茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑥⑥話・恋と家のあいだで
騒ぎが少し落ち着いた夜、大津城は久しぶりに静かだった。
静か――と言っても、まったくの無音ではない。
遠くでは足軽屋敷の戸を閉める音がし、台所の方では桜子たちが最後の片付けをしているらしく、鍋を重ねる控えめな響きがする。湯殿の方からは、火を落とす前の湯気の匂いがほんのりと流れてきていた。
人が暮らす城の静けさとは、そういうものだ。
誰もいないから静かなのではない。
皆がそれぞれの役目を終え、それぞれの場所へ戻っていくから、城全体がゆっくりと息を整える。
私は、その静けさの中で一人、縁側に座っていた。
庭には薄く月の光が差し、植えたばかりの木々の影が、まだ頼りなく地面に落ちている。
夜気は少し冷えたが、今はむしろその冷たさがありがたかった。胸の内にまだ残る熱を、少し冷ましてくれる気がしたからだ。
私は、膝の上で手を重ねた。
今日までのことを思い返す。
御世継ぎ。
側室。
女人の掟。
“解禁”などと、家臣どもが勝手に騒いだことまで含めれば、たった数日の間にずいぶんといろいろなことが起きた。
正室として、間違ってはいないつもりだった。
放っておけば乱れる。だから整理した。
曖昧にしておけば、外から好き勝手な名をつけられる。だから形を与えた。
家を守るために必要なことをした。その理は、自分でも分かっている。
だが、理が通っていれば、それで心がすべて静まるわけではない。
私は本当に、これで良かったのだろうか。
真琴様を独り占めしたい気持ちは、消えていない。
いくら正室として堂々と振る舞っても、その内側にいる私は、やはり真琴様を「夫」として欲している女だ。
桜子たちが自然に世話を焼けば胸のどこかがざわつき、お初がつんとしながらも気にかければ気になり、お江が遠慮なく甘えるたびに、あの子相手だと分かっていても複雑なものが残る。
けれど、だからといって彼女たちを遠ざければ、この家の温かさもまた崩れる。
桜子たちは、もうただの侍女ではない。
お初とお江も、ただの「妹」では済まぬほど、この城の空気に深く混ざっている。
母上様も、政道殿も、皆それぞれ違う形で黒坂家の内へ根を下ろし始めている。
それを切り捨てることが、本当に“勝つ”ことなのか。
……違う。
たぶん違うのだ。
だが、違うと頭で分かっても、心がすぐにそれへついてくるわけではない。
私は月の白さを見ながら、自分の中にまだ残る小さな嫉妬を、どう扱えばよいのか考えていた。
「御方様」
後ろから、静かな声がした。
振り向くと、桜子が少し離れたところで膝をついていた。
いつものように、控えめで、けれど逃げぬ目をしている。
「どうしたのです」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「構いません。お入りなさい」
桜子は、縁側の端へそっと寄った。
私の真正面ではなく、少し斜めに座るその位置が、いかにも桜子らしい。
しばらく沈黙があった。
桜子は言葉を選んでいるようだった。
やがて、静かに頭を下げる。
「御方様」
「はい」
「このたびは、私どものためにお心を煩わせてしまい、申し訳ございませんでした」
その言い方に、私は少しだけ目を細めた。
桜子は、自分たちが責められたとは思っていない。けれど、自分たちの存在が私の胸に波を立てたことは、ちゃんと理解している。
「桜子」
私は、努めてやわらかく言った。
「あなたたちを責めるつもりはありません」
「はい。……ですが、それでも、御方様がおられるからこそ、私たちはこの家にいられます」
その言葉に、私は息を止めた。
桜子は顔を上げた。
その瞳は、まっすぐだった。
「御主人様が拾ってくださったことは、何よりの恩にございます。けれど、それだけでは家にはなりません。御方様がいて下さるから、私たちは“黒坂家の中の者”として立っていられます」
私は、言葉を返せなかった。
桜子は続けた。
「私たちは御主人様をお慕いしております。でも、それは御方様を差し置くものではございません。むしろ、御方様がおられるから、安心して御主人様を支えられるのです」
そこまで言って、桜子はまた深く頭を下げた。
「どうか、私たちをこの家の隅に置いて下さいませ。そこできちんと働きます。御方様のお定めになった形の中で、家を支えとうございます」
私は、しばらく何も言えなかった。
胸の奥に残っていた小さな痛みが、ゆっくりと形を変えていくのを感じたからだ。
嫉妬が消えたわけではない。けれど、桜子の言葉は、その嫉妬の上へ、別のものを静かに積んでいった。
信頼。
委ねられているという重み。
そして、真ん中に立つ者としての責任。
「……顔を上げなさい、桜子」
私がそう言うと、桜子は静かに顔を上げた。
「私も、あなたたちをこの家の隅へ追いやりたいわけではありません」
自分の声が、思ったよりも落ち着いていることに少し驚いた。
「追いやれば簡単です。ですが、それでこの家が強くなるとは思えぬ」
桜子の目が、少しだけ揺れた。
「だから、あなたたちはここにいなさい。ただし、きちんと秩序の中で」
「はい」
その返事は、いつものように素直で、そしてどこか嬉しそうでもあった。
桜子が下がると、今度は足音を忍ばせる気もない音が近づいてきた。
「……姉上様」
お初である。
柱の陰から半分だけ顔を出し、こちらを窺っている。
まったく、こういうところだけは子どものようだ。
「入ってきなさい」
「別に、隠れてたわけじゃないわよ」
「聞いておりましたね」
「……少しだけ」
少しどころではあるまい。
お初は、いかにも不本意そうな顔で縁側の反対側へ座った。桜子ほど慎ましくもなく、お江ほど無遠慮でもない、その中途半端さが実にお初らしい。
「何です」
私が問うと、お初はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「姉上様が真ん中にいるのは、当然よ」
あまりにもぶっきらぼうな言い方で、私は一瞬意味を取り損ねた。
「……どういうことです」
「どういうことも何も、そのままよ」
お初はそっぽを向いたまま言う。
「桜子たちも、お江も、たぶん私も。真琴の近くで勝手なことしていられるのは、姉上様がいるからでしょ」
私は、その言葉を静かに受けた。
「姉上様がいなかったら、もっと変なことになってたわよ、きっと。お江なんて際限ないし、桜子たちは遠慮しすぎるし、私は……」
そこで言葉が止まる。
「あなたは?」
「うるさい」
お初はまた顔を赤くした。
「とにかく、姉上様が真ん中にいるのは当たり前なの。だから、変に悩まないで」
最後の言い方だけ、少し優しかった。
私はその不器用さに、思わず小さく笑ってしまった。
お初はすぐにそれを見咎める。
「何よ」
「いいえ。ただ、あなたらしいと思っただけです」
「それ、褒めてないわよね」
「半分は」
お初は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
代わりに、少しだけ肩の力を抜いて座り直す。そういう時の沈黙は、姉妹として悪くないものだ。
そこへ、最後の乱入者が来た。
「姉上様ー!」
お江である。
もう隠れる気も探る気もない。
元気よく廊下を走ってきて、そのまま私の膝へ頭を乗せるようにして座り込んだ。
「お江」
「なに?」
「重いです」
「うそ」
うそではない。
だが、お江はそんなことお構いなしに、私の顔を見上げてにこにこと笑った。
「みんな姉上様が好きだから大丈夫だよ」
あまりにもあっけらかんと言うので、私は一瞬、言葉を失った。
お初が呆れたように言う。
「あなたって、本当に全部まとめるのだけは上手いわね」
「そう?」
「雑に、だけどね」
「でも本当でしょ?」
お江はまったく悪びれない。
「マコも好きだし、桜子ちゃんたちも好きだし、お初姉様も好きだし、母上様も好きだし、姉上様はもっと好き。だから大丈夫」
何がどう“大丈夫”なのか、理屈にすれば穴だらけだ。
けれど、不思議とその言葉は、私の胸の奥へすとんと落ちた。
皆の想いは、同じではない。
恋でも、忠義でも、家族愛でも、甘えでも、それぞれ違う。
だが違うからといって、必ず争うわけではない。
それを家の形へ変えられるなら、乱れではなく、力になる。
私は、お江の髪をそっと撫でた。
「……そうかもしれませんね」
「でしょ?」
お江は得意そうに笑った。
月は少し高くなっていた。
庭の木々の影も、先ほどより濃く地面へ落ちている。
私はその夜、ようやく心の中で一つの形を掴んだ。
正室として立つとは、勝つことではない。
誰かを押しのけ、誰かを屈服させ、独り占めして安堵することではない。
皆の想いが勝手な刃にならぬよう、受け止め、線を引き、家の秩序へ変えること――それが、私がこの城で担うべき役目なのだ。
ハーレムの中心にいるのは真琴様のように見える。
けれど、皆の想いが家へ変わるか、乱れへ変わるかを握っているのは、私なのかもしれぬ。
そのことを、私はようやく怖れずに受け止め始めていた。
「姉上様」
お初が、ぽつりと言った。
「何です」
「……変な顔してないで、ちゃんと立ちなさいよ」
私はくすりと笑った。
「ええ」
そう答えた時、私の中の何かが、少しだけ定まった気がした。
次はもう迷わない。
この家の真ん中に立つ者として、きちんと最後まで形にしてみせる。
そう思いながら、私は月明かりの下で、妹たちとしばし静かに座っていた。




