茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤⑧話・側室の話はやめなさい――茶々、正室として立つ
あの夜、ようやく夫婦として真正面から向き合う覚悟を決めたというのに、世の中というものは、こちらが一歩進めば二歩先の騒ぎを勝手に起こすらしい。
それを最初に知ったのは、朝の食事の間だった。
私はいつものように少し早く起き、身支度を整えて食事の間へ向かった。囲炉裏にはすでに火が入っており、桜子が汁を見て、梅子が焼き魚を返し、桃子が飯櫃を抱えている。何も変わらぬ、黒坂家の朝――のはずであった。
だが、私が襖を開けると、そこに妙な静けさが落ちた。
桜子が、ぴたりと手を止める。
梅子が、焼き魚をひっくり返しそうになって慌てて立て直す。
桃子にいたっては、なぜか飯櫃ごと固まった。
私はその空気を一瞬で悟った。
――何かあった。
「……何です、その顔は」
私がそう言うと、三人は顔を見合わせた。
桜子が、もっとも“何でもありません”と言いそうな顔で口を開いた。
「いえ、その……」
「桜子」
「はい」
「隠しごとをする顔ではありません」
そうぴしゃりと言うと、桃子が先に耐えきれなくなった。
「御方様、御世継ぎのことなのです……!」
その一言で、私は少しだけ目を細めた。
やはり、そこか。
「続けなさい」
「朝早くから、城内の若い衆が、もし御世継ぎが遅れれば、その、いずれは……」
桃子がそこで急にしどろもどろになる。
代わって梅子が小さな声で言った。
「……側室の話が出ております」
私は、その場で息を一つだけ深く吸った。
そうか。ついに来たか。
来るかもしれぬとは、頭のどこかで思っていた。武家の家である。家が大きくなり、官位が上がり、跡継ぎの話が出れば、次に出るのは自然とそういう話なのだ。
分かっている。
分かってはいる。
だが、分かっていることと、胸へ刺さることは別だ。
私は何でもない顔をして、囲炉裏のそばへ座した。
「……誰が言い出したのです」
「はっきりした発信元は……」
桜子が言いにくそうにする。
「べつに悪意のある言い方ではございませんでした。ただ、その……“武家として当然”と」
私はそこで、ふっと笑ってしまった。
笑ったといっても、愉快だからではない。あまりに“らしい”話だったからだ。
悪意はない。
ただの常識。
それが、一番厄介で、一番人を傷つける。
「そう」
私はそれだけ言った。
だが胸の内は、少しも穏やかではなかった。
その日一日、私は表向き何も変えなかった。
政所へ出れば帳面を見る。
母上様の御殿へ顔を出せば、いつも通り穏やかに話す。
真琴様と顔を合わせれば、従三位中納言の御方に向けるべき顔で笑む。
だが、心の内には小さな棘が一本、ずっと刺さったままだった。
側室。
その言葉が、思いのほか鋭い。
いや、言葉そのものというより、その先にある絵が鋭いのだ。
私は正室である。
黒坂家の御方様であり、表に立つ妻であり、家の内を整え、母上様と妹たちを繋ぎ、侍女や家臣をまとめる立場にある。
それは誇りだ。揺るがぬ。
だが同時に私は、女でもある。
真琴様の隣にいたいと願い、真琴様が他の女へ向ける視線を思うだけで、胸の奥が静かに熱くなる女でもある。
そして困ったことに、黒坂家の“女”たちは皆、真琴様に近い。
桜子三姉妹は幼い頃から仕え、生活の隅々まで知っている。
お初は口ではつんとしながら、何かと気にかける。
お江は言うまでもなく、遠慮という言葉を知らぬ距離感で飛びついてくる。
私は初めて、はっきり思い知った。
自分は正室でありながら、同時に“ハーレムの中心に立つ女”でもあるのだ。
なんと腹立たしく、なんと情けない認識だろう。
だが、それを認めた瞬間、胸の内のもやは少しだけ形を持った。
私は嫉妬しているのだ。
そのことを認めるのは悔しかったが、認めねば自分を見誤る。
正室の誇りだけで立っているつもりでいた。だが、恋する女としての私は、思った以上に狭量で、思った以上に真琴様を欲しているらしい。
その日の夕刻、騒ぎはさらに広がった。
というより、お江によって爆発した。
お初が湯殿の前で桜子たちに何やら言っていた時のことだ。私はちょうど廊下を曲がったところで、その声を聞いた。
「だから、私は別に側室になるとかそういう話じゃないって言ってるでしょ!」
私は足を止めた。
お初が、真っ赤になっている。
桜子も梅子も桃子も、これまた顔を赤くして手をぶんぶん振っていた。
「お初様、そのようなつもりは!」
「わ、私どももございません!」
「ないです、ないのです!」
……何をやっているのだ、この者たちは。
私が近づくと、お初がこちらを見て、さらに怒った顔になった。
「姉上様! ちょうどいいところに!」
「何がちょうどいいのです」
「誰が側室よ!」
私は思わず額へ手を当てた。
「いきなり何です」
「城内の女中が、ちらっと言ったのよ。“御世継ぎが遅れたら、いずれは城中からも……”とか何とか! 誰がそんな、あの寒がり男の側室なんか!」
言ってから、お初は自分で“寒がり男”と言ってしまったことに気づいたのか、妙に悔しそうな顔をした。
桜子が慌てて弁明する。
「御方様、私ども、そんなつもりは本当にございません!」
梅子も続く。
「御主人様は大切でございますが、それはあくまで御主人様としてで!」
桃子まで必死である。
「お方様がおられるのに、そんな……! わ、わたしたち、家族です!」
その“家族”という言葉が、また私の胸を少しだけ痛くした。
そうだ。彼女たちは敵ではない。敵ではないのだ。分かっている。分かっているから、なおさら、自分の嫉妬が恥ずかしい。
そこへ、お江が最悪の一言を投げた。
「え、みんなで仲良くじゃだめなの?」
場が凍った。
お初が絶句し、桜子たちは揃って固まり、私は一瞬本気で天を仰ぎたくなった。
「お江」
私はできるだけ静かに言った。
「今すぐ黙りなさい」
「えー、でも――」
「今すぐ、です」
お江は頬を膨らませたが、私の顔がよほど本気だったのか、珍しく口を閉じた。
お初はまだ怒っていた。
「っとに、何なのこの城! 家臣も侍女も勝手に先走りすぎ!」
私は小さく息をつき、それから全員を見た。
「よく聞きなさい」
声を改めると、皆がぴたりと静まった。
「世継ぎの話が出るのは、武家として当然です。だからといって、女を数の話のように扱うのは許しません」
自分でも驚くほど、声は冷静だった。
たぶん、その冷静さこそが、今の私に必要だった。
「お初、あなたもです。感情のまま怒鳴れば、余計に話が広がります。桜子たちは悪気で騒いだのではないのでしょうが、口を軽くしすぎました。お江は……あとで話があります」
「えー」
「あります」
「はい……」
ようやく、その場は収まった。
だが、私の胸の内は少しも収まっていなかった。
夜。
私は真琴様の部屋へ向かった。
話さねばならぬ。今夜こそ。逃げるのはもうやめだ。
真琴様は囲炉裏のそばにおられた。書付を見ていたが、私の顔を見るなり手を止める。
「茶々。どうしたの、なんか顔が怖い」
私はその向かいへ座した。
「お尋ねしたいことがあります」
「うん」
真琴様は、少しだけ姿勢を正した。
この方は、私が本気の時だけは、ちゃんと気配を変える。
私は、回りくどいことを言わなかった。
「御世継ぎのためなら、誰でも抱くおつもりですか」
自分で言って、胸の内がひどく熱くなった。
正室としての問いである。だが同時に、恋する女としての問いでもあった。
真琴様は、露骨に目を見開いた。
「……え?」
「聞こえませんでしたか」
「聞こえた。聞こえたけど、茶々、急にど直球だね……」
私は引かなかった。
「お答え下さい」
真琴様はしばらく黙っていた。
驚いているのか、言葉を選んでいるのか、最初は分からなかった。けれどやがて、その目がまっすぐ私を見た。
「抱かないよ」
その返答は、あまりに即座で、私は逆に少しだけ息を止めた。
「子を成すのは、たしかに家のためでもある」
真琴様は続けた。
「でも、女を駒扱いするためじゃない」
私はその言葉を、黙って受けた。
「誰でもいいから、早く、たくさん、っていうのは、俺が一番嫌うやり方だよ。子どもを作ることが家の話でもあるのは分かってる。でも、だからって女の心も体も、道具みたいに数えたくない」
真琴様の声は穏やかだった。
だが、その穏やかさの奥に、はっきりとした線があるのが分かった。
「茶々がいるのに、他へ向かうのも違うと思ってる。……というか、普通に嫌だし」
最後の一言が、妙に真琴様らしくて、私は一瞬だけ力が抜けそうになった。
けれど、そこで泣いたり笑ったりしてしまっては、今夜の問いの意味が軽くなる気がした。私はただ、静かに問う。
「では、もし家中が“それが武家の常識だ”と言えば?」
「言わせとけばいいよ」
あっさりと言う。
「家のためって言葉、便利だけど乱暴にも使えるから。俺はその乱暴さが嫌なんだ。……茶々、もしかして、結構気にしてた?」
私は、少しだけ目を伏せた。
気にしていた。
ひどく気にしていた。
嫉妬もしたし、腹も立ったし、自分が正室でありながら、こんなにも“女”の顔をしてしまうことも悔しかった。
だが、それを全部言葉にするのは、まだ少し恥ずかしかった。
「……正室として、聞いておかねばならぬことでした」
私はそう返した。
真琴様は少しだけ笑った。
「うん。じゃあ、正室として答えると――茶々以外を駒みたいに増やす気はない」
その言葉に、私は救われた。
だが同時に、胸の奥に別の思いも浮かんだ。
桜子たちも、お初も、お江も、母上様も、政道殿も――皆この城の内側にいる。家族になりつつある。だからこそ、誰か一人を“ただの駒”に落とすようなことを、真琴様は本気で嫌うのだろう。
それは、この方の優しさだ。
けれど、ただ甘いだけではない。嫌なものは嫌と線を引ける強さでもある。
私はようやく、少しだけ笑えた。
「……お江は“みんなで仲良く”でも良いのではなどと申しておりました」
真琴様が本気で嫌そうな顔をした。
「それは絶対にだめ」
思わず、私も肩を震わせた。
こうして笑えるなら、たぶんもう大丈夫だ。
嫉妬も、不安も、誇りも、全部ひっくるめて私は私のまま、真琴様の隣にいられる。
その夜、私は初めて、正室としての顔の奥にいる“恋する女”を、隠しきれずに真琴様へ見せてしまったのだと思う。
そして真琴様は、それを笑わず、まっすぐ受け止めてくれた。
それだけで十分だった。
十分すぎるほど。




