茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤③話・雪国より来たる、もう一人の伊達
京から戻られて数日――。
真琴様は、相変わらず囲炉裏の前から離れなかった。
義父・織田信長より将軍宣下の場に列するよう命じられ、従三位中納言・常陸守にまで昇られた御方が、朝から晩まで火鉢と囲炉裏の間をうろうろして「やっぱり京より大津の囲炉裏が一番だね」などと仰るのだから、世というものはよく分からない。
私は食事の間の上座から、その御姿を半ば呆れ、半ば微笑ましく眺めていた。
「真琴様」
「ん?」
「少しは、御自身が従三位中納言であることをお意識になって下さいませ」
私がそう言うと、真琴様は湯気の立つ茶碗を両手で包んだまま、いかにも寒そうな顔で首を傾げた。
「意識してるよ。だからこうして風邪引かないようにしてるんじゃん」
「そういう意味ではありません」
思わず言葉がきつくなる。
だが真琴様は堪えた様子もなく、むしろ少しだけ笑っておられた。
「茶々、官位が上がったからって、寒いものは寒いし、お腹も空くし、お風呂は気持ちいいんだよ」
「それは分かっております。ですが、もう少しこう……どっしりと構えるとか、威厳を」
「十分あると思うけどなぁ」
その言い方が、また妙に自然だから困る。
京より戻られてからの真琴様は、以前よりほんの少しだけ“偉い人らしく”振る舞おうとされている気配がある。
評定の場では言葉を選び、客人の前では背筋を伸ばし、書付に目を通すときも前より姿勢が良い。
だが、その努力の直後に囲炉裏の前で足を崩し、「あ~やっぱり家はいい」と気を抜いてしまうのだから、まこと締まらぬ。
しかし――その締まらなさこそ、黒坂真琴という人なのだと、今の私は知っている。
そんな穏やかな午前であった。
障子の向こうに控えていた桃子が、少しあらたまった声で告げる。
「御主人様、御方様。柳生宗矩様が、急ぎとのことにございますです」
「通しなさい」
私が答えると、宗矩は足音も乱さず入ってきて、きっちりと膝をついた。
「御大将、御方様。伊達輝宗様が、帰郷前に今一度御挨拶を願いたいと使いを」
その名に、私は少しだけ眉を上げた。
伊達輝宗。奥州の雄。
先の将軍宣下の場で上洛していた諸大名の一人であり、真琴様とも幾度か言葉を交わしておられる。
あの家は、嫡男の政宗がとくに才気煥発なことで知られ始めていた。隻眼の若武者――独眼竜などという、いかにも人目を引く異名まで聞こえてくる。
真琴様は茶碗を置き、今度は少しだけ顔を引き締めた。
「伊達輝宗殿が? すぐお通しする?」
「いえ、二刻ほどののちに参るとのこと」
「わかった。じゃあ二ノ丸広間で迎えよう」
そう言って立ち上がられると、さきほどまで囲炉裏の熱へへばりついていた人と同じとは思えぬほど、声が城主のものになっていた。
私は胸の内で小さく息をつく。
切り替えが早いのは助かる。……だが、本当に毎度振れ幅が大きい。
「茶々」
「はい」
「客の支度、お願い」
「承りました」
私はすぐに立ち上がり、二ノ丸広間の設えを整えさせた。
二ノ丸広間は、信長公や大身の客を迎える表向きの場ほど仰々しくはないが、それでも黒坂家の格を損ねぬよう整えられた部屋である。
冬の冷えを和らげるため火鉢を二つ。茶は濃すぎず薄すぎず。畳の目、座布団の位置、襖の開け具合――桜子たちに指示を出しながら、私は自然と心が静まっていくのを感じた。
こうした時、私は“黒坂家の御方様”になれる。
真琴様は、着替えを終えてから広間へお入りになった。
今日は囲炉裏の前のだらけた姿ではなく、従三位中納言・常陸守にふさわしい、落ち着いた色味の衣。
座に着くまでの歩みも、少しゆっくりしておられる。
その様子に私は内心で、(あぁ、今日は“少し偉そうにする日”なのですね)と思った。
しかしそれが、妙に板についていないところがまた真琴様らしい。
背筋は伸びているのに、指先だけは寒さを思い出しているのか、火鉢の方へ行きたそうにしている。
「真琴様」
「ん?」
「御指が火鉢へ伸びかけております」
「……見えてた?」
「見えております」
「茶々、厳しいなぁ」
厳しくて結構である。
私は小さく笑みを押し殺した。
やがて、伊達輝宗殿が到着した。
広間へ通されてきたその姿は、上洛中に一度遠目で拝した時と変わらぬ、北国の武士らしい厳しさを帯びていた。
だが、その後ろに従ってきた若者を見て、私は一瞬だけ目を見開いた。
……あれが、伊達の子?
私は勝手に、政宗のような、もっと鋭く、人を射るような目をした若武者を想像していたのだ。
けれど、その青年は違った。
年の頃は、真琴様より少し若いか同じほど。
顔立ちは整っているが、尖っていない。雪国の光を柔らかく映したような、穏やかな眉と目元。身のこなしに武家の端正さはあるが、前へ出て人を圧するような気配は薄い。
この青年は“独眼竜”ではない。
そうすぐに分かった。
輝宗殿が礼を終えると、真琴様も格を保って応じられる。
「遠路、ようこそおいで下された。大津の城、狭うございますがゆるりと」
「常陸殿の御城、噂以上に整っておる」
短く言葉を交わしたのち、輝宗殿は後ろの青年へ視線をやった。
「こちら、我が次男――伊達小次郎政道にございます」
政道。
その名を聞き、私はようやく腑に落ちた。
政宗ではない。もう一人の伊達の子。
政道殿は進み出て、丁寧に頭を下げた。
「伊達小次郎政道にございます。このたびは、父に従い御前へ」
声もまた、意外なほど穏やかだった。
武辺一辺倒ではなく、よく言えば柔らかく、悪く言えば争いを好まぬ声。
私は拍子抜けすると同時に、妙に胸の奥がざわついた。
この人は、家中で“戦うべき子”として育てられてはいない。そんな気がしたのだ。
真琴様も同じ印象を受けたのだろう。ほんの少しだけ目を細めたが、すぐにいつもの穏やかな調子へ戻った。
「政道殿、どうぞ顔を上げて。伊達の御子と聞くと、もっとこう……刺々しい感じを想像してた」
私は内心で、(真琴様、それは少し率直すぎます)と思ったが、政道殿はかえって困ったように笑った。
「よく兄と比べられます」
その返しに、場が少しだけ和んだ。
だが、輝宗殿の顔は、和らがなかった。
私はそこで察した。
今日の来訪は、ただの別れの挨拶ではない。
茶が運ばれ、一通りの礼が済むと、輝宗殿は一度深く息をついた。
「常陸殿」
「はい」
「今日は、ただの挨拶に参ったのではござらぬ」
広間の空気が、すっと引き締まる。
私は背筋を正し、政道殿の方を見た。政道殿はすでに、これから何が語られるか知っている顔をしていた。
「この子を、預かっていただきたい」
その言葉は、はっきりしていた。
真琴様は表情を変えず、ただ「理由を伺っても」と静かに返された。
その声音に、私は少しだけ安心する。こういう時の真琴様は、感情より先にまず話を聞く。
輝宗殿は、政道殿を見やるでもなく、正面を向いたまま言った。
「伊達の家は、いずれ嫡男・政宗へ継がせるつもりにございます。あれには器量がある。されど、器量があるがゆえに、家中にてあれを推す声も、逆に恐れる声も大きい」
私は黙って聞く。
「この政道は、兄に比べれば柔らかい。家中には、そういう政道をこそよしと見る者も出て参るでしょう」
その言葉の意味は、戦国の娘である私には痛いほど分かった。
“よい子”であるがゆえに、争いの旗へ担がれる子がいる。
家督とは、ただ父が決めれば済むものではない。周囲の思惑が、いつでも火種になる。
「火種は、火になる前に離すしかござらぬ」
輝宗殿の声は低かった。
「政宗のためでもあり、政道のためでもある。……父として情がないと言われれば、その通り」
その時、私は初めて輝宗殿の顔の奥にあるものを見た。
武将としての計算ではない。
父としての、切り捨てるような苦しみだ。
守るために、手放す。
その痛みを、私は知っている気がした。
浅井の娘として生まれ、父を失い、織田の養女となり、黒坂家へ嫁いだ。
名を変え、立場を変え、“家”の都合の中で生きることは、戦国の女子だけの話ではない。男子もまた、家督と争いの中で流されるのだ。
私は政道殿を見た。
政道殿は、黙って座しておられた。顔色一つ変えぬよう努めている。
だが、その静けさがかえって痛々しい。
この方は今、自分が“預けられるもの”として話されている。
そしてそれが、父の苦渋から出たことも分かっている。
真琴様はしばらく沈黙し、それから静かに問われた。
「政道殿自身は、どう思っておられるのです」
政道殿は、そこで初めて顔を上げた。
「父上のお考えに従います」
その返答は立派だった。
だが、立派すぎる答えほど、胸の内を隠していることがある。
真琴様も、たぶん同じことを感じたのだろう。
すぐには返事をせず、少しだけ私の方を見られた。
私はその一瞬で、言葉なく頷いた。
――この子は、ただの客ではありません。
――見るなら、家の内へ置くつもりで見ねばなりません。
真琴様は前を向き直った。
「伊達輝宗殿」
「はっ」
「理由は分かりました。軽々には申しませんが……政道殿をお預かりすること、前向きに考えましょう」
その言葉に、輝宗殿は初めて、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
「かたじけない」
深く頭を下げるその姿は、伊達の当主というより、一人の父であった。
私はその姿を見ながら、胸の内で静かに思った。
奥州にもまた、“家”に翻弄される子がいる。
浅井にも、織田にも、そして今、伊達にも。
戦国の家とは、かくも容赦なく人を動かすものか。
だが同時に、私は政道殿をただ“政略の余り”として見る気にはなれなかった。
この穏やかな顔立ちの青年は、守られるべき立場にある。
そしてもし黒坂家がこれを預かるなら、それはただの客分ではなく、家の内に置くべき者として扱わねばならぬ。
政道殿は、もはや私の目に「伊達の次男」ではなく、これから大津城の空気の中でどう生きるかを見定めるべき一人の若者として映っていた。
その日、二ノ丸広間には冬の薄い日差しが差していた。
だが私には、その光の下で、一つ新しい縁と、一つ重い火種が同時に運び込まれたように思えたのだった。




