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茶々視点外伝大津城暮らし編・①④⑧話・母上様の御殿、妹たちの居場所

大津城に暮らし始めて、しばらく経った。


 城の台所には朝の湯気が立ち、湯殿では薬湯の香が漂い、城下では黒坂の兵や町人たちがそれぞれの刻に合わせて動くようになってきた。

 “住む城”としての大津城は、ようやく息をし始めたのだと感じる。


 だが、城が息づき始めたからといって、そこに住む者の心がすぐに馴染むわけではない。

 とくに、母上様とお初、お江が暮らす東西の御殿は、整ってきたからこそ、逆にそれぞれの距離感がはっきり見えるようになっていた。


 私はその朝、母上様方の御殿へ向かった。


 東西御殿は、真琴様が義父・織田信長のための御成御殿と並ぶほど丁寧に造らせた建物だ。襖も欄間も美しく、廊下は磨かれ、庭もまだ若いながら整えられている。

 だが、美しいからこそ、最初は落ち着かぬ。人は不思議なもので、あまりに立派な場所へ置かれると、かえって自分の居場所ではないように感じるのだ。


 案の定、お江はそこをまったく“御殿”として扱っていなかった。


 「お江! 廊下を走るのはやめなさい!」


 私がそう言った時には、すでに遅い。

 お江は、庭へ続く渡り廊下を小鳥のように走り抜け、そのまま庭石の向こうへ消えてしまった。


 「はーい!」


 返事だけは良い。

 良いが、まったく足は止まらぬ。


 私はため息をつき、廊下に立っていた侍女へ言った。


 「転ばぬよう、離れて見ていて下さい。……あの子は止めても無駄です」


 「はい、御方様」


 侍女も、すでに諦め半分の顔である。

 大津城の広さは、お江にとっては格好の遊び場なのだろう。天守、渡り廊下、庭、見晴らしの良い縁側、少し入り組んだ御殿の曲がり角――どれもこれも“探検”に見えているに違いない。


 だが一方で、お初は正反対だった。


 お初は縁側に座り、庭の向こうを見ながら、はっきりと言った。


 「こんな広い城、落ち着かないわ」


 「広いからですか?」


 「広いからよ。どこに誰がいるのかすぐ分からないし、静かかと思えば、向こうの御殿の笑い声が変に響いてくるし。小谷の城とも安土とも違うわ」


 お初の言うことはわからぬでもない。

 大津城は水城らしく平たく広く、建物同士が渡り廊下や庭を挟んで繋がっている。小谷のような山城の密な感じとも、安土の圧倒的な威圧感とも違う。“開けている”がゆえの落ち着かなさがあるのだ。


 「それに」


 お初は少し声を潜めた。


 「ここ、まだ“私たちの場所”って感じがしないのよ」


 私はその言葉に、すぐには返事をしなかった。

 たぶん、お初だけではない。母上様も同じことを感じているはずだ。


 私はお初の隣へ腰を下ろした。


 「最初から“自分の場所”だと感じられる城など、ありませんよ」


 「姉上様はそういうけど」


 「私も最初はそうでした」


 お初が少しだけ意外そうな顔をした。

 私は笑わずに続ける。


 「黒坂家の御方様としてこの城へ入りましたが、最初からすべてが馴染んでいたわけではありません。台所も、湯殿も、食事の間も、ようやく“こうしたい”と手を入れて、少しずつ自分の居場所になっていったのです」


 お初は黙って聞いていた。

 こういう時、この子はちゃんと聞く。


 「だから、あなたも“落ち着かない”と文句を言うだけではだめ。ここでどう暮らすか、自分で決めなさい」


 「……姉上様、最近ほんとに家長みたい」


 「“最近”ではなく、最初からそのつもりです」


 そう言うと、お初は鼻を鳴らした。

 だが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたようにも見えた。


 その時、御簾の向こうから母上様が現れた。


 「茶々、お初。そこで何を話しているのです?」


 私は立ち上がり、軽く頭を下げた。

 母上様――お市は、変わらず美しかった。城を移っても、その立ち姿にはどこか張りがあり、浅井の姫であり、織田信長の妹であるという気配が消えぬ。

 けれど最近、その気配の奥に少しだけ“様子見”の色があるのを私は感じていた。


 この城に住む。

 だが、どこまでこの黒坂家の内側へ入ってよいのか。

 母上様はまだ、それを測っておられるのだ。


 「お初が、大津城は広くて落ち着かないと」


 私がそう言うと、母上様は小さく笑われた。


 「それはわかります。私も最初は、どこへいても“借りている”ような気持ちが抜けませんでしたから」


 やはりそうか。

 私は母上様のお顔を見た。母上様も、私の視線の意味をすぐに読まれたのだろう。


 「茶々、私は“黒坂家預け”の身です。名目とはいえ、そういう立場。あまり勝手をしてはならぬと、どこかで思ってしまうのですよ」


 その声は静かだった。

 だが、その静けさが胸に刺さる。


 母上様は預けられた身。

 たしかに形の上ではそうだ。けれど、真琴様も私も、母上様をただの“預かり者”として扱ったことは一度もない。

 それを、どう伝えればよいのだろう。


 ちょうどその時、向こうの廊下から真琴様の声がした。


 「茶々ー、お市様の御殿ってこっちで合ってる?」


 少し迷ったような声音に、私は思わず笑いそうになった。

 あの方は、この広い城でもたまに方角を見失う。


 「こちらです」


 私が返すと、真琴様はすぐにやって来た。

 今日も今日とて、政所から抜けてきたらしく、手には書付が何枚か挟まれている。


 「よかった。母上様、ちょっと頼みたいことがあって」


 その言い方に、母上様もお初も私も、一瞬きょとんとした。


 “預けられた身”に向かって、“頼みたいことがある”。


 それは、距離を置く者の言い方ではなかった。


 母上様が目を瞬かせる。


 「私に、ですか?」


 「はい。……あ、いや、もちろん無理ならいいんだけど」


 真琴様はそこだけ妙に気を遣う。

 だが言葉は続いた。


 「今度、大津城下の商家の代表と、それから北国街道の荷の扱いについて話をする場があるんだけど、女衆側の受けと、あと接客の座の整え方で、母上様に見てほしくて」


 私はすぐに意味がわかった。

 真琴様は政務の中核は自分で見るが、“人を迎える場”の格や空気づくりには、まだ不慣れなところがある。私は私で黒坂家の正室として動くが、母上様の経験と格は、そうした場でこそ生きる。


 母上様は少しだけ戸惑ったようだった。


 「……私が、そのようなことをしてよいのですか?」


 「むしろお願いしたいです」


 真琴様は迷いなく答えた。


 「茶々は政所と城下のことでもう手いっぱいだし、俺が全部気にすると抜けが出る。母上様に見てもらえたら、大津城の“迎える側”がちゃんとすると思って」


 その言葉に、私は胸の中で深く息をついた。

 そうだ。この方は、役割を自然に渡す。遠慮ではなく、信頼として。


 母上様のお顔から、わずかな緊張がほどけるのが見えた。


 「……そこまで頼られるなら、お受けしましょう」


 「助かります」


 真琴様は、心底ほっとした顔になった。

 お初がそのやり取りを見て、少しだけ目を細める。


 「母上様、これで“預けられた身”とか言えなくなりましたね」


 「お初」


 母上様は咎めるように名を呼んだが、その声に強さはなかった。

 むしろ、少しだけ笑っていた。


 「茶々」


 母上様が私を見た。


 「この城で、私にも役目があるということですね」


 「最初からそうです、母上様」


 私は即座に答えた。


 「大津城は黒坂の城であると同時に、私たち浅井の女たちが生きる場所にもなります。母上様がそこに重みを持って立って下さらねば、私も困ります」


 母上様はしばらく黙っておられたが、やがて静かに頷いた。


 「ならば、そういたしましょう」


 その時、遠くの庭からお江の声が響いた。


 「姉上様ー! 見てー! 池の向こうまで行けたー!」


 まったく、あの子は。

 空気を読んでいるのか読んでいないのか分からぬが、その声のおかげで場が少しだけ和らいだ。


 真琴様がくすりと笑う。


 「お江も元気そうでよかった」


 「元気すぎるのが問題なのですよ」


 私が言うと、お初も珍しく同意した。


 「それはほんとにそう」


 母上様まで、口元を隠して笑われる。

 先ほどまで少し固かった空気が、ようやく家のものになった気がした。


 その日の夕刻、私は東西御殿の廊下をゆっくり歩いた。


 向こうではお江の笑い声がし、こちらではお初が侍女に湯殿の支度について何やら言っている。母上様の御殿からは、接客の道具を確かめる声が聞こえてきた。

 人の気配が、御殿の隅々へ染みていく。


 “仮住まい”ではなく“暮らす場所”になるとは、こういうことなのだろう。

 ただ美しいだけの御殿では、人は落ち着かぬ。だが、そこに役目が生まれ、笑いが響き、文句が飛び交い、誰かを待つ声が重なれば、ようやくその場所は家になる。


 私は欄干越しに、夕暮れの庭を見た。

 大津城は、黒坂家の城である。

 だがそれだけではない。


 ここは、母上様の居場所にもなり、お初が文句を言いながら根を下ろす場所にもなり、お江が走り回って育つ場所にもなる。

 そして私にとっては、黒坂家と浅井の女たちをつなぐ城でもある。


 そう思うと、この東西御殿の意味がようやく、私の中でしっかり形を持った。

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