いた手に少し力を込めた。
この先、また女が増えるかもしれぬ。
想いが絡まり、噂が立ち、私の胸がまた穏やかでなくなることもあるだろう。
桜子たちのように家族と敬愛のあわいにいる者。
お初のように自分でも定めきれぬ気持ちを持つ者。
お江のように遠慮なく飛び込んでくる者。
これから先、新たに現れる者もいるかもしれない。
だが、もう私はそれをただ怖れるだけではいられない。
誰かを排し、勝って、安堵するのではない。
この家の真ん中に立ち、皆の想いを、家を乱す刃ではなく、家を支える形へ変えていく。
それが、私の役目だ。
「御主人様」
「ん?」
「たぶん、これからも面倒は増えますよ」
「うん。そんな気はしてる」
「女も増えるかもしれません」
「そこは増やさない努力をしたいかな……」
真琴様が真顔で言うので、私は少しだけ笑った。
「ですが、増えようと、騒ぎが起きようと、私はこの家の真ん中に立ち続けます」
自分の声が、思いのほか静かで強かった。
真琴様は私を見た。
月明かりの中で、その目がほんの少しだけやわらいだ。
「うん。お願いしたい」
その一言は、軽くなかった。
夫としての甘えだけではなく、家の主としての信でもあった。
私は頷いた。
そしてその時、はっきりと自覚した。
真琴様のまわりにあるものを、外から見れば“ハーレム”と呼ぶのかもしれぬ。
けれど、それを“家”へ変えているのは、他でもない私だ。
母上様の静けさも、お初の不器用さも、お江の無邪気さも、桜子たちの忠義も、すべてが黒坂家の内に並び、争わず、秩序を持って息をしているのは、私がその真ん中に立つと決めたからだ。
それは、誇ってよいことだろう。
夜風が少し強く吹いた。
城下の灯は揺れたが、消えなかった。
私はその灯を見下ろしながら、心の中で静かに結ぶ。
黒坂家は、まだ大きくなる。
戦でも、政でも、人でも。
けれど、そのすべての土台になるのは、きっとこの“家になろうとする城”の気配なのだ。
ならば私は、そこに立ち続ける。
誰が増えようと、誰が迷い込もうと、この城を家に変える側として。
そう思った時、胸の内は不思議と穏やかだった。
私はもう一度だけ城下の灯を見て、それから真琴様と並んで、しばし何も言わず夜の大津を眺め続けた。




