茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤④話・弟の本心、妻の見立て
義父・織田信長が大津城に来訪なされた日は、朝から城の空気がぴんと張り詰めていた。
御成御殿の畳は朝のうちから拭き清められ、欄間の塵ひとつまで見逃すなと桜子たちへ申しつけ、私は何度も何度も広間と控えの間を行き来した。
義父様がこの城へ来られる時は、ただの訪れではない。言葉一つ、視線一つで物事が動く。まして今は、将軍宣下の後。諸国の大名が義父様の動向をうかがい、真琴様の立場もまた、以前とは比べものにならぬほど重くなっていた。
その日の御成御殿には、真琴様の近くへ政道殿が給仕役として入っていた。
私はその采配を見た時、何も言わなかった。
言わなかったが、心は静かに動いていた。
政道殿を義父様のお側近くへ出すということは、ただ器用だからでは済まぬ。礼法、胆力、そして口の固さ。その全てを見られる場へ、真琴様は政道殿を置いたのだ。
それは試しであり、同時に信を置き始めた証でもある。
私は御簾の内から、その様子を見ていた。
義父様はいつものように豪胆で、そして鋭かった。
御膳の味を確かめるより早く、御城の造りを褒めたかと思えば、「で、常陸。儂の幕府をどのように動かす」と、いきなり本題へ斬り込んでいかれる。
安土幕府――。
それは近頃、真琴様が義父様へ折々に語っている構想だった。
京にばかり権を置くのではなく、安土を新たな政の中枢にして、戦だけでなく流通、寺社、公家、諸大名すべてを見渡せる形に作り替える。真琴様の口から出るそれらの言葉は、時に今の世の武将らしからぬほど先を見ていて、私はそのたび、胸の内で小さく息を呑む。
この日もそうであった。
「征夷大将軍という名は便利だけど、それだけじゃ古い仕組みに引っ張られるからね。信長様の幕府は、将軍家の焼き直しじゃだめなんだよ。人と物と金がどう流れるか、そこを握らないと」
私に説明する真琴様、それを義父様は酒を飲みながら上機嫌に聞いておられたが、私は給仕に立つ政道殿の横顔へ何度も目をやった。
政道殿は表情を崩さぬ。
盃を置く手も、膳を差し替える動きも乱れぬ。だが、その眼は間違いなく聞いていた。真琴様の、ただの軍略ではない、もっと先の世まで見通すような言葉を。
――どこまで気づいているのだろう。
私はそれを見定めたかった。
政道殿は穏やかで、遠慮深く、人の良い青年に見える。だがそれだけで黒坂家の内へ深く置くには足りぬ。
兄・政宗へのわだかまりはないのか。
伊達の家督を惜しむ心はないのか。
そして真琴様の“奇妙さ”を、ただの器量として受け流せるのか、それともいずれ怖れて口外するのか。
その日、御成御殿での席は滞りなく終わった。
義父様は満足げに笑いながら帰り、真琴様は見送りを終えると「疲れたー」と途端に肩の力を抜かれたが、私はそのままにはしなかった。
夜も深まり、城内が静まり返った頃、私は政道殿を小広間へ呼んだ。
火鉢に赤い炭が残り、障子の外では湖風がかすかに板を鳴らしている。
政道殿は呼び出しに驚いた様子だったが、すぐにきちんとした所作で座した。
「御方様、お呼びと伺い」
「ええ。少し、話をしたくて」
私はすぐには本題へ入らなかった。
茶を一口すすめ、政道殿がそれに手を伸ばす様子を見た。手元は落ち着いている。だが、その静けさの下に緊張があることも見て取れた。
「今日の給仕、見事でした」
「恐れ入ります」
「恐れてばかりいらしては困ります」
私がそう言うと、政道殿は少しだけ困ったように笑った。
その笑みは、相変わらず柔らかい。だが柔らかいからといって、その胸の内まで同じとは限らない。
私はまっすぐに政道殿を見た。
「政道殿。率直に聞きます」
その一言で、政道殿の背筋がわずかに張った。
「兄君を、恨んでいるのではありませんか」
しん、と部屋が静まる。
火鉢の炭が、小さく音を立てた。
政道殿はすぐには答えなかった。
私は続けた。
「あなたが大津へ来たのは、伊達の家中が割れるのを避けるため。兄君が家督を継ぐ道を、あなたが自ら退いて作ったようなものです。……それで、何も思わぬはずがない」
政道殿は、ようやく顔を上げた。
その目に驚きはあったが、不快の色はなかった。むしろ、いつか誰かに問われると分かっていた者の目だった。
「続けて申し上げます」
私は声を変えなかった。
「伊達の家督を惜しんではいないのですか。兄君より自分の方が穏やかで、人をまとめやすいと、そう思ったことは」
「……ございません」
即答だった。
けれど、私はそこで終わらせなかった。
「本当に?」
政道殿は、今度は少しだけ目を伏せた。
そして、ゆっくりと答えた。
「惜しいと思ったことが、一度もないと申せば嘘になります」
私は黙って聞いた。
「伊達の子として育ちました。父上の背を見て、家中の者の顔も見て参りました。兄上ばかりが武勇で騒がれ、自分は穏やかだと、扱いやすいと、そのように言われることもありました。……ならばいっそ、自分が、と思わぬでもなかった」
そこまで言って、政道殿は自ら苦く笑った。
「ですが、それは“家を継ぐ器”を欲したのではなく、“静かな道”を欲しただけにございます」
私はその言葉に、少しだけ目を細めた。
静かな道。なるほど、この人らしい。
「兄上は、誰より器量があります」
今度の声は、迷いがなかった。
「激しすぎると見る者もおります。恐ろしいと申す者もおります。されど、乱れた家中を一つに束ねるなら兄上しかおりませぬ。自分が残れば、兄上を嫌う者どもが“次男こそ”と旗印にいたしましょう。そうなれば伊達は割れる」
政道殿は顔を上げた。
「自分は、伊達を乱さぬために出ました」
部屋の中の空気が、そこで変わった気がした。
言い繕う響きが消え、言葉の芯だけが残った。
私はその横顔を見ながら、胸の内で静かに頷いていた。
この方は、本当に兄を立てている。己が下がることで家が保たれるなら、それを選んだのだ。
それは優しいから出来ることではない。むしろ逆だ。己の欲も悔しさも知った上で、それでも家を取った者の強さだ。
「……なるほど」
私がそう言うと、政道殿は少しだけ息をついた。
たぶん、この答えが受け入れられるかどうか、私の一言を待っていたのだろう。
「政道殿」
「はい」
「あなたの本心は分かりました。少なくとも今の言葉に、偽りは少ない」
政道殿の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
「ですが」
私はそこで声を改めた。
「大津城は優しいが、甘くはありません」
政道殿の顔が引き締まる。
「真琴様のそばへ仕えるとは、ただ温かい飯と静かな部屋を与えられるということではない。この城の内を見れば、聞けば、背負うべきものも増える。今日の御成でも、あなたは真琴様の言葉を聞いたでしょう」
「……はい」
「どう思いましたか」
その問いに、政道殿は少しだけ迷ってから答えた。
「常陸様は……この世の先を見ておられるように感じました」
私は小さく息を呑んだ。
やはり、この方は気づいている。気づいてなお、軽々しく口にはしていない。
「そういう御方です」
私はあえて否定も肯定もぼかしたまま言った。
「だからこそ、そばに置く者は口が固くなければならない。秘密と重みを背負う覚悟が要ります。伊達の火種を避けるためだけにここへ来たのなら、いずれ苦しくなりますよ」
政道殿は、はっきりと頷いた。
「承知しております」
「本当に?」
「はい。自分は、逃げるためだけに大津へ来たのではございません。ここへ置いていただけるなら、黒坂家のために働きとうございます」
その言葉に、私はようやく決めた。
この方は、置ける。
いや、置くべきだ。
ただ情で受け入れるのではなく、黒坂家の内を支える一人として。
「よろしい」
私は静かに言った。
「ならば、今宵よりあなたを“ただの預かりもの”とは見ません。黒坂家の内の者として見ます。働きなさい。学びなさい。そして、軽々しく己を低く扱わぬことです」
政道殿は、深く頭を下げた。
「はっ」
その返事は、前よりもずっと腹の底に落ちていた。
私は火鉢の炭を見つめた。
赤い火は、小さいが確かに芯を持って燃えている。政道殿もまた、そのような方なのだろう。兄のように激しくはない。だが静かな芯がある。
「もう下がってよろしい」
私が言うと、政道殿は立ち上がり、襖のところで一度振り返った。
「御方様」
「何です」
「……ありがとうございます」
私は少しだけ首を振った。
「礼は働きで返しなさい」
政道殿は、今度こそはっきりと微笑み、頭を下げて去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は思う。
黒坂家は、優しい城ではある。だが甘い城であってはならぬ。
真琴様の不思議な大きさも、信長公の信任も、大津城の器も――その全てを支えるには、内に置く者を見誤ってはならない。
今宵、私は政道殿をただ受け入れたのではない。
黒坂家の内へ入れる者として、ようやく見定めたのだ。
そしてそのことは、私自身がこの家の内を守る立場にあるのだということを、改めて胸へ刻ませる夜でもあった。




