茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤③話・御殿に居場所をつくる
伊達輝宗殿が米沢へ帰る朝、大津城の空はよく晴れていた。
冬の名残りをまだ残した薄い陽光が、二ノ丸の白壁と廊下を淡く照らし、琵琶湖からの風は冷たくとも、どこか澄んでいて痛いほどではない。
別れの朝にしては、あまりにも穏やかな空だった。
私は御殿の端に立ち、輝宗殿が政道殿へ最後に何事か言い含める様を、少し離れたところから見ていた。
声は聞こえぬ。だが、父が子へ向ける背のかたちは、遠目にも分かる。厳しさを装っていても、その下に情があることは隠せぬものだ。
政道殿は深く頭を下げ、輝宗殿はそれを受けて、すぐには手を伸ばさなかった。
もしあの場で肩でも抱けば、父であることが勝ってしまう。だからこそ触れぬのだろう。
武家の男たちの情とは、時に何もせぬことでようやく保たれるらしい。
やがて輝宗殿は馬へ乗り、見送りの言葉も短く、帰っていかれた。
政道殿は、最後までその背を見送っていた。
風に吹かれ、袖が揺れ、それでも動かなかった。
私はしばしその様子を見ていたが、やがて静かに声を掛けた。
「政道殿」
政道殿ははっとしたように振り向き、すぐに頭を下げた。
「御方様」
「外は冷えます。こちらへ」
それだけ言うと、政道殿は一拍遅れて「はい」と答え、私のあとへ従った。
輝宗殿が去った以上、政道殿はもう“伊達の客”ではない。
大津城に置くならば、黒坂家の内へ入れねばならぬ。
私はその日のうちに、政道殿のための部屋を整えさせた。
場所は、本丸に近すぎず、かといって客分のように遠くもない一角。
文机、夜具、着替えを納める櫃、硯、筆、火鉢、湯桶。
近習も、あまり年かさではなく、それでいて口の堅い者を二人つける。政道殿は武ばかりではなく右筆仕事にも向きそうだったから、机まわりの使い勝手を特に気にさせた。
私は桜子と梅子に指示を出しながら、部屋の隅々まで目を通した。
客間ではない。だが、雑に置けば「仮置き」のようになる。
住まう部屋とは、ただ物を揃えればよいのではない。ここで息をついてもよいのだと思える気配を作らねばならぬ。
「御方様、火鉢はこの位置でよろしいでしょうか」
桜子が問う。
私は部屋の座から外の明るさを見て、それから火鉢と文机の位置を見比べた。
「もう少しだけこちらへ。文机に向かった時、手を伸ばせばぬくもりが取れる方がよろしいでしょう」
「はい」
「夜具も、あまり立派すぎるものは避けなさい。政道殿は遠慮のある方です。豪奢すぎればかえって落ち着かぬ」
「承りました」
そう、政道殿は遠慮のある方であった。
昼を少し回った頃、私は整えた部屋へ政道殿を呼んだ。
政道殿はきちんと襟を正して入ってきたが、部屋を見て最初に浮かべたのは感心ではなく、困惑だった。
「……これは、あまりに」
私は座を勧めた。
「何がです?」
「いえ、自分には過ぎます。客分のようなものに、このような部屋は」
やはりそう来るか、と私は心の内で頷いた。
「政道殿」
「は」
「あなたは今、自分を“客分のようなもの”と申されましたね」
「……その通りかと」
「違います」
私はきっぱり言った。
政道殿が目を上げる。
この方は穏やかだが、だからこそ強く言わねば、遠慮の中へ沈んでしまいそうだった。
「たしかに最初は、伊達輝宗殿よりお預かりした身でしょう。ですが、だからといって、いつまでも“預かりもの”の顔でいてはなりません」
「御方様……」
「ここは、預かり場所ではなく、暮らす場所にせねばならぬのです」
私は部屋を見回した。
「人は、落ち着かぬ場所では根を張れません。根を張れぬ者は、家の内に入れぬ。黒坂家にいていただく以上、あなたに必要なのは遠慮ではなく、ここで生きる覚悟です」
政道殿はすぐには答えなかった。
だが、その眼にかすかな動揺が走るのを私は見た。
たぶん、そこまで真正面から言われると思っていなかったのだろう。
「……自分は、兄のように武勇に優れるわけではありませぬ」
ふいに、政道殿がぽつりとこぼした。
「父上も、そのことを知った上で自分をこちらへ」
「ええ」
私は否定しなかった。
「ならばなおさら、居場所を整えねばなりません。武だけが人の値ではありませんよ」
政道殿は、黙って私の言葉を受け止めていた。
その沈黙は、言い返せぬ沈黙というより、胸の内へ下ろしている沈黙に見えた。
私は少しだけ声音を和らげた。
「この部屋があなたに贅沢に映るなら、それはまだ“外”の気持ちで見ているからです。中へ入りなさい、政道殿。でなければ、輝宗殿がここへ置いていかれた意味が薄れます」
しばらくして、政道殿は深く頭を下げた。
「……不調法、失礼いたしました」
「よろしい。では、今夜からここをお使いなさい」
「は」
その返事は、先ほどより少しだけ重みを持っていた。
そのあと、私は母上様の御殿へ向かった。
こうした話のあと、私は不思議と母上様のお顔を見たくなる。
自分一人で考えていると、心が少しだけ固くなりすぎるのだ。
母上様は縁側で花を見ておられた。
冬から春へ移る庭はまだ色薄く、花と言っても侘びたものだが、母上様の横顔は静かで、その景色に不思議とよく馴染んでいた。
「母上様」
「茶々、政道殿のことですか?」
私は苦笑した。
私が来た理由を、もう察しておられる。
「ええ。……母上様は、輝宗殿をどうご覧になりましたか」
母上様はすぐには答えず、しばらく庭を見ておられた。
「父が息子を争いから逃がす」
やがて、ぽつりと言われる。
「それは、情があるからこそ出来ることです」
私はその言葉を黙って聞いた。
「手元に置きたければ置ける。だが、置けば火種になる。そう知っていて離すのは、父としては辛いでしょう」
「……はい」
「武家の家とは、家を残すために子を分けるものです」
母上様の声は、静かで、だからこそ深かった。
私は胸の奥がちくりとした。
そうだ。武家の家とはそういうものだ。
娘は縁組のために動き、息子は家督のために並べられる。誰が情に厚いとか薄いとか、それだけでは量れぬ。
「私も、父上を失い、浅井の娘でありながら、織田の養女となりました」
知らず、そんな言葉がこぼれていた。
母上様は私を見た。
「茶々」
「そして今は、黒坂家の正室としてここにおります」
自分で言葉にしてみると、妙な心地がした。
浅井、織田、黒坂。
一つの名の中だけでは、生きてこられなかった。
母上様は、私の手へ静かに御自身の手を重ねられた。
「だからあなたは、政道殿を“預かりもの”としてではなく見られるのですよ」
その一言に、私は息をついた。
そうかもしれぬ。
私が政道殿の遠慮に胸がざわつくのは、ただ女主人としての務めだからではない。
“家の都合で動かされる側”の冷たさを、自分も少しは知っているからだ。
夕刻、私はもう一度、政道殿の部屋を覗いた。
障子は少しだけ開けられ、部屋には火鉢のぬくもりが漂っていた。
文机には筆と紙が置かれ、政道殿は何やら書付に目を通している。
姿勢はまだ硬い。だが、今朝よりはこの部屋の空気に触れている。
私の気配に気づき、政道殿はすぐ立ち上がった。
「御方様」
「座ったままでよろしい」
それでも政道殿は一度きちんと礼をしてから座り直した。
礼が過ぎるほどなのも、この方の人の良さなのだろう。
私は文机の上を見た。
「何を?」
「宗矩様より、大津城下の帳面を少し見せていただきました。……字を追うだけなら、自分にも出来ますので」
私はその言葉に、少しだけ安堵した。
働こうとしている。遠慮の中で縮こまるのではなく、自分の役目を探し始めている。
「よろしい傾向です」
「傾向、でございますか」
「ええ。ここで暮らすなら、何か一つでも“自分の手が届く仕事”を持ちなさい。それがあると、人は根を下ろしやすい」
政道殿は静かに頷いた。
その横顔を見ながら、私は思った。
この方はまだ、大津城の客だ。だがもう、ただの客では終わらぬだろう。
弟であり、火種であり、だがそれだけではない。
この城の内へ入ってきた一人の若者として、いずれ黒坂家の空気の一部になっていくのだ。
私は障子へ手をかけながら、振り返った。
「政道殿」
「はい」
「何か要るものがあれば、遠慮せず言いなさい。遠慮は美徳のようでいて、時に人を孤立させます」
政道殿は少しだけ目を伏せ、それから小さく、しかしはっきりと答えた。
「……はい、姉上様」
その呼び方に、私は驚いた。
だが、なぜか嫌ではなかった。
むしろ胸の奥に、かすかな温かさが残った。
私は何も言わず、ただ一つ頷いて部屋を後にした。
廊下の外では、大津城の夕暮れが静かに深まりつつあった。
人が暮らす城の気配の中へ、また一人、新たな息が入り始めていた。




