茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤⑨話・子を願う夜、家となる城
城じゅうが勝手に騒ぎ、女たちが妙に前のめりになり、家臣たちまで変に気を回し――その一つひとつに振り回されながら、結局最後に残るのは、夫婦二人の話なのだと私は思った。
その夜、囲炉裏の火はいつもより静かに見えた。
真琴様と向かい合って座る。
障子の外はもうすっかり静かで、湖から来る風の音だけが、板戸の向こうで低く鳴っている。
昼間までの騒がしさが嘘のようだった。
けれど、静かだからこそ、誤魔化せぬ。
私は膝の上で手を重ね、ひとつ息を整えた。
正室として言わねばならぬことなのか。
女として言いたいことなのか。
その両方が胸の内で絡まり、しばらく言葉にならなかった。
真琴様が、先に口を開いた。
「茶々」
「はい」
「……跡継ぎは、必要だと思ってる」
私は顔を上げた。
真琴様は、いつものように軽く笑ってはいなかった。真っ直ぐこちらを見ていた。
「家がここまで大きくなった以上、たぶん避けて通れない話だし、家臣たちが気にするのもわかる。信長様だって、どこかでは見てると思う」
「はい」
「でも」
真琴様は、囲炉裏の火を少し見てから続けた。
「焦りや周りの圧で作るものじゃないとも思ってる」
その言葉に、私は静かに耳を澄ませた。
「“家のためだから急げ”とか、“跡継ぎがまだだから誰かを増やせ”とか、そういう話になった瞬間、なんか違うって思うんだよ。もちろん、家のことを考えるのは大事。でも、子どもって、それだけで決めるものじゃない」
真琴様らしい言い方だと思った。
ふわりとしているようでいて、芯だけはぶれない。
私はしばらく黙っていたが、やがて胸の内にあるものを、ひとつずつ言葉へほどいていった。
「私は」
自分の声が少しだけ硬いのが分かった。
「最初、この話を“正室の役目”としてばかり見ておりました」
真琴様は何も挟まず、聞いておられる。
「黒坂家の家を残すこと。家臣たちに安心を与えること。義父様に対しても、家としての形を示すこと。……そういう理屈を先に並べていたのです」
「うん」
「ですが、それだけではありませんでした」
そこで私は、一度視線を落とした。
こういう言葉は、口にするのが思った以上に難しい。正室としての顔をしていれば、もっと簡単に言えると思っていた。けれど実際には、女としての心の方が先に熱くなって、喉が少し詰まる。
「それでも私は」
今度は、はっきりと言った。
「黒坂家の正室としてだけでなく、あなたの妻として、あなたの子を宿したい」
言い終えた瞬間、耳まで熱くなるのが分かった。
こんなにも真っ直ぐな言葉を、自分が口にするとは思っていなかった。
だが、言ってしまえば不思議と胸の内は静かになった。
逃げも隠れもない。本当にそう思っていたのだ。
真琴様は、ほんの少しだけ目を見開き、それから困ったように、でも嬉しそうに笑った。
「……それ、ずるいな」
「何がです」
「そんなふうに真っ直ぐ言われたら、俺の方が照れる」
「私だって十分恥ずかしいのです」
私がそう言うと、真琴様は声を立てずに笑った。
その笑いが、今夜は不思議と軽く聞こえなかった。きちんと受け止めた上で、ほどよく私の緊張をほどこうとしている笑いだった。
「茶々」
「はい」
「ありがとう」
その一言が、胸に深く落ちた。
家の話であり、夫婦の話でもある。その二つがようやく同じ場所へ重なった気がした。
真琴様は少し身体をこちらへ寄せ、静かな声で続けた。
「黒坂家のことはもちろん大事。跡継ぎのことも、考えないわけじゃない。でも、それを茶々と一緒に考えられるのは、俺にとってちゃんと意味がある」
私はその言葉を聞きながら、あぁ、この方はやはりずるいと思った。
私が勇気を振り絞って言ったことを、こうも自然に、温かく返してくるのだから。
「では……」
私は小さく息を吸った。
「今夜は、家のためでもあり、夫婦のためでもある夜ということですね」
「うん」
真琴様は素直に頷いた。
「それが一番いいと思う」
その後のことを、私はここであれこれ書くつもりはない。
ただ、湯殿の薬湯はたしかに温かく、寝所の灯りはお初が口を出しただけあって明るすぎず暗すぎず、布団は桃子が妙に張り切ったせいで少しばかりふかふかしすぎていた、ということだけは記しておこう。
そして、その夜の私の胸には、恥ずかしさも、緊張も、覚悟も、どれも確かにあった。
けれどそれ以上に、「ようやくこの話を真琴様と同じ場所で受け止められた」という安堵があったのだ。
翌朝。
目を覚ました瞬間、私はまず「今日一日どういう顔をして過ごせばよいのだろう」と思った。
我ながら情けない。
だが、昨夜が昨夜である。多少は許されたい。
真琴様は私より先に起きておられたらしく、寝所の外で小さく咳払いする声がした。たぶん、外へ出るに出られず、こちらが整うのを待っておられるのだろう。
その気遣いが妙に可笑しく、私は一人で少しだけ笑ってしまった。
身支度を整え、食事の間へ向かう。
すると、そこには見事なまでに“気を遣いすぎた空気”が漂っていた。
桜子はいつもならすぐ目を合わせて「おはようございます」と言うのに、今日は汁椀ばかり見ている。
梅子は焼き魚を返しながら、なぜかこちらに背を向け気味である。
桃子は飯櫃を抱えたまま、廊下の柱を見ていた。
「……おはようございます」
私が言うと、三人が一斉にびくりとした。
「お、おはようございます、御方様」
「おはようございます」
「おはようございますです……」
揃っているのに、妙によそよそしい。
私はしばらく三人を見つめ、それから静かに言った。
「なぜ誰も、私の顔を見ないのです」
桜子が、意を決したように顔を上げた。
そしてすぐまた伏せた。
「いえ、その……御方様が、お綺麗で」
「朝から苦しい言い訳はやめなさい」
私がぴしゃりと言うと、桃子が「はう」と小さく声を漏らした。
梅子にいたっては、耳まで赤い。
――これは、想像以上に気まずい。
そこへお初が来た。
来たは良いが、襖のところで一度止まり、明らかに入るかどうか迷っている。
私は額に手を当てたくなった。
「お初、入りなさい」
「う、うん……」
入ってきたものの、目が合わない。
しかもいつもの勢いがない。
「……おはよう、姉上様」
「おはようございます。なぜこちらを見ないのです」
「別に」
「別に、ではありません」
お初はしばらく唇をもごもごさせていたが、やがて観念したように言った。
「……昨日、廊下にいたの、ばれてた?」
「ええ、だいたい」
「……そう」
それだけ言って、また黙る。
普段は口数が多いくせに、こういう時に限って静かになるのだから厄介だ。
そして、その妙な空気を完膚なきまでに壊したのがお江だった。
「姉上様ー!」
元気よく飛び込んできたと思ったら、私の前でぴたりと止まり、満面の笑みでこう聞いた。
「赤ちゃんできた?」
私は箸を落としそうになった。
お初が盛大にむせ、桜子たちは揃って固まり、桃子は飯櫃を抱えたまま小さく跳ねた。
そこへ、ちょうど入ってきた真琴様が、戸口でぴたりと止まる。
「お江」
私は努めて静かに言った。
「朝一番に言うことではありません」
「だって気になるじゃん」
「気になっても、まずは挨拶です」
「はーい。おはよう」
「おはようございます」
もう、どうしようもない。
真琴様は咳払いを一つして、何事もなかったように上座へ座そうとした。
だが耳が少し赤いので、何事もなくはない。
私はその様子を見て、思わず胸の内で息をついた。
気まずい。たしかに気まずい。
けれど、不思議と嫌な気まずさではなかった。
食事の間に漂うのは、変な遠慮と、妙な優しさと、皆が同じことを知っているという共有の気配。
それは照れくさくはあるが、どこか明るく、やわらかい。
母上様が少し遅れて入ってこられた時には、もうその空気を一目で察しておられたらしく、何も言わず、ただ少しだけ口元をゆるめて席に着かれた。
私はその瞬間、ようやく肩の力を抜いた。
朝餉が進むにつれ、少しずつ皆の動きも戻ってきた。
桜子はいつものように汁を足し、梅子も魚を勧め、桃子も「御方様、ご飯おかわりなさいますですか」と、ようやく目を見て聞いてくるようになる。
お初もまだ少しだけ顔を赤くしていたが、二杯目の汁を取る頃にはだいぶいつもの調子を取り戻していた。
そしてお江だけは、最後まで何ひとつ変わらなかった。
「赤ちゃんできたら、お江が最初に抱くからね」
「まだその話をするのですか」
「だって楽しみだもん」
真琴様がそこで、いかにも困ったように笑った。
「気が早いって」
「早くないよ。黒坂家の一大事だよ」
……まったく、その通りなのがまた困る。
だが私は、もう朝のように狼狽えはしなかった。
昨夜、真琴様ときちんと話せたことが、私の中に一本の芯を作ってくれたのだろう。
子が宿るかどうかは、まだ分からぬ。
それは天の計らいもあろうし、人の思う通りにならぬこともある。
けれど、もしこの先、ここに新しい命が宿るなら――それはただ政略の証ではない。
私は湯気の向こうにいる皆の顔を見た。
桜子たちの、家族を思うようなまなざし。
お初の、不器用なままこちらを気にする顔。
お江の、何の屈託もない明るさ。
母上様の、すべてを包むような静けさ。
そして真琴様の、照れくさそうにしながらも、ちゃんとここにいる顔。
黒坂家は、ただ勢いで大きくなる家ではない。
家族になろうとする者たちの想いまで抱えて、大きくなっていく家なのだ。
だからもし、新しい命がこの城へ来るとしたら。
それは官位や家督のためだけのものではない。
この城が“家”になった証として来る命なのだろう。
私はそう確かに思った。
その朝、食事の間の空気は相変わらず少しばかり気まずく、妙にやさしく、そしてどこか明るかった。
それは黒坂家らしい、実に騒がしくて、実に温かな朝であった。




