茶々視点外伝大津城暮らし編・①④⑨話・城の掟、城の乱れ
大津城での暮らしがようやく落ち着き始めた頃、私は初めて「住む城は、生き物のように乱れることもある」のだと知った。
その夜、風は穏やかだった。
琵琶湖からの冷え込みも幾分ましで、城の中は囲炉裏と火鉢の熱がほどよく回っている。私は政所でその日の帳面を見終え、桜子が淹れてくれた茶を口にしていた。
すると、障子の向こうで人の気配が止まり、控えめに声がした。
「御方様、柳生宗矩様がお急ぎで」
「通しなさい」
宗矩は入るなり膝をついたが、顔が少し渋い。
私はすぐに帳面を閉じた。
「何事です?」
「三ノ丸足軽長屋にて、若い足軽どもが夜更けの酒盛りを。しかも二人、城下へ無断で出て戻った形跡があります」
私は思わず眉を寄せた。
「無断外出?」
「はっ。門番には顔馴染みゆえ口裏を合わせたかと」
それは看過できぬ。
夜更けの酒だけならまだしも、規律が崩れれば次は喧嘩、博打、女遊び、そして盗みへもつながる。城は暮らす場であると同時に、軍の中枢でもあるのだ。
「真琴様には?」
「すでにお耳へは」
宗矩がそう言った時、廊下の向こうから、いかにも眠気を残した声がした。
「……聞いてるよ」
真琴様だった。
寝間着の上に羽織を引っかけただけの姿で、しかし目は起きている。
私はすぐに言った。
「真琴様、これは甘くしてはなりません。見せしめが必要です」
真琴様は私の向かいへ座ると、火鉢に手をかざしながら、のんびりした声で返した。
「うん、怒るのはあと。まず理由聞こう」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「理由?」
「休みが足りないのか、飯が足りないのか、寝所が合ってないのか、配置が悪いのか。まずそこ」
あまりに静かな言い方だったので、かえって苛立ちそうになった。
私から見れば、規律違反は規律違反だ。理由があろうとなかろうと、罰せねば緩みは広がる。
けれど真琴様は、本気でそう考えている顔をしていた。
若い足軽たちは、その夜のうちに一人ずつ呼び出された。
三ノ丸の詰所に並ばされたのは六人。酒盛りに加わっていた者たちだ。二人は特に顔色が悪い。無断外出した者であろう。
私は真琴様の隣に座し、彼らを見た。
まだ若い。十代の終わりから二十を少し越えたほど。新たに募った者も多く、この大津城での暮らし自体がまだ身体に馴染んでいない顔つきだった。
真琴様は、いきなり怒鳴らなかった。
「まず確認。酒盛りしたね?」
「……はっ」
「無断で城下出た者もいるね?」
沈黙のあと、二人が深く頭を下げた。
「申し開きもございません」
私はその時点で、叱責の言葉を用意していた。
だが真琴様は先に、まったく別のことを聞いた。
「飯、足りてる?」
六人とも、一瞬だけぽかんとした。
私も同じ顔をしていたと思う。
「は……?」
「飯だよ。朝晩。腹減ってると、夜に変なことしたくなるから」
足軽たちは顔を見合わせた。
やがて一人が、おそるおそる答えた。
「飯は……足りております」
「じゃあ寝られてる?」
「それも……はい」
「休みは?」
今度は、別の者が言葉に詰まった。
真琴様はそこを逃さなかった。
「そこ、引っかかったね。言って」
若い足軽は、しばらく迷っていたが、やがて吐き出すように言った。
「……配置が変わってから、同じ郷の者と番が合わず……」
「うん」
「家族も近江にはおらず、休みをもらっても戻る家がないので……皆で酒でも飲まねば、気が抜けませぬ」
もう一人が続いた。
「城下へ出たのは、賭けや女ではなく、村から流れてきた親類に米を渡すためで……。言い出せば叱られると思い……」
私は、そこで初めて口を閉じた。
勝手な言い訳だと思おうとした。だが、その顔を見れば、どれも苦しいながら本当のことなのだとわかる。
真琴様は淡々と聞き続けた。
話を繋げていくと、原因は見えてきた。
大津城入りに伴う配置換えで、同郷の者同士が散らされたこと。
新しい番組の組み方が合わず、休みが飛び飛びで気が休まらぬこと。
家族を安土やもっと遠くに残してきた者にとって、休みの使い道が宙に浮いていること。
城の暮らしは整いつつあるが、“自分の居場所”という感覚まではまだ育っていなかったのだ。
私は胸の内で、自分が少し浅かったと認めざるをえなかった。
規律が崩れた――それはたしかに事実。
だがその前に、人の気持ちの置き場が崩れていた。
真琴様は最後に、ようやく少しだけ声を強めた。
「理由はわかった。でも、だからって勝手に酒盛りして、勝手に外出ていいわけじゃない」
六人が、一斉に平伏する。
「申し訳ございません!」
「うん。そこはちゃんと罰する」
私はそこで、ようやく少し安心した。
甘やかしで終わるわけではないのだ。
「今後二十日、夜の酒は禁止。違えたら今度は城外追放も考える。あと、外出した二人は三日、厠掃除と湯殿の薪運び。自分の足で城を支えなさい」
足軽たちは顔を上げぬまま、「はっ」と答えた。
「ただし」
真琴様はそこで言葉を継いだ。
「こっちも直す。宗矩、幸村。番の組み方を見直して。同郷の者を全部固めるのはよくないけど、少しは顔見知り同士を近づけた方がいい。休みも、使い道がない者向けに城内の仕事か訓練か、選べるようにして」
「はっ」
「あと、月に一度くらい、ちゃんと許可とって酒飲める日を作ろう。隠れてやるから面倒になる」
私はそこで、思わず真琴様を見た。
「……酒の日、ですか?」
「うん。禁止だけだと、余計こそこそするから。決めてやればいい」
私は最初、その考えを大胆すぎると思った。
だが、たしかに理はある。隠れて乱れるより、認めた上で締める方がずっと良い。
真琴様は足軽たちへ向き直った。
「黒坂家は、ただ黙って耐えろとは言わない。でも、勝手は許さない。困ってるなら上に言え。言わずに崩すのが一番だめ」
若い足軽の一人が、涙ぐんだ声で答えた。
「以後、気をつけます……」
「うん。じゃあ、厠掃除頑張って」
その締め方でよいのか、と一瞬思ったが、足軽たちの顔にはすでに“罰せられた者”の顔だけではなく、“見捨てられなかった者”の顔もあった。
皆が下がったあと、私は真琴様と二人、詰所に残った。
火鉢の炭が低く鳴る。
真琴様は疲れたように肩を回した。
私は、正直に言った。
「最初は、甘すぎると思いました」
「うん」
「ですが……理由を聞かずに罰していたら、たぶんまた別の形で乱れましたね」
「そう思う」
私は深く息をついた。
「秩序とは、ただ縛れば育つものではないのですね」
真琴様は少し笑った。
「縛るのも必要だけど、締めすぎると折れるからね。城って、人が住む場所でもあるし」
その言葉を聞いて、私はこの大津城暮らし編の最初に感じたことを思い出した。
城は石垣や堀だけでは成り立たない。台所、湯殿、寝所、そして人の心持ち――その全部で成り立つのだ。
「……勉強になりました」
「茶々も十分ちゃんとしてるよ」
「いいえ。私はまだ、乱れを見れば“締めねば”と先に思ってしまいます」
「それでいいんだよ。茶々が締める方を見て、俺が崩れる前を探す。たぶんそれでちょうどいい」
その言葉に、私は少しだけ肩の力を抜いた。
なるほど。城主夫婦とは、同じものを同じ目で見るばかりではないのだ。違う見方を持ち、それを合わせてようやく城が整う。
私は火鉢の向こうの真琴様を見た。
「では、私はこれからも厳しく参りますよ」
「お願いします」
「ただし、次に誰かが酒盛りをしたら」
「したら?」
「その“酒の日”の案は私が見直します」
真琴様は露骨に嫌そうな顔をした。
「え、それは困る」
私はそこで初めて、声を立てずに笑った。
城の掟とは、罰で締めるだけのものではない。暮らしを守るために、少しずつ育てるものなのだと、この夜私はようやく知った。




