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茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤⑤話・大津の城が抱くもの

 政道殿が大津城に残ってから、数日が過ぎた。


 最初の二、三日は、やはりどこかぎこちなかった。

 部屋を与えられても、座る位置一つに遠慮があり、侍女が茶を運べば「そこまでしていただかずとも」と立ち上がり、宗矩が帳面を見せれば「自分にはまだ」と一歩引く。


 けれど、そういう方は、一度役目を見つけると早い。


 政道殿は、柳生宗矩の補佐として文の整理を手伝うようになった。

 届く書状の差出人と中身を分け、城下からの訴えを日ごとにまとめ、真琴様があとで見やすいよう紙の並びを整える。右筆というほど大仰ではないが、文字を追い、人の言葉を崩さず、要るものと急がぬものを見分けるには、落ち着いた頭が要る。


 その役に、政道殿はよく馴染んだ。


 ある昼過ぎ、私は政所へ様子を見に行った。


 宗矩はいつものように無駄なく座しており、脇に積んだ書付を順にほどいている。真田幸村はその向こうで人の出入りを確かめ、蒲生氏郷からの使いが一人、返答を待っていた。

 そして、その少し下がった位置で、政道殿が静かに筆を走らせていた。


 「御方様」


 宗矩が気づいて頭を下げる。

 政道殿もすぐに立ち上がろうとしたが、私は手でそれを制した。


 「そのままでよろしい。何を書いておられるのです?」


 政道殿は少しだけ背を正し、手元の紙を差し出した。


 「城下より上がってきた炭の流通についての訴えを、日ごとにまとめております。同じような申し出が三度ありましたので、分けておいた方が御大将も見やすいかと」


 私は紙を受け取り、目を通した。

 字は丁寧で、余計な飾りがなく、行の流れも整っている。内容の拾い方も堅実だった。大仰な表現を削り、本当に必要なところだけを残している。


 「よくまとまっていますね」


 私がそう言うと、政道殿は少し驚いたようにこちらを見た。


 「ありがとうございます」


 その返しも、もう最初の頃のような“過ぎたる褒め”としての受け取り方ではない。

 評価を受け、それを役目の内として受け止めている顔になっていた。


 宗矩がいつもの無表情のまま言う。


 「政道殿は、口も目もよく働きます。余計なことは申さず、必要なことは落とさぬ」


 それは宗矩にしては、かなりの褒め言葉である。

 政道殿が少しだけ耳を赤くしたのを見て、私は内心で微笑んだ。


 「それはよろしい。真琴様のまわりには、余計なことを申す者がすでに足りておりますから」


 私がそう言うと、宗矩の背後で幸村が小さく肩を震わせた。

 誰を指しているか、皆分かっているのであろう。


 夕刻になり、政所の空気が少しゆるんだ頃、私は食事の間へ向かった。


 囲炉裏には火が入り、桜子たちがいつものように膳を整えている。

 真琴様はすでにおられ、足を崩して火のそばに寄り、「今日は指先が冷えるなぁ」と火鉢にまで手を伸ばそうとしていた。


 「真琴様」


 私が声を掛けると、真琴様は顔を上げた。


 「あ、茶々。おかえり」


 政道殿も、少し遅れて入ってきた。

 最近は、宗矩の補佐で食事の刻がずれることもあったが、真琴様が「せっかくなら一緒に食べれば?」と軽く言ってからは、こうして自然に同じ間へ入るようになっていた。


 最初こそ政道殿は遠慮して入口近くに座ろうとしていたが、今は桜子が迷いなく一つの膳を整え、梅子が湯気の立つ汁を置き、桃子が何も言わず茶碗を添える。


 もう、客の扱いではない。


 「政道殿」


 真琴様が魚の焼き具合を見ながら声を掛けた。


 「はい」


 「今日の帳面まとめ、助かったよ。炭の話、あれ一枚で大体わかった」


 政道殿は、すぐには返さず一度膳へ手を揃えた。


 「お役に立てたなら何よりにございます」


 「うん。ああいうの、俺が最初から全部読むと時間かかるから」


 あまりにも自然にそう言うので、私は箸を持つ手を少し止めた。

 真琴様は、人を“置く”のではなく“使う”。しかも、それを使われる側が重荷と思わぬ形で置いていく。


 お江はというと、すでに政道殿へすっかり懐いていた。


 「伊達の兄ちゃん、それ取って」


 いきなりそう言って、少し離れた小皿を指す。

 最初にその呼び方を聞いた時は、私は眉を寄せた。だが政道殿が困ったように笑いながら、


 「兄ちゃん、でございますか」


 と受けたので、そのまま定着してしまった。


 「はい、どうぞ」


 政道殿が小皿を差し出すと、お江は満足げに頷く。


 「ありがとう、伊達の兄ちゃん」


 「せめて政道殿と呼びなさい」


 私が言うと、お江は不満そうに頬を膨らませた。


 「だって兄ちゃんのほうが呼びやすいんだもん」


 お初はそのやり取りを聞きながら、少し呆れたように汁を啜った。


 「あなたって、ほんと距離を詰めるのだけは早いわね」


 そう言いつつも、お初の政道殿を見る目は、最初の頃よりだいぶ柔らかくなっていた。

 以前は“家督争いの火種かもしれぬ者”として、どこか警戒していた。けれど今は、宗矩の脇で黙々と帳面をまとめ、食事の間でも出すぎず引きすぎずに座す姿を見て、その人柄を認め始めたのだろう。


 「政道殿」


 お初が珍しく自分から声を掛ける。


 「はい」


 「明日、湯殿の板を少し見てほしいのだけど。最近、端の一枚が軋むの」


 私はその言葉に、内心で少し驚いた。

 お初が頼みごとをするということは、もう“よそ者”扱いではないということだ。


 政道殿は、少しだけ目を丸くしてから頷いた。


 「承知いたしました。宗矩様の方が先にご用なきようでしたら」


 「そういうところが真面目すぎるのよ」


 お初はそう言って、けれど嫌そうではなかった。


 食事の間の空気は、もう以前と変わっていた。

 政道殿がそこにいることを、誰も不自然に感じていない。

 桜子たちも、茶を足す時の手つきに“客への気遣い”ではなく、“いつもの一人”への気遣いを乗せている。


 私は、その光景を見ながら、ふと気づいた。


 この城は、ただ勢いある者が集まる城ではないのだ。


 戦場で武功を立てる者。

 政で才を見せる者。

 信長公に気に入られるほどの大きな働きをする者。

 たしかにそういう者も、この城には集まっている。真琴様自身がそういう人であり、氏郷も幸村も宗矩も、みなそれぞれ一角の器を持っている。


 だが、それだけではない。


 浅井が滅びた後、行き場をなくした母上様と私たち。

 家中の都合の中で居場所を測りながら生きてきたお初とお江。

 そして今、家督争いから外され、家を乱さぬために遠く大津まで来た政道殿。


 戦に敗れた女たち。

 家の論理に押し出された子。

 行き場を失いかけた者。


 そうした“はみ出しかけた者”をも、この城は抱え込み始めているのではないか。


 黒坂家とは、力ある者だけが集う家ではない。

 こぼれ落ちかけた者を、ただ憐れみでなく、役目を与えて置く家なのだ。


 そのことを、私はこの食事の間の湯気の中で、はっきり感じていた。


 夜。


 食事も終わり、城内が少しずつ静まり始めた頃。私はいつものように真琴様の居る部屋へ向かった。


 真琴様は、囲炉裏の前で今日の書付を見ていた。だが私が入ると、すぐに紙を置いて顔を上げた。


 「茶々、どうしたの?」


 「少し、お話を」


 私は真琴様の向かいへ座した。

 囲炉裏の火が、二人の間に小さく揺れている。


 「また一人、御主人様は拾われましたね」


 そう言うと、真琴様はきょとんとした顔をした。


 「拾った?」


 「政道殿のことです」


 「ああ」


 真琴様は少しだけ笑った。


 「でも、俺が拾ったというより、来るべき所に来たんじゃない?」


 その返事に、私は少しだけ息を呑んだ。

 この方は、時おりこういう言葉を何でもない顔で口にする。


 来るべき所。


 そうかもしれぬ。

 私も、お初も、お江も、母上様も、政道殿も。

 誰も自分の望み通りの道だけを歩いてきたわけではない。だが、今ここにいるのは、ただ流されただけではなく、この城がそういう者たちを受け止める器を持ち始めているからでもあるのだ。


 「……真琴様は、そういうところがありますね」


 「どういうところ?」


 「人を“拾う”のではなく、“そこへ来るのが自然だった”と思わせてしまうところです」


 真琴様は火箸で炭をつつきながら、少し照れたように笑った。


 「だって、無理やり置いても仕方ないでしょ。本人がここで生きられないと意味ないし」


 私はその横顔を見た。


 黒坂家の未来は、ただ官位が高くなり、兵が増え、信長公の信を得ることで大きくなるのではない。

 こうして人を抱え込み、役目を与え、居場所に変えていく器――その広さでもまた、大きくなっていくのだ。


 「政道殿は、もう大津の空気に馴染み始めています」


 「うん。よかった。宗矩も使いやすそうだったし」


 「お初も、湯殿の板を見てほしいと申しておりました」


 「それはだいぶ認められたね」


 真琴様は楽しそうに笑った。

 私はその笑みに、ようやく肩の力を抜いた。


 「この城は、不思議な城です」


 「不思議?」


 「はい。勢いある者ばかりでなく、はみ出しかけた者まで抱えてしまう」


 真琴様はしばらく考え、それから穏やかに言った。


 「でも、そういう人の方が、ちゃんと根づくと強いんじゃないかな」


 私は頷いた。


 そうだろう。

 ただ力に惹かれて集まった者は、より強い力があれば去る。

 けれど、居場所としてここへ根を下ろした者は、そう簡単には離れぬ。


 囲炉裏の火は赤く、静かに燃えていた。

 私はその火を見つめながら、胸の内で確かめる。


 大津城は、ただ戦うための城でも、威を示すための城でもない。

 行き場を失いかけた者を抱きとめ、その者たちの手でさらに強くなっていく城なのだ。


 その夜、私は黒坂家の未来を、少しだけ違う形で見た気がした。

 力の広がりではなく、器の広がりとして。

 そしてそれは、きっとこの先、戦よりも深く家を支えるものになるのだろうと、静かに確信した。

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