茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑤①話・家臣の膳、城主の膳
湖風荒ぶ一日がようやく過ぎ、町場の戸板も仮に打ち直され、船着き場の荷も大方片づいた頃――真琴様は、囲炉裏の前で湯飲みを片手にぽつりと言った。
「働いた人を労いたいな」
私はその言葉を聞いて、すぐに意味を量った。
風の日、動いた者は多い。
柳生、真田、蒲生の手勢。台所の女衆。湯殿を切り盛りした侍女たち。船着き場の人足。戸板を押さえた職人。広間を開けて年寄りと子どもを迎え入れた者。
皆がそれぞれ、自分の持ち場で大津城を支えた。
「労う、と申されますと?」
私がそう問うと、真琴様は当たり前のような顔で言った。
「飯。ちゃんとしたやつ。一緒に食べる」
……やはり、そう来る。
この方は、何かを締めるにも、何かを褒めるにも、最後は食へ行きつく。
最初はそれを「またですか」と思ったものだが、最近は違う。食卓はただ腹を満たすだけではない。人の心まで整える場なのだと、私はこの大津城でようやく本当に理解し始めていた。
「では、誰をお呼びしますか」
「全員は無理だから、代表だね。家臣、侍女、職人、それぞれ何人か。頑張った人をちゃんと見てたよって形にしたい」
私は頷いた。
「良いでしょう。ただし、ただ集めて鍋を囲ませるだけでは、かえって皆、戸惑いますよ」
「そこは茶々に頼りたいかな」
そう、軽く言われる。
だがその“頼りたい”が、私の役目でもあった。
その日の夕刻、私は桜子たちと食事の間を整えた。
囲炉裏には大きな鍋を二つ。ひとつは具沢山の味噌仕立て。芋、葱、干し椎茸、豆腐、干し魚の出汁を利かせたもの。もうひとつは少し味を変え、鶏と根菜を煮込んだ塩仕立て。
さらに炙った干物、小皿の漬物、握り飯も並べさせる。大仰すぎず、だが“労われた”とわかる程度には温かく、満ち足りた膳にする。そこが肝要だった。
「御方様、どのようにお席を?」
桜子が控えめに尋ねる。
私はしばし食事の間を見回した。
真琴様が望むのは、皆で同じ鍋を囲む黒坂家らしい形。けれど、位も役目も違う者を無造作に並べれば、かえって皆が箸を止める。無礼に感じる者も出るだろうし、緊張しすぎて味もわからぬ者もいるだろう。
「囲炉裏を囲む形はそのままに。ただし、上座下座の目は残します」
「はい」
「真琴様と私の正面に、蒲生氏郷、柳生宗矩、真田幸村。そこから少し離して、若い家臣と侍女の代表、それから職人衆。完全に同列にするのではなく、“同じ場にいる”ことがわかるように」
桜子は頷きながら、座布団の位置をずらしていく。
そうだ。今夜必要なのは、身分を消すことではない。身分と役目を保ったまま、同じ城を支える者として一つの空気へ置くことだ。
「桜子、あなたたち三姉妹は最後まで給仕に回らず、途中で必ず座りなさい」
「ですが、御方様……」
「これは命です。今日の場で、湯も台所も支えた者がずっと立ったままでは意味がありません」
桜子は、少しだけ目を潤ませて頭を下げた。
「……はい」
やがて、呼ばれた者たちが少しずつ食事の間へ集まってきた。
蒲生氏郷はさすがに落ち着いていたが、若い足軽たちは見るからに背を固くしている。侍女の代表も、まるで叱られに来たかのような顔をしていた。職人衆に至っては、畳の上へ上がる足元からおぼつかない。
「座りなさい」
私が促すと、皆、かえってますます戸惑った顔をする。
その空気を見て、私は内心で苦笑した。
やはりこうなる。だからこそ、ここからが“場を作る”女主人の仕事だ。
真琴様は上座へ座すなり、皆を見渡して言った。
「今日は、風の日に働いてくれたお礼」
それだけで十分だった。
余計に格式ばった言葉を重ねぬのが、この方のよいところでもある。
「でも、たぶん皆、どう食べていいかわかんない顔してるから、茶々、お願い」
いきなりこちらへ投げてくるあたりは、この方らしい。
私は小さく息をつき、座を正した。
「皆、そう緊張しなくてよろしい」
私が言うと、何人かがびくりと肩を揺らした。
特に若い足軽たちの固さがひどい。まるで鍋が敵兵に見えているようだった。
「今宵は、風の日にこの城を支えた者を労うための膳です。とはいえ、位の違いも役目の違いも消えるわけではありません。礼は保ちなさい。だが、肩肘を張って箸が進まぬのでは、せっかくの労いが台無しです」
私は囲炉裏の鍋を見やった。
「この城は、城主だけでは回りません。城を守る槍も、台所の火も、湯殿の湯も、戸板を打つ手も、皆この城の力です。だから今夜は“同じ城を支えた者”として、存分に食べなさい」
その言葉で、ようやく場の空気が少しだけ緩んだ。
私はすぐに桜子へ目配せし、汁をよそわせる。
最初に真琴様が箸をつけた。
ひと口、汁を飲む。すぐに顔が明るくなる。
「うん、おいしい。今日はちゃんと労われてる感じする」
その一言で、皆の箸もようやく動き始めた。
お初は私の少し後ろに座っていたが、若い侍女たちのあまりの緊張ぶりを見て、呆れたように言った。
「そんなに固まってたら、味なんてわからないわよ」
侍女たちは「は、はい」と返すが、なおもぎこちない。
そこでお江が、妙に良い働きをした。
「このお魚、先に取らないとお初姉様が全部食べるよ!」
「お江!」
お初が睨む。
そのやり取りに、場に小さな笑いがこぼれた。
笑いは偉大だ。
それだけで、固まっていた空気が一段溶ける。
蒲生氏郷が真面目な顔で汁を啜りながら言った。
「御大将、このような場を設けるのもまた、城をまとめる一手かと」
真琴様は首を傾げる。
「まとめるっていうより、ちゃんと食べて休んでほしいだけなんだけど」
その返しに、氏郷は少しだけ笑みを見せた。
「それが、まとめるということにございます」
私はその言葉に、胸の内で深く頷いた。
真琴様は“まとめよう”としてまとめるのではない。ただ人が働けるように、倒れぬようにと考える。その結果として、人がついてくるのだ。
若い足軽の一人が、恐る恐る口を開いた。
「御大将……」
「うん?」
「その……俺たちみたいなのまで、こうして呼んでいただけるとは思わず」
真琴様はきょとんとした顔をした。
「風の日に屋根板押さえてくれてたじゃん。呼ぶでしょ普通」
その“普通”が、たぶん普通ではない。
私はそう思いながらも黙っていた。
別の若い職人が続ける。
「城の材木を運ぶだけの俺らまで……」
「運ぶだけじゃないよ。飛んだら危ないし、直すのも君たちでしょ」
すると、その職人の顔が少しだけ変わった。
“ただの人足”としてではなく、“必要な手”として見られた顔だ。
私はそこを逃さず、静かに言葉を重ねた。
「よく聞きなさい。大津城は新しい城です。これからまだ育つ。育つ城は、皆の手でしか育ちません。だから今夜ここに呼ばれたことを、ただの褒美と思ってはなりませんよ。この城に必要とされているということです」
それを聞いた若い家臣たちの目が、少しずつ変わっていくのがわかった。
恐れと緊張だけではない。どこか、胸を張りたくなるような光が混じり始める。
桜子が、私に言われた通り、途中でちゃんと座った。
最初は遠慮がちだったが、真琴様がすぐに気づいて言う。
「桜子たちも食べて。今日は台所だって働いた側なんだから」
「……はい、御主人様」
その返事の柔らかさを聞くだけで、桜子がどれほどこの言葉を嬉しく思ったかわかる。
そして私は、今夜の場がたしかに“形”になりつつあるのを感じた。
城主の膳と家臣の膳。
同じではない。だが、遠すぎもしない。
そのちょうどよい距離の中で、同じ鍋の湯気を囲む。これこそが、黒坂家らしい食卓なのだろう。
宴というほど華やかではない。
けれど、この温かさは、何かを深く根づかせる種類のものだ。
食事の終わり頃には、若い足軽たちの顔つきはすっかり変わっていた。
最初に見せたおどおどした顔ではなく、少し背筋が伸び、この城の中に自分の居場所を見つけたような目になっている。
その一人が、帰り際に廊下で宗矩へ小さく言ったのが聞こえた。
「この城のために、もっと働きたいです」
私はそれを聞こえぬふりで聞いた。
そう、それで良い。
誇りとは、命じて生まれるものではない。こうして一膳の温かさの中で、少しずつ芽吹くものなのだ。
真琴様は最後まで大げさなことは言わず、ただ皆を見送りながら、
「またちゃんと働いたら、こういう日やろう」
と笑っていた。
私はその横顔を見て、静かに思う。
この城の結束は、勝ち戦の血判ではなく、囲炉裏の火と湯気の中で育っていくのだろうと。
その夜の食事の間には、鍋の匂いと、炭の熱と、人が少しずつ同じ城の者になっていく気配が、長く残っていた。




