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茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤⑦話・今宵こそ――御殿総出の“夫婦の夜”大作戦

 その日の昼、私はついに腹を括った。


 いや、正しくは――腹を括らざるを得なくなった、というべきかもしれぬ。


 ここ数日、大津城の空気は妙にそわそわしていた。

 台所では桜子たちが山芋や卵や鶏をやたらと使いたがり、母上様は穏やかな顔で何も言わぬくせに、こちらを見る目だけが少しだけ優しい。お初は「別に急かしてるわけじゃないけど」などと言いながら、気づけば寝具や灯りの話をしてくるし、お江にいたっては朝から晩まで「赤ちゃんできた?」「今日?」とうるさい。


 うるさい。

 とにかく、うるさいのである。


 けれど、それらを全部払いのけて知らぬふりを続けるには、私はもう黒坂家の正室という立場に深く入りすぎていた。


 世継ぎの話は、ただ人が面白がって囁く噂ではない。

 家の安定、家臣の心の寄る辺、そして何より――真琴様と私が、夫婦として本当に“家”を成すかどうかに関わる話だ。


 だから、その日の昼、政所から戻られた真琴様の横顔を見ながら、私は心の中で静かに決めた。


 今宵こそ、きちんと話そう。

 逃げず、逸らさず、夫婦として一歩進もう。


 そう決めた時は、たしかに静かな覚悟だった。


 ……まさかその覚悟が、城中に筒抜けになるとは思わなかったが。


 事の始まりは、私が桜子へ一言告げたことだった。


「今夜は、真琴様の湯殿の支度を少し早めなさい」


 ただ、それだけである。


 別に“その先”を言ったわけでもないし、“察しなさい”と命じたつもりもない。

 だが桜子は、ほんの一瞬目を見開いたあと、妙に引き締まった顔で「はい」と答えた。


 その“はい”が、まず良くなかった。


 嫌な予感はした。

 したが、まさかここまでとは思わなかった。


 夕刻、湯殿の前を通ると、何やら湯気がいつもより濃い。

 戸を少し開けて覗けば、桜子が桶の並びを整え、梅子が何やら布袋を湯の端へ置き、桃子が湯浴みをふわふわと畳み直していた。


「……何をしているのです」


 私が問うと、三人が一斉に振り向いた。

 そしてなぜか、全員の目がきらきらしていた。


「御方様」


 桜子が、やたらときびきびした声で答える。


「今宵の湯殿は、完璧に整えてございます」


「完璧、とは?」


「薬湯を少し。体を温め、血の巡りを良くし、疲れを和らげるように」


 梅子がすかさず補足する。


「香りは強すぎず、ほのかに。心を落ち着かせる程度に」


 桃子まで、胸を張っている。


「湯上がりのお着替えも、すぐ手に取れるよう並べましたです」


 私は、そこでようやく理解した。


 こいつら、完全に“今夜”を成功させる気でいる。


「待ちなさい」


 私は一歩中へ入った。


「誰が、そこまで大仰にしろと言いました」


 桜子はきょとんとした顔で言う。


「ですが、御方様」


「ですが、ではありません」


「今宵は……」


 そこで桜子は口をつぐんだ。

 だが、続きは言わずとも顔に書いてある。


 私は頬が熱くなるのを自覚しながら、なるべく平静に言った。


「湯殿は、いつも通りでよろしい」


「いつも通りでは、もったいないかと」


「何がです!」


 思わず声が上ずった。

 梅子と桃子が一斉に目を伏せる。桜子だけが、真面目な顔のまま困っていた。


「御方様……黒坂家の一大事にございますゆえ」


「一大事だからこそ、騒ぐなと言っているのです!」


 そう叱ったが、まったく効いている気がしない。

 三人とも、“怒られている”顔ではなく、“緊張感が高まった”顔をしていた。


 だめだ。

 これはもう、私が何を言っても駄目な顔である。


 私は頭痛を覚えつつ、湯殿をあとにした。


 ……そして、その先でお初に捕まった。


 「姉上様、ちょうど良かった」


 そう言って、お初は廊下の陰から現れた。

 なぜ陰にいたのか。問いただしたい気持ちはあったが、顔つきからしてろくでもない用件だと分かったので、私はまず深呼吸した。


「何です」


「別に応援してるわけじゃないのよ」


「はい」


「でも、雰囲気って大事だと思うの」


「……はい」


「寝所の灯り、明るすぎると落ち着かないし、暗すぎると危ないし」


 そこまで聞いて、私はゆっくり目を閉じた。

 やはり来た。


「お初」


「な、何よ」


「あなたは、なぜその話を私にするのです」


「そ、それは……っ、だって、母上様も言ってたし、桜子たちは絶対やりすぎるし、姉上様はこういうの案外そのまま受けるし」


 お初は言いながら自分で赤くなっていった。

 耳まで真っ赤である。そこまで羞じらうなら最初から来なければよいのに、と思う。


「私は行かないわよ」


 お初は腕を組んで言った。


「行かない?」


「寝所に、よ。見届けるとか、そういうの、絶対しないから」


「当然です」


「でも、廊下の灯りくらいは見ておく」


「お初」


「べ、別に心配してるわけじゃないの! 姉上様が暗いところで転んだら困るだけ!」


 最後には半ば叫ぶように言って、お初はそのまま走り去ってしまった。


 ……この城は、なぜ皆、私の覚悟より先に盛り上がるのだろう。


 さらに悪いことは重なる。


 食事の間へ行けば、お江が待ち構えていた。


「マコ!」


 いきなり真琴様へ飛びつく。


「今夜は逃げちゃだめだよ!」


 真琴様が、まるで槍でも飛んできたかのような顔をした。


「お江!?」


「だって逃げそうだもん!」


「逃げないし、そもそも何の話!?」


「えっ、子――」


「言わなくていい!」


 私が止めるより早く、真琴様が止めた。

 顔が見事なまでに赤くなっている。官位の話でも信長公相手でもここまで動じぬのに、なぜこの話になると、こうも露骨に挙動不審になるのか。


 お江は頬を膨らませた。


「でも大事なことでしょ?」


「大事だけど、みんなで大声で言うことじゃないから!」


「えー」


 その様子に、私は羞恥と呆れと、なぜか少しの可笑しさまで込み上げてきて、いっそ笑い出したくなった。

 だが笑えば負ける気がしたので、必死で堪えた。


 ……しかし、まだ終わらぬ。


 夕餉が終わり、ようやく静かになるかと思った頃――政道殿が帳面を抱えて現れた。


「御大将、宗矩様より、明朝の確認を」


 私はその時、本気で頭を抱えそうになった。


 政道殿が悪いわけではない。悪いわけではないのだ。

 だが、間が悪すぎる。


 真琴様も「あ、うん」と手を伸ばしかけた、その瞬間。


 すっ、と障子が開いた。

 柳生宗矩である。


 いつもの無表情のまま、政道殿の手から帳面を回収した。


「政道殿、それは今でなくてよい」


「……は?」


 政道殿が初めて見るほど素で戸惑っている。


 そこへ、今度は真田幸村まで現れた。


「御大将、今夜は政務を入れませぬ」


「いや、幸村、それ言わなくていいかな!?」


 真琴様が本気で焦った。


 幸村は真顔のまま続ける。


「城内、何事も起こさぬよう配下に申しつけてあります」


「余計な気遣いがすごい!」


 政道殿はようやく事態を察したらしく、一気に耳まで赤くなった。


「も、申し訳ございません! 自分は何も見ておりませぬ!」


「見てないのに何も見てないって言うのも変だから!」


 真琴様のつっこみが冴え渡る。

 私はもう、恥ずかしさのあまり声も出ない。顔が熱いどころか、たぶん湯殿の湯より熱くなっていた。


 宗矩は無表情のまま一礼した。


「では、御大将」


「だからその“では”が何なの」


「良き夜を」


「宗矩!」


 幸村も深く頭を下げた。


「御武運を」


「今夜それ使う!?」


 政道殿にいたっては、もはや顔を上げられぬまま、「失礼いたします!」と逃げるように去っていった。


 障子が閉まる。


 静寂。


 そして私は、とうとう両手で顔を覆った。


「……もう、嫌です」


 真琴様が小さく咳払いした。


「うん、わかる。俺も嫌」


「嫌なのに、なぜ皆こうも前向きなのです」


「茶々、それはたぶん、みんなが黒坂家のことを本気で考えてるから……」


「分かっております!」


 分かってはいる。

 分かっているからこそ、逃げられぬ。


 これはただのからかいでも悪ふざけでもない。

 家中総出で、“夫婦の夜”を支えようとしているのだ。

 ――支え方が盛大に間違っているだけで。


 その後、私は湯殿へ入った。


 案の定、薬湯の香は絶妙、湯加減も絶妙、湯上がりの着物は手を伸ばせば届く位置、髪を拭く布は温められ、廊下には冷気が入り込まぬよう几帳まで置かれていた。


 完璧すぎた。


 完璧すぎるがゆえに、逆に恥ずかしい。

 ここまで“用意されている”と、何も起こらぬ方が申し訳ないではないか。

 ……いや、私は何を考えているのだ。


 湯から上がると、桃子が妙にやさしい目で頭を下げた。


「御方様、寝所の支度も整っております」


「そうでしょうね……」


「布団、ふかふかです」


「言わなくてよろしい!」


 桃子は「はう」と肩をすくめたが、顔には少しも悪気がなかった。


 寝所へ向かう廊下は、灯りが不自然なほどちょうどよかった。


 明るすぎず、暗すぎず。

 しかも曲がり角のたびに、誰かの気配がする。


 「……お初」


 私が呼ぶと、柱の陰からぎくりと姿が現れた。


「な、何よ」


「私は行かない、と言っていたのでは」


「行ってないわよ、廊下にいるだけ」


「一番最後までいるおつもりですか」


 お初は口をもごもごさせ、それから小さく言った。


「……暗いと危ないし」


 私はもう何も言わなかった。

 言えばまた、お初が赤くなるだけだと分かっていた。


 寝所の前まで来ると、お江まで潜んでいた。


「姉上様!」


「なぜいるのです!」


「応援!」


「不要です!」


 私はお江の額を軽く押して下がらせた。

 向こうでは母上様の侍女が、お江を回収しようとしている。どうやら本当に城中がこちらを見守っているらしい。


 ……黒坂家全体に見守られている初夜のやり直し。

 そんな言葉が頭をよぎり、私はいよいよ倒れたくなった。


 だが、寝所の襖を開けた先は、意外なほど静かだった。


 灯りは柔らかく、香はほのか。

 布団はたしかに妙にふかふかだったが、もうそこへつっこむ元気はなかった。

 真琴様は先に入っておられ、私を見ると、これまでの騒ぎを全部どこかへ置いてきたような顔で立ち上がられた。


「茶々」


 その一声で、私の中の騒ぎが少しだけ収まる。


「……はい」


「今日は、その、周りがすごかったね」


「ええ、すごうございました」


 思わず、二人で少しだけ笑ってしまった。

 可笑しいのだ。恥ずかしいのに、可笑しい。ここまで来ると、いっそ笑うしかない。


 真琴様は一歩近づいて、少しだけ困ったように、それでいて真っ直ぐに私を見た。


「でも、ちゃんと話そうと思ってた」


 私は胸の前で手を重ねた。


「私もです」


 ようやく、二人きりになれた。

 城中総出の騒ぎの果てに、ようやく。


 寝所の外にはまだお初がいるのではないか、お江が再突入しようとしているのではないか、そんな気配は確かにあった。けれど襖一枚隔てたこの部屋だけは、やっと夫婦の静けさを取り戻しつつあった。


 私は息を整え、真琴様を見た。


 今宵こそ。

 きちんと向き合おう。

 正室としても、女としても。


 そう思った時、胸の内の羞恥も怒りも覚悟も、ようやく同じ場所へ落ち着き始めていた。

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