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茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤⑥話・御世継ぎの話――城じゅうが急にうるさい

 大津城に春の気配が混じり始めた頃、黒坂家の内側はようやく落ち着きを見せていた。


 台所は朝から桜子たちの声で回り、政所では帳面がきれいに積み上がり、湯殿からは夕方になると女たちの笑い声が洩れる。政道殿も宗矩の補佐としてすっかり馴染み、母上様の御殿にも穏やかな空気が流れるようになった。


 こうしてみると、大津城はいつの間にか「新しい城」ではなく「暮らす城」になっていたのだとわかる。


 だからこそ――であろうか。


 家というものが落ち着きを見せ始めると、人は次のことを考え出す。


 それが、あの日の昼餉の席であった。


 食事の間には、いつものように囲炉裏が赤く、桜子が汁をよそい、梅子が焼き魚を並べ、桃子が飯櫃を抱えて歩き回っていた。真琴様は従三位中納言・常陸守というたいそう立派な官位を賜った御方であるにもかかわらず、その日もまた囲炉裏のぬくもりに半ば寄り添うように座し、湯気の立つ汁を前にして「今日はちょっと冷えるね」とのんきなことを仰っていた。


 母上様も同席し、お初もお江も揃っていた。


 穏やかな昼だった。


 穏やか――のはずであった。


 母上様が、ほんの何気ない顔で口を開かれるまでは。


「黒坂の家も、ここまで大きくなれば、次は世継ぎですね」


 私はその時、ちょうど汁を口に運ぼうとしていた。


 真琴様はちょうど茶を飲もうとしておられた。


 そして次の瞬間、真琴様は見事なまでに咳き込んだ。


「ぶっ、ごほっ、ごほっ……!」


 茶が少しばかり膳に飛び、私は思わず箸を止め、お初は「汚い」と顔をしかめ、お江は「マコ死ぬ!?」と大騒ぎを始める。


「死にません」


 私は即座に言った。


「桜子、手拭いを」


「はい、ご主人様」


 桜子がさっと手拭いを差し出し、梅子が背をさすろうと一歩出る。桃子にいたっては、なぜか梅干しの入った小皿を持ってきた。


「御主人様、酸っぱいの食べるとしゃきっとするのです」


「今そういう問題じゃないかな……」


 真琴様は涙目で言いながら、どうにか呼吸を整えた。


 私はというと、胸の内では一気に熱くなっていた。

 母上様の言葉はもっともである。もっともなのだ。もっともだからこそ、真正面から膳の上へ置かれると困る。


 世継ぎ。


 黒坂家の跡継ぎ。


 正室たる私が、いつか必ず向き合わねばならぬ話。


 頭では何度も分かっていた。だが、こうして何の前触れもなく昼餉の席で、それも皆の前で話されると、心の用意というものがまるで追いつかぬ。


 母上様は真琴様の狼狽を見ても、特に悪びれた様子なく続けられた。


「何をそんなに驚いておられるのです。大名家の話として、ごく自然なことでしょう」


「そ、それは、うん、そうなんだけど……」


 真琴様がしどろもどろになる。

 私はその様子を見て、内心で思った。


 ――この方、官位の話では少し偉そうにできるようになったのに、この手の話になると途端に駄目なのですね。


 従三位中納言・常陸守。

 その名だけ聞けば、どれほど堂々たる御方かと思う。

 だが実際には、世継ぎの話を振られただけで茶をこぼしかけるのである。世とは実に面白い。


 とはいえ、笑ってばかりもいられぬ。


 蒲生氏郷はその場にはいなかったが、近頃の家臣たちの空気を思えば、母上様だけがそう思っているわけではないと私にも分かっていた。宗矩も、氏郷も、幸村も、口にはせずとも「家中の安定には跡継ぎが要る」と考えているのが伝わってくる。

 それは当然だ。黒坂家はもう、ただ勢いのある新興の家ではない。信長公の信があり、城があり、家臣が増え、諸大名も目を向ける家になった。ならば次に問われるのは、「その先」なのである。


 ただ――その「その先」が、自分の身に繋がると思うと、胸の内が静かには済まぬ。


 お初が、なぜか少しだけ偉そうな顔で咳払いをした。


「べ、別に私は気にしてないけど、年齢的にはそろそろではあるんじゃないの」


 私はゆっくり顔を向けた。


「お初」


「な、何よ」


「気にしていない者は、そのような言い方をしません」


「してるわけじゃなくて、一般的な話よ、一般的な・・・・・・」


 お初は言い張ったが、耳が赤い。

 どうやら自分で言い出しておいて、自分で恥ずかしくなっているらしい。


 そこへ、お江が楽しげに手を挙げた。


「はい! 赤ちゃんできたら最初に私が抱く!」


「あなたは黙っていなさい」


 私とお初の声が綺麗に重なった。


 お江は少し頬を膨らませたものの、まるで懲りていない。


「だって、絶対かわいいもん。男の子かな? 女の子かな? 名前はね、うーん……」


「もう名前まで考えているのですか」


「うん! 男の子だったら“ちびマコ”!」


 真琴様が真顔になった。


「それはやめて」


「なんで?」


「なんででも」


 私は耐えきれず、少しだけ口元を押さえた。

 まったく、この妹は人の羞恥というものを一切考えぬ。


 だが、本当に困ったのはここからだった。


 その日の夕刻から、城中の空気が目に見えて変わったのである。


 まず、台所が妙に騒がしくなった。


 桜子たちが、いつも以上に真剣な顔で何事か相談しているのを見かけたので、私は不審に思って声を掛けた。


「何をしているのです」


 すると桜子が、いつになくきりりとした顔で答える。


「御方様、御主人様のお体を温め、精を養う献立を考えております」


 私はその場で固まった。


「……は?」


「山芋、卵、鶏、それに少し香辛を利かせた汁物も良いかと。梅子は、くず湯も滋養に良いのではと申しております」


 梅子がこくこく頷く。


「体を冷やさぬことが肝要かと」


 桃子まで真剣である。


「御主人様、寒がりですから、まずそこを何とかしないとです」


「待ちなさい」


 私は額に手を当てた。


「誰がそこまで話を進めてよいと言いました」


 三人は顔を見合わせ、それから一斉に頭を下げた。


「申し訳ございません!」


 だが、その謝り方にも妙な使命感がある。

 まるで黒坂家の一大事に台所方として立ち向かっているかのような顔つきだ。


「御方様」


 桜子が顔を上げた。


「黒坂家の御世継ぎは、私たちにとっても大事なことでございますゆえ」


 そう真顔で言われると、叱りづらい。

 叱りづらいが、だからといって許してよい話でもない。


「……だからといって、献立に妙な力を入れすぎるのはやめなさい」


「妙な力ではございません」


「今の顔がすでに妙です」


 私が言うと、桃子だけが少しだけ「はう」と肩を縮めた。

 しかし翌日から、膳の上に山芋や卵料理が妙に増えたので、まったく反省していない。


 そしてお初である。


 夜、廊下でばったり会ったと思えば、妙に落ち着かない顔で近寄ってきて、小声で言うのである。


「姉上様、あの……」


「何です」


「別に詳しいわけじゃないのよ。ただ、その……母上様が昔言っていたのだけど、香とか灯りとか、あと部屋の温かさって、だ、大事らしいわよ」


 私は一瞬、意味が分からなかった。


 だが次の瞬間、その意味に気づいて頬が熱くなった。


「お初」


「な、何よ!」


「あなたは、何を助言しているつもりです」


「じ、助言じゃないわよ! ただ、ほら、正室としてそのくらい知っておいた方が――」


 そこまで言って、お初自身が真っ赤になった。


「……やっぱり今のなし!」


 そう言い残して、逃げるように去っていく。

 私は廊下に一人取り残され、しばらく動けなかった。


 そして極めつけがお江である。


 翌朝、私が母上様の御殿へ顔を出すと、お江が紙を広げて待ち構えていた。


「姉上様! 名前候補書いといた!」


「まだ何も始まっておりません」


「でも、できた時に慌てないようにしないとでしょ?」


 紙を見ると、そこには本当に名がいくつも書きつけられていた。


 男子なら「政」「信」「小次郎」「勝」

 女子なら「春」「雪」「梅」「姫」

 そしてなぜか最後に大きく「ちびマコ」とあった。


「お江……」


「なに?」


「それは絶対に却下です」


「マコが喜びそうなのに」


「喜びません」


 と言い切ったところへ、当の真琴様が現れた。


「何の話?」


「何でもありません」


 私は即座に紙を取り上げたが、お江が先に叫ぶ。


「赤ちゃんの名前!」


 真琴様の足が止まる。

 その顔が、見事なまでに固まった。


「……え?」


「お江、黙りなさい」


「なんで? だって大事なことだよ?」


 真琴様は私とお江を見比べ、それから微妙に視線を泳がせた。


「いや、その、大事なのは、うん、そうだけど、名前ってそんな先走って決めるものなの……?」


 その“先走って”という言い方がまた、この方らしい。

 家中が前のめりで騒がしければ騒がしいほど、真琴様だけが妙に現実味を失うのだ。


 私は小さく息をついた。


 周囲は騒がしい。

 母上様は穏やかに微笑み、家臣たちは口にこそ出さぬが目を向け、桜子たちは献立へ力を入れ、お初は妙に半端な助言を寄越し、お江は名前まで考える。

 なのに肝心の夫は、ここへ来ると露骨にしどろもどろ。


 ……けれど。


 その夜、私は一人で灯りの下に座り、改めて思った。


 これは、ただ周囲が面白がっている話ではない。

 夫婦である以上、いつかは真正面から向き合わねばならぬことだ。

 黒坂家の家の話。

 正室としての私の役目。

 そして、役目だけではなく――真琴様との間に、確かな“家”を成したいという、女としての願いでもある。


 そのことを自覚した途端、私は昼間よりもさらに深く頬が熱くなるのを感じた。


 正室として堂々と考えるべき話。

 けれど、女としてはひどく恥ずかしい話。


 その二つの間で、私は初めて、本当に揺れ始めていた。

 そしてたぶん、これがただの思いつきや噂話で終わらず、黒坂家じゅうを巻き込む騒ぎの始まりなのだということも、もう薄々分かっていたのである。

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